ネフィリムの森
しんと、世界からすべての音が消え去ったかのように静まり返っていた。
私たちは、あの二人組の兵士に教えられた通り、街道を外れて「ヒベルム高山」の峻険な山道へと足を踏み入れていた。標高が上がるにつれて、肌を刺すような空気の冷たさは一段と厳しくなり、濡れたドレスが体温を容赦なく奪っていく。息を吸い込むたびに、薄い空気が燃えるように肺を灼いた。
ここには、生き物の気配が一切なかった。鳥のさえずりも、獣の足音も、虫の鳴き声すらない。ただ、私たちの荒い呼吸音と、ぬかるんだ土を踏み締める足音だけが、不気味なほど鮮明に周囲の岩肌に反響している。植物さえも寒さに凍えているかのような、死に絶えた山。それがヒベルム高山だった。
険しい岩場を登り詰め、少し開けた高台へと辿り着いたとき、私は思わず息を呑んで足を止めた。
「ああ……」
眼下に広がっていたのは、言葉を失うほどの絶望の光景だった。
山脈の合間に位置する、北方の雄──リーライの美しき中心都市「スベルム」の全景が、そこから一望できたのだ。
しかし、かつて白壁と美しい尖塔で知られたその大都市は、聞いていた通り、いまや紅蓮の炎に包まれて激しく燃え盛っていた。夜の闇を焼き尽くさんとするほどの火柱が何本も立ち上り、立ち込める黒煙が天を覆っている。王都クロッセルに続き、この北方の要塞までもが、同じように地獄の業火に指定されていた。
だが、本当に悍ましかったのは、その火の海のさらに上空だった。
凄まじい質量が空気を切り裂く音が、遥か高みから響いてくる。
街を包む煙を割って姿を現したのは、巨大な二体の──ドラゴンだった。漆黒の鱗を持つその化け物たちは、互いを敵と見なしているのか、あるいは狂乱しているのか、空中で激しく身をぶつけ合い、互いの肉を引き裂き合っていた。
一頭が咆哮を上げ、口から濁流のような炎のブレスを吐き散らす。もう一頭がそれを巨大な翼で回避し、鋭い爪で相手の首筋を抉る。飛び散る鱗と血が、火の粉のように燃える街へと降り注いでいた。伝説の怪物が互いの命を貪り合うその光景は、あまりにも現実離れしていて、まるで神話の終末を見せられているかのようだった。
「お父様……カロン卿……世界はどうなってしまうの……」
私の心の支えが、音を立てて崩れ去っていく。カロン卿が治めるこの強大な地がこれほど無残に蹂躙されているのなら、この世界のどこに安全な場所など残されているというのだろうか。
その時だった。
──ドサッ!!
突如として、大気を圧迫するような重い衝撃音が、スベルムの街を眺めていた私たちの真後ろから響き渡った。
凄まじい風圧が背中を襲い、衣服が激しくなびく。心臓が跳ね上がり、冷たい汗が全身の毛穴から噴き出した。
ゆっくりと、恐怖に錆びついた首を後ろへと振り返る──。
「……!?」
背後に隠れていたリーシャが、短い悲鳴を上げて私の服の裾を破れんばかりに握り締めた。
そこにいたのは、紛れもない、一頭のドラゴンだった。
遠くのスベルムの上空で争っている巨大な竜たちに比べれば、いくぶん小ぶりではある。おそらくまだ若い個体なのだろう。──けれど、それでも私たちの身体を数倍は上回る巨躯を持ち、その頑丈そうな顎は、軍馬を一頭、骨ごと軽々と咥え千切れるほどの禍々しい大きさを誇っていた。
ギラギラと黄色く濁った瞳が、獲物を定めた肉食獣のように、じっと私たちを凝視している。その鼻孔から吹き出される熱い息が、山の冷気を白く濁らせ、ツンとする硫黄のような悪臭を漂わせた。
ドラゴンの喉の奥が、ゴロゴロと不気味な音を立てて鳴り始める。攻撃の予兆だ。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……!」
リーシャの声が恐怖で細く震え、今にも泣き出しそうだった。
