泥濘の覚醒
「お…………ちゃん…………」
遠くで、誰かが私を呼んでいる。
水の中に沈んでいるかのように、その声は酷くこもって聞こえた。耳の奥でキーンと不快な耳鳴りが響き、思考が上手くまとまらない。身体が鉛のように重く、指先一つ動かすのにも、泥の沼から這い上がるような悍ましい労力を要した。
「ウゥ…………ウゥン…………」
自分の口から漏れたのは、言葉にもならない掠れた呻き声だった。ひどく頭が痛い。後頭部を鈍器で殴られたかのような、ズキズキとした拍動を伴う痛みが脳を揺さぶる。
ゆっくりと、薄皮を剥ぐようにして微かに戦慄く気力を振り絞り、私は瞼を開こうとした。
「お姉ちゃん!! お姉ちゃん!!」
今度ははっきりと聞こえた。その声の主を、私はよく知っている。
私の、たった一人の大切な──。
ボヤけている視界に、涙と雨水で歪んだ、誰かの顔の輪郭が微かにうつる。視界のピントが合うまでに、ひどく時間がかかる。冷たい水滴が容赦なく私の顔に叩きつけられ、それが意識を覚醒させる呼び水となった。
「お姉ちゃん!!」
「リー……シャ?」
ようやく、その名前を呼ぶことができた。喉がカラカラに渇いていて、声はひどく掠れていたけれど、間違いなく私の愛する妹の名前だった。
次の瞬間、私の視界が小さな身体によって遮られた。
「お姉ちゃん、無事で良かった……! 良かったぁ……!」
妹は、雨で泥濘んだ地面に仰向けで倒れていた私に、狂おしいほどの力でしがみついてきた。その小さな身体は、寒さと恐怖のためにガタガタと激しく震えている。
まだ幼いリーシャと、身体のどこからか温かい血を流している私。そんな二人に対して、天はどこまでも冷酷に、容赦のない大粒の雨を降らせ続けていた。
私は、自分にしがみついて声を上げて泣くリーシャの背中に、そっと手を回した。泥と雨水でぐしょぐしょになった彼女の衣服の感触が、手のひらを通じて伝わってくる。その背中を、落ち着かせるように優しく、何度も何度もさすった。
「大丈夫よ、リーシャ……。私はここにいるわ……」
そう声をかけながらも、私の頭の中は混乱の極みにあった。
自分の身に、一体何が起きたのだろうか。
王都クロッセルを馬車で脱出し、ひたすら北へ、カロン卿の待つリーライへと向かっていたはずだ。嵐の中、暗い街道を猛スピードで駆け抜けていた、その後の記憶がぷつりと途切れている。
私はリーシャを抱きしめたまま、首だけをかろうじて動かし、辺りを見渡した。
「あ……っ」
言葉を失った。
少し離れた場所に、激しく炎を上げ、黒煙を燻らせている馬車が転がっていた。いや、炎は激しい雨によって消えかけているが、木製の車体は無惨に引き裂かれ、見る影もない。馬車は路肩の斜面に半分落ちるようにして、斜めに傾いて突っかかっていた。おそらく、何らかの衝撃によって横転し、大破したのだ。
そして、その周囲の光景は、さらに私の心を凍りつかせた。
すぐ側には、私たちの護衛をしてくれていた兵士たちが、不自然な格好で地面に倒れていた。ピクリとも動かない。彼らの自慢の銀の鎧は泥まみれになり、雨水によって薄められた赤い血が、地面の泥水と混ざり合って不気味な斑模様を作っていた。
「リーシャ……」
私は声を震わせながら、胸の中の妹に問いかけた。
「他に……誰か……無事な人はいる?」
リーシャは、私の胸に顔を埋めたまま、悲しい顔をして小さく首を横に振った。
「み、みんな息をしてないの……。お姉ちゃんだけは、体が動いて、息をしていたから……。で、でも、お姉ちゃんは頭からいっぱい血が出てたし、ず、ずっと目を覚まさないから。だから……だから、リーシャ、本当に一人ぼっちになっちゃうかと思って……。それで……それで……っ」
