潰える日常
天を切り裂く雷鳴が、夜の闇を幾度も白々と照らし出す。だが、その天災の轟きさえも、いま王都を包み込んでいる絶望の音を掻き消すことはできなかった。
「早く避難しろ!! 遅れるな、城へ走れ!」
王都城下──。ふだんならば賑やかな活気に満ちているはずの大通りは、いまや恐怖に狂った人々の悲鳴と、松明を掲げた兵士たちの怒号で埋め尽くされている。
私は、城の遥か高みにあるバルコニーの淵に指をかけ、爪が白くなるほど強く握りしめていた。吹き付ける雨が容赦なく私の顔を濡らし、絹のドレスを重く湿らせていく。けれど、寒さなど感じていなかった。胸を焦がすような恐怖と焦燥が、私の全身を支配していたからだ。
眼下では、民たちが狂乱の渦の中にいた。ある者は持てるだけの家財を背負い、ある者は転びそうになる小さな我が子の手を必死に握りしめ、泥水を跳ね上げながら城の門へと突き進んでいる。彼らの顔にあるのは、ただ一つ。「生きたい」という盲目的な渇望だけだった。
ドン、と。
腹の底を揺さぶるような大砲の音が、立て続けに鳴り響いた。
王都をぐるりと囲む巨大な外周城壁。そこにずらりと並べられた数十門の魔導大砲が、休む間もなく火を噴いているのだ。放たれた砲弾は夜空に赤い尾を引き、壁の向こう側へと吸い込まれていく。その凄まじい衝撃波は、私が立つ城の床にまで微かな振動となって伝わってきた。
城下からは、前線で戦う兵士たちの張り詰めた声が、風に乗ってここまで響いてくる。
「ダメだ……奴ら、まったく大砲に怯まないぞ!」
「あの勢いのまま来られたら、外壁が保たない!」
「なぜだ!? なぜ向かってくる!? これほどの火力を浴びせて、なぜ足を止めないんだ!?」
狂乱、困惑、そして絶望。
通信の魔導具や、伝令の叫びが混ざり合い、城内にまで兵士たちの悲痛な叫びが届いていた。
なぜ向かってくるのか。なぜ、肉体が引き裂かれるのも厭わずに進軍を続けられるのか。
──そう、私は彼らが言った言葉を、その理由を知っている。
かつて、古い文献で読んだことがあった。あるいは、世界に伝わる忌まわしき伝承の通りだ。彼ら──オークやトロールの軍勢を率いるのは、謎多き鎖の神に寵愛を受けた、凶つの魔女。その魔女の臣下(淵源の叙勲者)たちは、恐怖という感情を麻痺させる呪詛で軍勢を縛っている。どれほど仲間が倒れようとも、どれほど圧倒的な武力を前にしようとも、主の命があれば肉体が滅ぶまで進み続ける呪い。
人間が持つ「恐怖」という最大の防御本能を、彼らは持ち合わせていないのだ。
「そんな相手に、まともな人間の精神が保つはずがない……」
ぽつりと呟いた私の言葉は、激しい嵐の音にかき消された。
怯まずに、ただ機械的に、貪り食うためだけに迫り来る醜悪な怪物たち。その軍勢を前にして、我が国の兵士たちの士気は下がる一方だった。どれだけ撃っても倒れない。その事実が、じわじわと、だが確実に味方の心を叩き折っていくのが、遠目からでも痛いほどに伝わってきた。
「お姉様……!」
背後から、衣擦れの音と共に、怯えた小さな声がした。
振り返ると、そこには私の最愛の妹──リーシャが立っていた。まだ十歳に満たない小さな身体を、恐怖でがたがたと震わせている。その大きな瞳には、今にも溢れそうな涙が溜まっていた。
「リーシャ」
私は濡れた顔を手の甲で拭い、急いで妹の元へと駆け寄った。彼女の小さな肩を抱き寄せ、冷たくなった手を包み込む。
「大丈夫よ、リーシャ。ここにいれば安全だから。お父様が、きっと何とかしてくださるわ」
その言葉が、ただの気休めに過ぎないことを、私自身が一番よく分かっていた。だが、姉として、王女として、ここで取り乱すわけにはいかなかった。私はリーシャの手を引いて、激しい風雨が吹きすさぶバルコニーを後にし、城の内奥へと歩みを進めた。