私は必死に恐怖を噛み殺し、腰の後ろに隠した手で、先ほどアッシュたちから渡された、魔導具を固く握り締めた。
「……大丈夫だから。そのままじっとしてるのよ」
私は極限まで声を潜め、リーシャだけに聞こえるように小声で囁いた。
「今から、お姉ちゃんがこれを向こうの岩に投げるわ。そうしたら、強い光が出るはずだから……その瞬間に、後ろを振り返らずに一緒に走るの。分かった?」
「う、うん……」
猶予はなかった。ドラゴンの前足の鋭い爪が、岩肌をガリガリと削り、今にもこちらへ飛びかからんとする体勢に入った。
「──!!」
私は持てる限りの力を振り絞り、巨大な岩へと向かって思いっきり投げつけた。
パリンッ!! と、静寂の山に澄んだ破片が飛び散る音が響く。
「今よ!! 走って!!」
私はリーシャの手を強く引き、全力で反対方向へと駆け出した。
背後で、岩に当たって割れた小瓶から、封印されていた青い魔力の液体がドロリと漏れ出し、夜の闇を爆発的な眩い閃光で染め上げる。それと同時に、濃厚な魔力の残滓が周囲に霧散したのだろう。
グオォォォォォォッ!!!
ドラゴンが激しい咆哮を上げ、私たちの存在を完全に忘れたかのように、青い光と魔力の臭いが漂う割れた瓶の方へと猛然と突進していく音が聞こえた。
「はぁ、はぁ、はぁ、っ……!」
私たちは一瞬の隙を突き、険しい岩場を転がるようにして駆け下りた。何度も足を取られ、膝を突き、ドレスの裾がボロボロになろうとも、決して繋いだ手を離すことはしなかった。背後から聞こえるドラゴンの咆哮が遠ざかっていく。
そうして私たちは、命からがら高山を駆け抜け、その麓に広がる深い森の入り口へと辿り着いたのだった。
────
「はぁ……はぁ……、お姉ちゃん、この森って……」
森の入り口で木々に身を隠しながら、リーシャが荒い息を吐きつつ、不安そうに奥を見つめた。
木々は異常なほどに鬱蒼と茂り、まるで侵入者を拒むかのように枝葉を複雑に絡み合わせている。昼なお暗いであろうその森は、夜のいま、完全な暗黒の魔窟と化していた。
私は自分の乱れた呼吸を整えようと努めながら、リーシャの小さな手を両手で包み込んだ。
「大丈夫よ。あの山にいたオークやドラゴンより、酷い事は起きないわ。ここにはリーライの兵士たちや、避難した人たちがいるはずだから」
アッシュたちが言っていた「リーライの兵士たちが住民を逃がした森」とは、間違いなくここだ。カロン卿の配下たちがいるのなら、必ず私たちを保護してくれる。
私はリーシャの手を取り、ゆっくりと慎重に、森の奥へと向かって歩みを進めた。
私たちが険しい高山を抜ける頃には、それまで世界を濡らしていた激しい雨は、いつの間にか止んでいた。
だが、天の恵みかと思われたそれは、さらなる悪条件の始まりに過ぎなかった。雨が止んだ代わりに、今度は森の地面から、足元さえも満足に見えない程の、濃く不気味な白い霧が立ち込めてきたのだ。
「ひどい霧ね……」
冷たく湿った霧が、肌にまとわりつく。一寸先も見えないほどの白濁した世界の中、私たちは方向感覚を失わないよう、互いの存在だけを頼りにしばらく歩き続けた。
目指すのは、避難民たちが集まっている拠点の平原。リーライ(スベルム)の街とは完全に反対方向へと向かって進み、森の中へ避難した人々を必死に探す。
しかし、歩いても、歩いても、人の気配は全く無かった。
聞こえるのは、ただ不気味に流れる霧の音と、私たちの足音だけ。
「お姉ちゃん……」
ついにリーシャが立ち止まり、泣き出しそうな声で私の袖を引いた。
「きっと、もう誰もいないよ……。みんな、どこか遠くへ行っちゃったんだよ……」
弱気になる妹の気持ちは痛いほど分かった。私だって、この圧倒的な静寂に押しつぶされそうだった。けれど、ここで私が諦めたら、二人の命はここで途絶える。