話しているうちに、恐怖がフラッシュバックしたのだろう。リーシャの呼吸が急激に荒くなっていく。
「おねえちゃん、わたし、一人で……っ」
パニックのあまり、彼女は過呼吸を引き起こし始めていた。小さな胸が激しく上下し、酸素を上手く吸い込めずに顔色が急速に悪くなっていく。
「大丈夫、大丈夫よ、リーシャ! 息を吐いて、そう、お姉ちゃんの真似をして。吸って、ゆっくり吐いて……」
私は自分の痛む身体のことも忘れ、リーシャをさらに強く抱きしめ、背中を優しく擦った。彼女の耳元で、できる限り優しく、そして芯のある声で語りかける。
「お姉ちゃんがついてるからね。何があっても、あなたを絶対に一人になんかしないわ。絶対に離さない。だから安心して、大丈夫だから」
何度も、何度も呪文のようにその言葉を繰り返した。私の胸の鼓動を彼女に伝えるように、しっかりと密着させる。
その必死の呼びかけが届いたのか、リーシャの激しい呼吸が、徐々に規則正しいものへと戻っていった。
「スン……うん……うん、お姉ちゃん……」
まだ鼻をすすり、しゃくり上げてはいるものの、最悪のパニック状態からは脱したようだった。私はホッと深く安堵の息を漏らし、それから自分の頭にそっと手を当てて、怪我の具合を確かめた。
こめかみのあたりに触れると、ぬるりとした生暖かい感触があった。指先を見ると、雨水に薄まった血がべっとりとついている。だが、触れてみた感覚からすると、骨に異常はなさそうだった。頭部の傷は血が多く出るというが、幸いにも意識がはっきりしてきたところを見るに、致命傷ではない。
「良かった……。リーシャ、見て。お姉ちゃん、ただの擦り傷よ。これくらい大したことないわ。だから心配しないで」
私はわざと大袈裟に微笑んでみせた。幼い妹をこれ以上不安にさせるわけにはいかない。王女としてのプライド云々ではなく、いまの私には「姉」としての責任がすべてだった。
「本当……? 本当に大丈夫?」
「ええ、本当よ。さあ、いつまでもこうして泥の中に転がっているわけにはいかないわね。立つから、少し手伝ってくれる?」
「うん、分かった」
リーシャに小さな手を貸してもらい、私はぬかるむ地面に足を踏ん張って、ゆっくりと身体を起こした。
「うっ……いたっ!?」
立ち上がろうとした瞬間、全身に走った激痛に、思わず声が漏れてしまった。
「お姉ちゃん大丈夫!?」
リーシャが飛び上がるようにして心配そうな顔を覗かせる。
「大丈夫よ、驚かせてごめんね」
私は無理に笑顔を作ったが、内心では冷や汗が流れていた。思ったよりも、ドレスに隠れた腕や膝にも、酷い擦り傷や打撲を負っていたみたいだ。動かすたびに、皮膚が引き裂かれるような痛みが走る。馬車が横転した際、私はリーシャを庇って外に放り出されたのかもしれなかった。だからリーシャは奇跡的に無傷で、私だけが傷だらけなのだ。
「リーシャ、お姉ちゃんは平気だから……もう一度、みんなの様子を確かめてくれる? お祈りを捧げたいの」
「う、うん……分かった。待っててね」
リーシャは健気に頷くと、倒れている兵士たちの方へとトボトボと歩いていった。
一人になった私は、降り止まない雨に打たれながら、重い頭を上げて遥か上空の空を見つめた。
その瞬間、私の全身の血液が、一瞬にして凝固したかのような錯覚に囚われた。
ピカッと走る雷光の向こう。
黒雲が渦巻く嵐の空を、見たこともない禍々しい巨影が舞っていた。
──ドラゴンだ。
伝説や絵本の中でしか見たことのない、漆黒の鱗を持つ巨大なトカゲのような怪物が、巨大な翼を広げて空を支配していた。そのドラゴンが、遥か遠くの森に向けて、大きく顎を開く。
直後、夜の闇を塗り潰すような、禍々しい青黒いブレスが放たれた。
ドン!!!