────
城の内部は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。いや、それは平穏な静けさではない。嵐の前の静けさ、あるいは、処刑を待つ囚人の部屋のような、重苦しく息の詰まるような沈黙だった。
長い回廊を通り、私たちは謁見の間へと向かった。
城の要所に配置された城壁には、近衛兵たちが一糸乱れぬ動きで整列していた。彼らは磨き上げられた槍を硬い石の地面に突き立て、城の門へと次々に避難してくる民たちを、ただ静かに見下ろしている。
彼らの背中は、驚くほどに毅然としていた。城下の兵たちがパニックに陥っているというのに、王の身辺を守る彼らは、目前に迫る怪物の軍勢を前にしても、なお平常を保ったままだ。
その揺るぎない後ろ姿は、今の私にとって、実に頼もしく、同時に酷く痛々しくも見えた。彼らは死を覚悟しているのだ。王を守るため、この城を死に場所と定めているからこそ、揺らがないのだと。
重厚な意匠が施された謁見の間の扉を開けると、そこには我が国の王であり、私たちの父親である人が、一人で佇んでいた。
父は、いつも通りの豪奢な王衣を身にまとっていたが、その顔には隠しきれない疲労と、深い懊悩の影が刻まれていた。私たちが部屋に入っていくと、父はゆっくりと振り返り、その厳格な、けれど温かみのある瞳を私たちに向けた。
「サーシャ、リーシャ。よく来た」
父の低く落ち着いた声を聞くだけで、胸の奥の震えが少しだけ収まるような気がした。父は私たちの元へと歩み寄り、私の前に立つと、その大きな、節くれ立った手を私の肩へと置いた。
その手の重みは、そのままこの国の運命の重さのようだった。
「よいか、サーシャ。妹のリーシャの事を頼むぞ」
真っ直ぐに私を見つめる父の目を見て、心臓が跳ね上がった。それは、未来を語る者の目ではなかった。遺言を遺す者の目だ。
「……っ、でも、お父様は!?」
思わず、父の衣の袖を掴んでいた。声を荒らげるなど、王女としての教育に反することだったが、いまはそんなことを気にしている余裕はなかった。
「私はここに残る。兵と共に、この王都の民と国を守るのが、王たる私の義務だ」
「でも……! 外の防衛線はもう……。お父様が残られたところで、これ以上の防戦は……!」
「大勢を一度に避難させることは出来ん。まずは民を城へ入れ、籠城戦に持ち込む。そして──リーライを治めるカロン卿の援軍を待つ」
父の口から出たその名前に、私は息を呑んだ。
カロン卿。
我が国の北方を守護する強大な軍事力を持ち、冷酷無比と噂される冷徹な若き公爵。そして──私の、形ばかりの許嫁。
「お父様……」
私は感情が抑えきれなくなり、歪む視界の中で父を見つめた。自分が今、ひどく悲しい顔をして、国難に立ち向かおうとする父を困らせてしまっているのは分かっていた。分かっていても、涙を止めることができなかった。
「そんな顔をするな、サーシャ。お前は私の誇り高き娘だ」
うつむき、肩を震わせる私に、父はふっと優しく微笑んだ。その瞬間だけは、目の前にいるのは厳格な王ではなく、幼い頃に私を抱き上げてくれた、ただの優しい父親だった。
「きっとまた、無事に会える。だから、生きることを諦めるな」
少しの沈黙が、部屋を支配した。外の大砲の音が、心臓の鼓動のように不気味に響く。
私は溢れそうになる涙を必死にこらえ、鼻をすすりながら、ゆっくりと顔を上げた。
「…………はい。スン……スン……。お父様」
「ん? まだ何か不安か?」
私の表情に陰りを見たのか、父が優しく問いかけてくる。私は、ずっと胸の奥に燻っていた、もう一つの大きな懸念を口にすることにした。