「あ、諦める訳にはいかないの、リーシャ。だって、ここにみんなが集まっているって、あの人達が言っていたもの。きっと奥の方に──」
「あっ!?」
言いかけたその時、リーシャが何かに足を躓かせ、つんのめるように身体を前に傾けた。
私が彼女の手を強く握り締めていたおかげで、引っ張り上げるようにして支えることができ、リーシャが地面に転ぶ事はなかった。
「大丈夫!? 怪我は!?」
「う、うん。大丈夫。でも……いま地面になにか……。お、お姉ちゃん! あ、あれ……」
リーシャが、自分の足元を指差したまま、恐怖で完全に硬直していた。その小さな指先は、カタカタと小刻みに震えている。
「どうしたの? 先を急がないと──」
不審に思いながらも、私は妹が指さす地面へと視線を落とした。
「なに、これ……!?」
白く立ち込める霧の合間から露わになったその光景に、私の心臓は一瞬にして凍りついた。
そこに転がっていたのは、人間の死体だった。
しかし、それは通常の死ではない。周囲の不気味な大木の根や蔓が、まるで蛇のようにその肉体に複雑に巻き付き、皮膚を突き破って体内にまで侵入していた。まるで、身体を植物に同化されるように、文字通り「喰われている」のだ。
衣服は引き裂かれ、その隙間から見える肌は、すべての血液と生気を吸い尽くされたかのように、悍ましいほど青白く変色している。目は見開かれたままで、その虚ろな表情には、死の間際に味わったであろう凄まじい絶望と苦悶が張り付いていた。
それだけではない。霧が微かに晴れたその先には、同じような姿で行き絶えている無数の「肉塊」が、点々と転がっていたのだ。ある者は子供を抱いた母親であり、ある者は老人だった。
そして、よく見ると、その死体の中には、見覚えのある「青と銀」の──リーライの紋章が刻まれた頑丈な鎧を着ている兵士の姿もあった。
最悪の光景だった。
避難民たちは、魔物から逃れてこの森にやってきたのではない。この森そのものが、生者を喰らう場所だったのだ。彼らはここで、静かに植物たちに捕食されたのだ。
「ごめんね、リーシャ……。お姉ちゃんが間違っていたわ」
私は恐怖で吐き気を催しそうになるのを必死に堪え、リーシャの前に屈んで目線を合わせた。私の声は、恐怖でガタガタと震えていた。
「は、早く、この森から出ましょ。ここはいちゃいけない場所よ。すぐに引き返すの」
「お姉ちゃんは、何も悪くないよ……」
リーシャは怯えながらも、健気にも私を気遣うような言葉を返してくれた。その優しさに胸が締め付けられる。
私は少しだけ、妹を安心させるために無理な笑顔を作ってみせた。
「ありがとう。さあ、行きましょ……」
手を引き、いま来た道を戻ろうときびすを返した、その瞬間だった。
──バキッ。
静寂に包まれた森の奥から、乾いた木の枝が激しく折れる音が、明瞭に響き渡った。
────
私は弾かれたように振り返った。
濃い霧の向こうから、巨大な影がゆっくりと、しかし確実にこちらへと近づいてくるのが見えた。その質量は、人間を遥かに凌駕している。
「人間。俺達からは隠れられない」
低い、地響きのような悪魔の声。
直後、霧が大きく引き裂かれた。凄まじい風圧とともに現れたのは、巨大な鉄の大剣を肩に担いだ、醜悪な巨人──トロールだった。
皮膚は岩のように硬く灰色で、らんらんと輝く黄色い眼球が、私たちの姿を捉えて卑しい歓喜に歪む。その口からは、濁ったよだれが絶え間なく滴り落ち、地面の苔を腐らせていた。
「トロール!? どうしてここまで……!?」
リーライを襲っていた軍勢の一部が、すでにこの森にまで追撃にきていたのだ。
「人間、食う! 柔らかい、美味い!」
トロールが耳を聾するほどの咆哮を上げ、その巨大な剣を振り下ろしてきた。