凄まじい爆発音が遠くから響き、青黒い光が森の一角を爆炎とともに消し去っていくのが見えた。その圧倒的な破壊力を前にして、私はただ、立ち尽くすことしかできなかった。
オークやトロールの軍勢だけでなく、あんな化け物までがこの国を襲っているというのか。
東の空は未だに深い闇に閉ざされている。夜が明けるには、まだ長い時間が掛かりそうだった。
────
私たちは結局、動かなくなった兵士たちの遺品から最低限の荷物をまとめ、二人だけでカロン卿のいるリーライを目指す事となった。
馬車は完全に壊れ、馬たちもどこかへ逃げてしまったか、あるいは……。生き残ったのは、私と幼い妹の二人だけ。絶望的な状況だったが、ここに留まっていても、あのオークの軍勢や上空のドラゴンに見つかれば、待っているのは確実な死だけだ。歩くしかなかった。
激しい雨の中、雷までもが容赦なく鳴り響き、私たちの行く手を阻む。
ピカッと世界が白く染まるたびに、ドンと腹に響く雷鳴が轟く。そのたびに、怯えるリーシャは私の手を強く握り締め、私にぴったりと寄り添うようにして側を歩いていた。
「大丈夫よ、リーシャ。お姉ちゃんがちゃんと前を見ているからね」
そう声をかける私の声も、雨音にかき消されそうになる。
──私だって、内心は怖くてたまらない。
王宮という温室の中で、何不自由なく育てられてきた身だ。こんな泥まみれの荒野を、護衛も連れずに歩いたことなど一度もない。頭の傷はズキズキと痛み、濡れたドレスは体温を容赦なく奪っていく。足元はぬかるんでいて、一歩進むたびに靴が泥に取られそうになる。
叫び出したいほどの恐怖と、すべてを投げ出してしまいたいという疲労感が、波のように何度も押し寄せてくる。
でも、妹の前で弱気になってはいられない。
今、リーシャが頼りにできるのは、世界で私しかいないのだから。
(私は王女よ。しっかりしなさい、サーシャ)
心の中で、何度も何度もそう自分に言い聞かせ続け、奥歯を噛み締めて足を前に進めた。
しばらく歩き、リーライの領地へと入ったと思われる農村部の郊外に差し掛かった時のことだった。
ガサガサッ、と。
雨音に混じって、私たちの進行方向にある茂みが、明らかに不自然で怪しい音を立てた。
私はハッとして足を止めた。リーシャも息を呑み、私の背後に隠れる。
その直後、茂みから二つの獰猛な影が、凄まじい勢いで飛び出してきた。
「はっ!?」
「止まれ!」
一瞬にして間合いを詰められ、視界の前にギラリと光る鉄の刃が突きつけられた。
剣を向けられている。心臓が跳ね上がった。追手か、それともこの混乱に乗じた野盗か。
私はすぐにリーシャを自分の後ろに完全に隠した。そして、ボロボロになったドレスの腰の帯に、密かに忍ばせていた短剣の柄に手をかけた。これは、先ほど亡くなった兵士の腰から拝借したものだ。
「私たちは武器も何も持っていないわ。ただの旅の者よ」
私は声を努めて冷静に保ちながら、相手の出方をうかがった。
これでも、王女の嗜みとして、そして護身のため、宮廷の剣術指南役から剣の扱いは一通り習ってきた方だ。もし相手が襲ってくる野盗であれば、隙を突いてこの短剣で喉元を突き刺す覚悟はできていた。
だが、現れた二人組の男たちは、私の予想とは少し異なる反応を示した。
彼らは揃いの、しかし戦いによって随所に傷がついた堅牢な鎧を身につけていた。剣を突きつけてきた男は、鋭い眼光をこちらに向けていたが、私の姿をじっくりと見て、ふっと破顔した。
「なんだ、人間か」
「だから言っただろ、アッシュ。魔物の気配じゃないって」
後ろに控えていたもう一人の男が、呆れたような声を出す。
堅牢な鎧を身につけた二人組の男は、緊迫した状況だというのに、何やら緊張感のない言い合いを始めた。
