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第89話:最初の溝

 種蒔きから二百七日目の朝、大空洞へ向かう前に村に寄った。


 セイロスへの文を届け屋の老人に渡した。老人が封を確かめてから、上着の内側に収めた。


「エクラ方面か。急ぎか」


「できれば早く届けてほしいです」


 老人が頷いた。銅貨を受け取った。


「三日か四日だ。雨が出れば伸びる」


「ありがとうございます」


 村を出た。山道を登りながら空を見た。雲が厚かった。


 大空洞に入った。採取ポイントで三本を摘み取った。根元の青白い発光は変わらなかった。布袋に入れた。


 第一耕地に進んだ。二株が今日の頃合いだった。指で押して弾力を確かめてから摘み取った。第三耕地は水やりだけにした。三か所に水をかけた。


 水場を通りかかった時、水に指先を入れた。今日も温かかった。


(今日は六十歩目まで行く)


 割れ目の方へ向かった。



 割れ目に一歩入った。苔の青白い光が通路を薄く照らしていた。十八歩進んで向こう側に出た。


 刻みを確かめた。二十五本のままだった。ケルンは来ていなかった。器の向きも変わっていなかった。


(今日は進む。六十歩目まで)


 松明を三本確かめた。一本に火をつけた。二本目は腰の布に差した。三本目は袋の中に入れた。


 奥の開口部に一歩入った。床が傾き始めた。


 一歩ずつ進んだ。五歩目で足元が湿り始めた。八歩目で天井が低くなり、身を傾けて進んだ。


 十歩目の右壁に溝が一本。十五歩で二本。二十歩で三本。二十五歩で四本。三十歩で五本。三十五歩で六本。四十歩で七本。四十五歩で八本。五十歩で九本。


 五十三歩目で身を屈めた。天井に頭が近くなった。五十五歩目に踏み込んだ。右の壁に松明を近づけた。溝が十本。最後の一本だけ、少し深かった。力が入っていた。


(ここまでが、祖父の刻みだ)


 五十六歩目を踏んだ。


 天井がさらに低くなった。身を屈めて進んだ。土の匂いが増した。足元の湿り気も増した。壁が少し狭まった。


 五十七歩、五十八歩、五十九歩——


 六十歩目を踏んだ。


 右の壁に松明を近づけた。


 溝はなかった。


 岩肌がそのままあった。傷も刻みも、何もなかった。


(ここには誰も来ていない)


 少し間があった。松明の炎が揺れた。


 腰から短刀を取り出した。刃の背を岩に当てた。一本、縦に刻んだ。力を込めた。深くはないかもしれない。でも確かな線になった。


 指でなぞった。まだ荒かった。祖父が残した溝の滑らかさとは違った。


(これは俺の一本目だ)


 六十歩目の先に通路が続いていた。天井はさらに低そうだった。今日はここまでにした。引き返した。



 部屋に戻った。刻みをもう一度確かめた。二十五本のままだった。棚のそばで少し待ったが、足音は来なかった。


 割れ目を抜けて大空洞に出た。水場の前で少し立ち止まった。


(ガルドじいさんが五十五歩。俺が六十歩。先へ進んだ)


 水面が松明の炎を映して揺れた。



 小屋に戻った。乾燥台に今日の五本を並べた。炭に火をつけた。弱火を保った。


 乾燥台分を加える前の通常品が五百三本だった。一時間ほどで五本が仕上がった。棚に加えた。通常品が五百八本になった。混合品は三十四本のままだった。


 記録の紙を取り出した。「降下通路六十歩目を踏んだ。右壁に溝なし。一本刻んだ。刻みは二十五本のまま変化なし。ケルンは来なかった。セイロスへの文を届け屋に渡した。通常品五百八本。混合品三十四本」。



 昼すぎ、ミアが来た。扉を叩いてから入ってきた。棚を一度見た。


「五百八か」


「六十歩目まで行った。溝がなかった。一本、刻んできた」


 ミアが少し眉を動かした。


「ガルドじいさんの溝が途切れた場所に」


「そうだ。五十五歩目が最後だった。六十歩目は誰も来ていなかった」


 ミアが少し間を置いた。


「正しい」


 扉が閉まった。



 夕方、シルバの小屋へ向かった。


「降下通路の六十歩目まで進みました。五十五歩目の先です。天井がさらに低くなっていました。六十歩目の右壁に溝はありませんでした。一本、刻みました」


 シルバが炉の前でゆっくりと顔を上げた。


「刻んだか」


「はい」


 短い間があった。炉の火が静かにくすぶっていた。


「ガルドが歩かなかった場所まで行った。そしてそこに刻んだ」


「はい」


 シルバが炉を見た。しばらく動かなかった。炎が一度揺れた。


「……ガルドが聞いたら、どんな顔をしただろうな」


 返す言葉がなかった。


「次は六十五歩目だ。松明を三本持て。天井が低い区間が続く。無理をせず早めに引き返す判断をしろ」


「わかりました」


「セイロスへの文は送ったか」


「今朝、届け屋に渡しました。三日か四日かかると聞きました」


「そうか。届く」


 炉の火が揺れた。外はもう暗くなっていた。



 夜、経営の書を開いた。


「続けることは受け継ぐことではない。始まりがあっても、途中からは自分で歩く。前を歩いた者の跡が途切れた場所から先は、歩いた者が自分で刻んでいく」


(祖父の溝が途切れた。六十歩目に刻んだのは、俺の一本だ。荒い。それでも先へ続けられる)


 棚を見た。通常品が五百八本。混合品が三十四本。


 明日も採りに行く。

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