「きゃああっ!!」
私はリーシャの腕をなりふり構わず引っ張り、決死の覚悟で反対方向へと走り出した。直後、さっきまで私たちがいた地面に巨剣が叩きつけられ、泥と木片が爆発したように弾け飛ぶ。
「走って、リーシャ! 前だけを見て走るのよ!」
必死に叫びながら、木々の隙間を縫うようにして逃げる。
トロールは奇妙な、低く耳障りな笑みを浮かべながら、ドスンドスンと地響きを立てて私たちの後を追ってきた。
彼らの一歩は、私たちの十歩に匹敵する。
まともに走って、私たちの足でトロールから逃げ切ることなど、最初から困難だと分かっていた。一本一歩の足音が近づくたびに、背中に死の冷気が迫るのを感じる。
それでも、足を止めるわけにはいかない。止まれば、その瞬間に巨大な顎で噛み砕かれ、化け物の胃袋に収まるだけだ。
必死に、ただ必死に逃げ続けるしかなかった。
自分の肺が破れるのではないかと思うほど激しく呼吸を繰り返す。
どれほど森の中を逃げ続けて、逃げ続けたろうか。周囲の景色は霧のせいで全く変わらず、ただ白い闇が延々と続いているように思えた。
「お姉、ちゃ……」
ついに、限界が訪れた。
体力の乏しいリーシャの足がもつれ、ぬかるんだ木の根に引っかかって、地面に激しく倒れ込んでしまったのだ。
「リーシャ、ダメよ! 立って、頑張って!」
私は急いで彼女の元へ戻り、その脇に手を差し入れて引き上げようとした。しかし、リーシャの身体は完全に弛緩しており、立ち上がるだけの筋力はもう残されていなかった。
「お姉ちゃん……もう無理……足が、動かないよ……走れない……」
リーシャの目から、大粒の涙が溢れ落ちる。
「諦めちゃダメよ! 私が背負ってあげるから! ほら、私の背中に捕まって!」
私は無理矢理に背中を向けた。だが、子供一人を背負って、あの怪物の速度から逃げ切れるはずがないことなど、私自身が一番よく分かっていた。
「スン……お姉ちゃんだけでも、逃げて……。リーシャは、もういいから……」
妹のその言葉に、胸が激しく痛んだ。
あんなに走ったはずなのに、霧の向こうからドスン、ドスンという不気味な足音が、すぐ目の前まで迫って来ていた。それどころか、私たちはこの森から出ることすら出来ていない。
あたりを見回して、私は絶望的な事実に気づいた。
霧で方向感覚を完全に見失ってしまっていたみたいだ。私たちは森の出口に向かうどころか、霧の迷宮の中で、同じ場所をぐるぐると回っていただけだったのだ。
「お姉ちゃん……ごめんね……リーシャのせいで……」
違う。リーシャのせいなんかじゃない。
全部、私のせいだ。私がカロン卿の援軍という不確かな希望にすがり、この安全だと言われた森にリーシャを連れ込んでしまったからだ。私の見通しが甘かったせいで、このままだと、二人とも生きたままあの醜悪な化け物に食べられてしまう……。
でも、妹を置いて一人で逃げるなんて、私には絶対にできない。そんなことをするくらいなら、ここで──。
霧の向こうから、トロールたちの濁った笑い声と、巨体が近づいてくる足音がすぐそこまで迫る。
このまま捕まって、生きたまま肉を千切られ、苦しんで死ぬぐらいなら、いっそのこと……。
私は決意を固め、短剣を抜き放った。刃が鈍く光る。最愛の妹の首筋を一突きし、その後で自分の喉を突く。姉としての、せめてもの、最期の尊厳を守るための心中。
私は涙を流しながら、短剣を強く握り締め、覚悟を決めた。
その時だった。
──ギ、ギャァァァァァァァァッッ!!??
突如として、霧の向こうから、トロールたちのものと思われる、聞いたこともないような凄まじい悲鳴と絶叫が響き渡った。それは獲物を追い詰めた者の余裕など微塵もない、純粋な絶望と痛みに狂った絶叫だった。
ガタンッ!!!