「あ、貴方達は……?」
私が警戒を解かずに問いかけると、アッシュと呼ばれた、剣を向けていた方の男が頭を掻きながら言った。
「そうだな。まず俺達は賊じゃない。怪しい奴らが歩いてると思って警戒しただけだ。ほら、俺も剣をしまうから、君もその懐の手を離して、しまってくれるか?」
男はそう言うと、器用に剣を回して、すぐにチャキリと音を立てて鞘に収めた。
だが、私はそのまま動く気はなかった。懐の短剣から手は離さない。こんな状況で、見ず知らずの男の言葉を鵜呑みにできるほど、私はお人好しではいられなくなっていた。
「はは、用心深いな。まあいいさ、このままでも。無駄な争いは好まない。──それで、君たちはクロッセル(王都)から来たのか?」
男のその質問に、私は息を呑んだ。
「ええ……そうよ。貴方達は?」
「リーライだ」
今度は、後ろにいた男が短く答えた。
彼は、剣を向けていたアッシュという男とは対称的で、佇まいが静かで、どこか信心深い騎士のような雰囲気を纏っている男性だった。その瞳には、私たちに対する明確な敵意や卑しい欲望は感じられない。
「おいおい、もしかして、これからリーライの街に行くつもりか?」
アッシュが怪訝そうな顔で聞いてくる。
「ええ、そうよ。そこを目指しているわ」
「こりゃたまげたな。クロッセルもドラゴンに襲われてるとはな」
「おい、アッシュ。彼女たちはドラゴンに襲われたとは一言も言ってないだろ」
後ろの騎士が嗜めるが、アッシュは気に留めない。
「二人はどうして、こんな嵐の夜にリーライに向かおうとしてるんだ?」
私は、彼らがカロン卿の配下の者である可能性に賭け、本当のことを口にすることにした。
「オーク達の軍勢が、王都に攻めて来たの。防衛線が破られて……。それで、リーライの領主であるカロン卿に、救援を頼みにいくところよ」
私の言葉を聞いた瞬間、二人の男の表情が、目に見えて暗く沈んだ。
二人は顔を見合わせ、何とも言えない重苦しい沈黙がその場に流れた。
「……なんと言ったらいいか。お嬢ちゃん、リーライは、その……」
後ろの騎士が、言葉を濁しながら言った。その声には、深い同情と、どうしようもない諦念が混ざっている。
だが、前のアッシュは、その残酷な現実を包み隠さず口にした。
「ぜんぶ、燃えちまったよ」
「……え!?」
アッシュの言葉が、すぐには理解できなかった。
頭の中が真っ白になる。雨の音が、急に遠くなったような気がした。
「アッシュ、言い方があるだろう!」
後ろの騎士が声を荒げてアッシュを咎める。
「本当の事を言っただけだ。お前はいつも言葉を選び過ぎるんだよ。期待を持たせて後から落とす方が残酷だろ」
「しかし、彼女たちは命からがらここまで──」
「お前は思ったことを口に出すしか脳がないからな、悪口は後にしてくれ。現実を見ろよ」
二人が何かを言い合っているが、その声は私の耳には届かなかった。
「そ、そんな……」
膝の力が抜けそうになり、かろうじて踏みとどまる。
リーライが、全部燃えた?
そんなはずはない。カロン卿の治めるリーライは、我が国でも屈指の軍事力を誇る要衝のはずだ。鉄壁の防御を誇る彼らの領都が、跡形もなく燃え尽きたというのか。
お父様は言っていた。
──『カロン卿はお前の為なら、自らの命すら、惜しまないだろう。だから、彼を信じてリーライへ走れ』
その言葉だけを、最後の希望の光として、私はここまで泥にまみれながら歩いてきたのだ。カロン卿の元へ辿りつけば、強力な軍隊が私たちを守ってくれて、王都を奪還するための援軍を出してくれると、そう信じていた。
なのに、その行き先が、すでに滅びているなんて。
一体……一体これから、私たちはどうすればいいの?