「他にも、心配している事があるのです。私たちが無事に、北方のリーライにたどり着けたとしても……。カロン卿が、本当に私たちのために兵を出してくれるとは、とても思えません」
私の言葉に、父は一瞬、言葉を詰まらせた。
当然の危惧だった。カロン卿と私の縁談は、完全に冷え切ったものだったからだ。何度か王宮の夜会で顔を合わせたことはあるが、彼はいつも氷のように冷たい視線を私に送るだけで、まともに言葉を交わしたことさえ数えるほどしかない。あれは、王家と公爵家の力を結びつけるための、ただの味気ない政略結婚。彼は私に興味などないし、むしろ疎ましく思っているとさえ感じていた。
そんな冷徹な彼が、国が傾くほどの危機に、リスクを冒してまで援軍を寄こすだろうか。しかも、落ち目の王女の頼みを聞き入れるとは到底思えなかった。
「例え私が……彼の許嫁であったとしても、彼は動かないのでは……」
そう言う私を見て、父は少し気まずそうに視線を泳がせた。その表情は、王としては珍しいものだった。
「いつ言おうかと、こまねいていたんだがな。まさか、こんな切羽詰まった時に言うことになるとは思わなかった」
父は苦笑交じりに溜息をつくと、真剣な眼差しで私を見つめ直した。
「実はな、サーシャ。あの縁談は……我が国からの打診ではなく、彼、カロン卿からの強い申し入れだったんだ」
「え……!? で、でも、お父様はずっと、王家の権威を示すための政略結婚だと……」
頭が混乱した。カロン卿からの申し入れ? あの、氷の彫刻のように冷たい男が、自ら私との結婚を望んだというのか?
「サーシャ、話せば長くなるんだ。これまで隠していてすまない。だが、これだけは断言できる。カロン卿はお前の為なら、自らの命すら、惜しまないだろう。だから、彼を信じてリーライへ走れ」
父の言葉は、あまりにも私の認識とかけ離れていて、すぐには理解できなかった。彼が、私のために命を惜しまない? なぜ? どうしてそんなことが……。
────
──バタンッ!!
その時、謁見室の巨大な扉が、大きな音を立てて勢いよく開け放たれた。
思わず肩を跳ね上げて振り返ると、息を切らせた一人の近衛兵が、狂ったようにこちらへと駆け寄ってくるところだった。彼の鎧には泥と、そして赤黒い血がべっとりと付着している。
兵士は父の前に到達するや否や、崩れ落ちるように地面に膝をついた。
「お、お話中、申し訳ありません……!」
喘ぐような声。その顔は恐怖で青褪め、瞳は限界まで見開かれている。
「オークらの軍勢が……外周城壁を突破! 城下に侵入したとの事です! 防衛線は完全に崩壊、敵の勢いは収まる所を知りません……! すぐそこまで、怪物の群れが迫っています! 陛下、王女よ、どうか早く、避難を……!」
「……!?」
頭を殴られたような衝撃が走った。
外周城壁が、もう突破された? あの堅牢な壁が、数多の魔導大砲が、こうも簡単に破られるなんて。敵の進軍速度は、私たちの予想を遥かに超えていた。
「さあ、もう行くんだサーシャ! リーシャを連れて、早く!」
父の鋭い声が、私の思考を強制的に覚醒させた。
父は私の背中を強く押し、部屋の奥にある、裏門へと続く隠し通路の方向を示した。
「お父様! ですが、あなたも──」
「私は残ると言ったはずだ! 時間を稼ぐ。一歩でも遠くへ逃げろ!」
父の、これまで聞いたこともないような怒号。それは私を拒絶するためではなく、ただ私を生き延びさせるための、親としての決死の叫びだった。
私は戸惑い、足がすくみそうになりながらも、これ以上ここに留まることが父の足を引っ張ることにしかならないと理解した。涙で視界が歪む中、私は隣で泣き叫びそうになっているリーシャの手を強く引き、きびすを返した。