凄まじい金属音が響き、トロールが持っていたはずの巨大な鉄の大剣が、霧の向こうからもの凄い勢いで吹き飛んできた。そして、私たちからわずか数歩しか離れていない目の前の地面に、深く、深く突き刺さった。大剣の重みで、周囲の土が大きく跳ね上がる。
私は息を呑み、恐る恐る、その突き刺さった大剣の影に身を隠すようにして、悲鳴の聞こえた先──霧の向こうの光景を覗き込んだ。
「なに……これ……」
そこに広がっていたのは、凄惨さそのものの、悪夢を超える地獄絵図だった。
────
森の木々が、変貌していた。
それまで静かに佇んでいたはずの大木たちの表面の皮が、内側から弾けるようにベリベリと裂け、その隙間から赤黒い、太い血管のようなものが無数に浮き出ていた。さらに悍ましいことに、幹の至る所に、人間の「口」の形をした無数の裂け目が開き、そこから歯を剥き出しにして、奇妙な、飢餓に満ちた声を上げてのたうち回っている。
木々は生き物のように次々と太い蔓を触手のように伸ばし、巨体を誇るトロールたちの身体をがんじがらめに縛り上げていた。トロールが怪力で引きちぎろうとするが、それ以上の数の蔓が次から次へと群がり、彼らの四肢を拘束していく。
そして──蔓の先端にある鋭い棘がトロールの硬い皮膚を突き破り、その肉を、内臓を、次々と貪り喰い、血を吸い上げていたのだ。
「ギ、ガァァァッ! 離せ、離せぇっ!」
トロールが絶叫を上げるが、無数の「口」を持つ木々は、咀嚼音を響かせながら、巨人の肉を容赦なく引き裂いていく。バリバリ、ボキボキと、骨が砕け、肉が捩じ切れる悍ましい音が霧の中に響き渡り、緑色のトロールの血液が雨のように周囲の植物に降り注いだ。
私はあまりの恐ろしい光景に、完全に言葉を失い、悲鳴を上げることさえ忘れて硬直していた。
先ほど見つけた、植物と同化していた避難民たちの姿が脳裏をよぎる。彼らも、こうしてこの人喰い樹たちに捕らえられ、生きたまま養分として吸い尽くされたのだ。
トロールという強大な魔物すら、この森にとってはただの「餌」に過ぎなかった。
バキバキと音を立てて、トロールの巨体が完全に妖樹の肉塊へと変わっていく。
その時だった。
ゾクッ、と全身の鳥肌が立つような、圧倒的な悪寒が私を襲った。
目はないはずだった。しかし、トロールを喰らい尽くそうとしている木々の一つが、明確に、すぐ側にいる私たちの存在に「気が付いた」──そんな確信めいた恐怖が、空気を通じて伝わってきた。
無数の血塗られた「口」が、一斉に私たちの方へと向きを変える。
「リーシャ……っ!」
逃げようと、私が妹の身体を抱き寄せた、まさにその瞬間。
バリバリバリッ!!! と、私たちの足元の地面が、まるで底が抜けたかのように轟音を立てて激しく崩落した。
一瞬の出来事だった。私には逃げる暇も、何かに掴まる猶予すらも与えられなかった。
足場を失った私たちの身体は、重力に従って、そのまま下方の暗闇へと真っ逆さまに落下していく。
「お姉ちゃん、ああっ!!」
「リーシャ!!」
私は落ちていく浮遊感の中で、必死にリーシャの小さな身体を自分の胸の中へと抱き寄せ、自らの身体が盾になるように彼女を強く、強く抱きしめた。
上空を覆っていた白い霧が、急速に遠ざかっていく。
私たちの身体を飲み込んだその巨大な穴の底には、光など一筋も届かない、完全な暗黒の世界が広がっていた。
激しい落下の衝撃と、頭部への強い圧迫感。
視界はみるみるうちに真っ白になり、やがて、完全な静寂と真っ暗な意識の底へと、私たちは深く沈んでいった──。