父もいない。家もない。兵士たちも死んでしまった。そして、目指すべき場所さえも失われた。
絶望が、冷たい泥のように私の心を侵食していく。後ろで私の服の裾を握るリーシャに、どんな顔を向ければいいのか分からない。
「いいか。こういう時はな~」
アッシュが何かを言いかけ、調子よく私の前に足を進めようとした。
「黙ってろ」
後ろの騎士が、アッシュの肩を強く掴んで後ろへと引き戻した。アッシュは両手をすくめて上げ、やれやれと呆れた顔をして後ろへと下がった。
もう一人の信心深い騎士のような男が、ため息をつきながら、鎧のポケットから一枚の古びた地図を取り出した。そして、私を刺激しないようにゆっくりとした足取りで、私の側まで歩み寄ってきた。
「取り乱すのも無理はない。だが、全滅したわけじゃないんだ」
彼は地図を広げ、雨に濡れないように自分の身体で遮りながら、指で一つの場所を指し示した。
「リーライの街自体は、例のドラゴンの奇襲を受けて壊滅状態だ。だが、カロン卿の率いる兵士たちが、住民を逃がしているのを俺たちは見た。近くの森だ。確か……このあたりだ」
地図に記された、リーライの街から少し離れた深い森の領域。
「もし、どうしてもリーライ(カロン卿の軍)に合流するつもりなら、このまま街道を進むのは勧めない。街道は魔物の進路になっている可能性が高いからな。こっちの、高山を通って迂回して行った方がいい。険しい道だが、街道よりは確実に安全だ。追手も撒ける」
彼の言葉は、闇の中に一筋の奇妙な導きを与えてくれた。
街は燃えたが、カロン卿の軍は生きている。住民を逃がしながら、まだ戦っているのだ。
その時、遥か遠く、都市があると思われる方角から、空気を引き裂くようなドラゴンのけたたましい咆哮が聞こえてきた。先ほど見た、あの禍々しい怪物の声だ。地響きのようなその鳴き声に、私の後ろでリーシャが小さな悲鳴を上げて私にしがみつく。
男二人も、一瞬にして表情を引き締めて街の方角を睨みつけた。
時間がなかった。ここに長居をすれば、あの怪物に見つかるかもしれない。
「あ、ありがとう……教えてくれて」
私は混乱する頭をどうにか動かし、騎士の男性にお礼を言った。
「気を付けてな、お嬢ちゃんたち。それと……これを」
騎士の男は、首から下げていた小さな、青く光る結晶のついたアミュレット(お守り)を外し、私に差し出してきた。
「これは?」
「気休めかもしれないが、軽い魔導具だ。魔力を流すか、強く投げつければ、強烈な光を放ってドラゴンの気を反らしてくれる。万が一、あいつに見つかった時は、これを使って盲目的に逃げろ」
私は差し出されたその結晶を、震える手で受け取った。手のひらに収まるその小さな輝きが、いまの私たちにとっての唯一の武器だった。
「感謝します。貴方たちの行く手にも、神の加護があらんことを」
私が王族としての本来の挨拶を口にすると、騎士の男は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに恭しく胸に手を当てて一礼した。アッシュもまた、ニカッと笑って手を振ってみせる。
「じゃあな、生き残れよ!」
二人の男はそう言い残すと、再び激しい雨が降る闇の向こうへと消えていった。
残されたのは、私とリーシャの二人だけ。
私は受け取った結晶を握り締め、教えられた高山の方角、暗い山の稜線を見つめた。
リーライは燃えてしまった。けれど、カロン卿は生きているはずだ。お父様があれほど信頼を寄せていた人が、簡単に死ぬはずがない。
「行きましょう、リーシャ。高山を越えるわ」
「うん……お姉ちゃん」
私たちは手を固く繋ぎ合い、再び歩き出した。絶望の雨は降り止まないが、私たちの足跡は、確実に未知なる運命のへと向かっていた。




