第2話:帰り道の老婆
帰り道は、来た道より早く感じた。
霧穴の入口を背に山道を下り始めると、空は昼をとっくに過ぎていた。革袋の中のミストハーブを何度か確かめながら歩く。根を傷めないよう布切れに包んである。たった一本だったが、初日の収穫にしては十分だと自分に言い聞かせた。
タルン村が見えてきたのは、日が西へ傾きかけた頃だった。
村は小さかった。大通りと呼ぶのをためらうような細い土の道が一本、その両側に二十軒ほどの家が肩を寄せ合うように並んでいる。煙突から細い煙が上がり、広場の石の井戸の周りでは子どもたちが走り回っている。向かいの古びた木の建物がシルバじいさんの薬師小屋だ。あとは雑貨を扱う商家が一軒と、ミアの師匠の鍛冶場がある。それだけの村だった。
レインはここで生まれ、ここで育った。物心ついた頃には両親はおらず、祖父のガルドと二人暮らしだった。読み書きはガルドに習い、外の世界のことはたまに来る行商人から聞いた。行商人がタルン村まで来るのは月に一、二度がいいところで、道が悪い時はもっと間が開く。山と村だけが世界だったが、それが嫌だったわけでもない。ただ、世界の広さを考えると、ここは確かに隅っこだとは思っていた。
「レイン」
鍛冶場の前で作業をしていたミアが顔を上げた。同い年の幼馴染で、黒髪を短く切り上げ、腕のあちこちに火の粉の焼け跡がある。鍛冶師の見習いを始めて三年目で、師匠の仕事を手伝いながら技を学んでいる最中だった。
「また山でしょ。顔見ればわかる」
「霧穴に行ってきた」
「は?」ミアの手が止まった。「あそこ、魔物が出るって」
「出た。やり過ごせた」
「……怪我はないの」
「ない」
ミアはレインを上から下まで眺めて、小さくため息をついた。革袋から取り出したミストハーブを見せると、彼女はしばらく眺めた。
「シルバじいさんのところに持っていくの?」
「うん。ポーションの材料になるか確かめたい」
「そう」と短く言い、ミアはまた作業に戻った。言い方は冷たくもなく、でも少し重みがあった。ガルドの名前を出したわけでも、霧穴のことを深く話したわけでもなかったが、それでも何か言葉を選んでいる気がした。村の誰もが、あの山について話す時は少しだけ間を置く。ミアも同じだった。
「暗くなる前に帰りなよ」と、鉄を叩きながら言った。
*
シルバじいさんの薬師小屋は、乾いた薬草の香りに満ちていた。棚には大小さまざまな瓶が並び、細かい文字のラベルが貼ってある。
受け取ったじいさんは、葉を一枚めくり、根元に鼻を近づけ、ゆっくりと頷いた。
「霧穴のものに間違いない。一本か」
「初日なので」
「そうだな」とじいさんは言い、棚の作業台に置いた。椅子に腰かけ、レインを見た。「ガルドが死んで、お前があそこへ行くとはな」
「ガルドじいさんのこと、じいさんはどんなふうに思ってましたか」
「変わった男だったよ」と、特に間を置かずに答えた。「あの山が好きで、山から離れなかった。人には優しくしたが、自分のことは何も話さなかった」
それだけ言って、じいさんは続けなかった。レインも聞き返さなかった。
「ポーションの作り方を教えてもらえますか」
「お前が来たら教えてやれと、ガルドに頼まれていた」とじいさんは立ち上がった。「今日は手順だけ話す。材料が揃ったら、また来い」
それから日が傾くまで、レインは作業台の前でシルバじいさんの話を聞いた。薬草の乾燥のさせ方、刻み方の細かさ、水の量、火加減、煮立てる時間、瓶に詰めるタイミング。どれも「やってみなければわからない」種類のことで、言葉で覚えるより手で体得するしかないものだったが、それでも聞いておかなければわからないことだった。
帰り際、シルバじいさんが言った。「丁寧にやれ。焦るといいものにならん。ガルドも……そういうところは丁寧な男だった」
小屋を出ると、夕暮れが空を橙に染めていた。
*
ロウン街道との分かれ道で、荷物を抱えて座り込んでいる老婆を見つけた。
「大丈夫ですか」
声をかけると老婆はゆっくり顔を上げた。皺だらけの丸い顔で、目はしわに埋もれているようで、ひどくよく光っていた。
「ちょうどよかった。荷物が重くてね、もう足が利かないんだよ」
「どこまで行かれますか」
「次の集落まで。もう少しのはずなんだが」
次の集落はタルン村しかない。それ以上先はしばらく人里がない。
「俺がお連れします。荷物も持ちますよ」
「助かるよ」と老婆は笑った。
革袋が三つ、布包みが二つ。想像より重かった。老婆の歩みに合わせながら、レインは荷物を両手に下げて歩いた。老婆はよくしゃべった。どこから来たか聞くと「遠くから」、どこへ行くか聞くと「縁のある場所へ」と笑うだけで、それ以上は答えない。その笑い方は、何か楽しいことを知っている人間のものに見えた。
村に着いた頃には空が紺色になっていた。
「今夜、どこかで休めますか」と老婆が聞いた。
「うちにどうぞ。祖父の家が空いています」
「ありがとうよ」
夕飯は豆のスープと固くなりかけのパンだった。老婆はおいしそうに食べた。食事の途中で一度だけ言った。
「あんたは得な顔をしているねえ」
「得な顔、ですか」
「そう。荷物を持ってもらえると思えるような顔がある。そういう顔の人間は、損をするように見えて、最後は大事なものを手に入れるんだよ」
レインにはうまく返せなくて「そうですかね」とだけ言った。老婆は満足そうに笑い、それ以上は何も言わなかった。
就寝の挨拶をして部屋へ引き上げる前、老婆はふと振り返った。「またお会いしましょうね」と、まるで旅の宿で別れるような気軽さで言った。次の部屋にいるのに、とレインは思ったが、老婆はもう目を細めて笑っていた。
翌朝、老婆はいなかった。
布団は丁寧に畳んであった。枕元に一冊の本が置いてある。年季の入った革装丁で、背表紙には何も書いていない。表紙を開くと、こう記されていた。
「商いの理、すべてここに」