「急ぐぞ!」
私はドレスの裾を実力で引きちぎり、走りやすくすると、馬車の待つ裏門へと向かって猛然と走り出した。後ろを振り返ることはしなかった。振り返れば、二度と走れなくなるような気がしたからだ。
背後から、兵士と父の会話が微かに聞こえてきた。
「陛下もお早く!」
「娘達だけで十分だ。私はこれより前線へ赴く。アライアスの元へ案内しろ」
「…………仰せのままに、陛下。こちらです」
案内する兵士の声のトーンで分かった。恐らく、その兵士の彼も……私と同じ心境だったはずだ。王をここに残していくことの絶望、そして、これが最後の別れになるだろうという確信。それでも、王の命に従わなければならない非情さ。
胸が張り裂けそうだった。階段を駆け下りるたびに、心臓が痛いほど脈打つ。
お父様、どうかご無事で。カロン卿の真意なんて分からない。けれど、私は生き延びてみせる。リーシャを守って、必ず。
────
城の地下裏門へと辿り着くと、そこには既に一台の頑丈な馬車と、数人の近衛兵たちが待ち構えていた。
「サーシャ様、リーシャ様! お待ちしておりました、早く馬車へ!」
兵士たちに促されるまま、私はリーシャを抱き上げるようにして馬車の中へと押し込み、自らも飛び乗った。私たちが乗り込むと同時に、馬車は激しい衝撃と共に急発進した。
御手の鋭い鞭の音が響き、馬たちは嵐の夜を狂ったように駆け出す。
ガタガタと激しく揺れる馬車の窓から、私は外の景色を見つめていた。
窓硝子に打ち付ける激しい雨の向こう、遠ざかっていく王都の姿が見える。
あちこちから、赤黒い炎と黒い煙が立ち上っていた。雨がどれほど激しく降ろうとも、その炎を消すことはできないようだった。美しい白亜の城壁は崩れ落ち、かつて平穏だった街並みが、怪物の蹂躙によって地獄絵図へと変えられていく。
ドン……、ドン……。
遠くから聞こえる大砲の音が、徐々に小さくなっていく。それは、抵抗する力が失われつつあることを意味していた。あの中に、父がいる。命を賭して戦っている民がいる。
私はただ、それを見つめることしかできなかった。無力な自分が、たまらなく惨めで、悔しかった。
馬車は、僅かな護衛の兵士たちに守られながら、暗い街道をひたすら北へと避難していく。周囲は深い森に囲まれ、街灯り一つない暗闇が広がっていた。時折、護衛の馬の蹄の音と、鎧が擦れ合う音だけが、雨音に混じって聞こえてくる。
あまりの恐怖と疲労からか、隣に座るリーシャは言葉を失っていた。
ただ、小さな身体を縮こまらせ、私の右手を、両手でギュッと、壊れそうなほど強く握りしめている。
リーシャの手は、凍えるように冷たかった。
私はその手を強く握り返し、もう片方の手で彼女の頭を優しく抱き寄せ、胸に躍らせた。
「大丈夫よ、リーシャ……。私が、あなたを守るから」
妹に言い聞かせると同時に、それは自分自身への誓いでもあった。
脳裏に、父の最期の言葉が蘇る。
──『カロン卿はお前の為なら、自らの命すら、惜しまないだろう』
信じられなかった。あの氷の公爵が、なぜ私を?
冷酷で、感情を表に出さないあの男の胸中に、どのような想いが隠されているというのだろう。
王都は陥落したかもしれない。父の安否も分からない。
これからの旅路には、さらなる困難と、追手の脅威が待ち受けているはずだ。カロン卿の待つ北方の領地「リーライ」へと辿り着くまで、この細い糸のような命が繋がっているかどうかも分からない。
それでも、私は前を向かなければならない。
握りしめられたリーシャの手の温もりだけが、暗闇の中で私を支える唯一の光だった。馬車は嵐の中を、未知なる運命へと向かって、ひたすら走り続けていく。




