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第1話:霧穴の相続人

 祖父が死んで、三ヶ月が経った。


 タルン村の外れにある小さな家——ガルドじいさんが長年独りで暮らしていたその家に、レインは今日も立っていた。


「……やっぱり来てしまった」


 誰に言うでもなく呟く。家の中はもぬけの殻で、残っているのは古びた家具と、薄れかけたじいさんの匂いだけだ。


 テーブルの上には、三枚の書類と小さな鍵が置いてあった。村の長老立ち会いのもとで開けた遺品箱の中身だ。書類のうち二枚は土地の権利証で、残る一枚は手紙と呼ぶのも申し訳ないほど短いものだった。


 レインはその手紙を、もう何十回読んだかわからない。


『お前ならうまくやれる。——ガルド』


 それだけだ。


 十六年間育ててもらって、最後に残されたのがたったこれだけかと最初は笑ってしまったが、今となっては笑えない。「うまくやれる」の意味が、さっぱりわからないからだ。


 権利証の一枚には、村から山道を二時間ほど登ったところにある洞窟——村人が「霧穴きりあな」と呼んでいる場所、あるいはそのまま「ガルドの穴」と呼んでいる場所——の所有権が記されていた。


「ガルドの穴、か」


 レインには幼い頃から一つの疑問があった。なぜ村人は誰も、その穴に近づこうとしないのか。魔物が出るからだ、と言う人もいた。昔は冒険者が来たが今は誰も来ない、と言う人もいた。シルバじいさんなどは「あそこは近づくな」と珍しく厳しい顔で言うだけで、理由を話してくれたことは一度もない。


 肝心のガルドは、何を聞いても「いい山だぞ」とニコニコするだけだった。


 その山が、今日からレインのものになった。



 霧穴への道は、思ったより整っていた。


 雑草が茂る山道を一時間ほど登ると、踏み固められた土の感触に変わる。誰かが定期的に歩いていたような跡だ。じいさんだろうか、とレインは思った。七十を過ぎた老人が、この山道を一人で。


 入口が見えたのは、太陽が中天にさしかかった頃だった。


 岩肌がぽっかりと口を開けている。高さは人が屈まずに入れる程度、幅は馬車が通るには少し狭い。そしてその奥から、薄い霧が絶えずふわりと流れ出てきていた。


 霧穴、という名前に、妙に納得した。


「……中、真っ暗だな」


 腰の革袋を確かめる。中身は簡単な食料と水、ロープ、あとは村の薬師シルバじいさんに無理を言って分けてもらった松明が三本。武器は腰に下げた短いナイフだけだ。本当は剣があればよかったが、そんな金はない。


 深呼吸を一つ。


 霧がレインの頬を撫でるように流れていく。ひんやりとしていて、不思議と嫌な感じはしなかった。


「……入るか」


 松明に火をつけ、一歩踏み込んだ。



 中は広かった。


 松明の光が届く範囲だけでも、天井は十分な高さがあり、通路は大人が三人横並びで歩ける幅がある。壁は自然の岩肌で、ところどころに苔が張り付いていた。足元は固い土で、歩くたびに微かな音が返ってくる。


 そして——静かだった。


 魔物がいる気配は……今のところない。


「拍子抜けだな」


 そう呟いた瞬間、通路の奥でガサリと音がした。


 全身が凍り付いた。


 音は一定のリズムで近づいてくる。引きずるような、重いものが地面を這う音だ。レインは一瞬で判断した——逃げるより隠れるほうが速い。


 松明を手のひらで押さえ、炎を消した。


 完全な暗闇だった。


 目の前が真っ黒になった瞬間、レインは通路脇の岩の割れ目に体を押し込んだ。肩が岩に食い込む。背中を壁に貼りつけ、口を閉じ、息を止める。心臓の音がうるさすぎて、それだけで見つかりそうだった。


 音が、近づいてくる。


 足音……いや、爪が土を引っ掻く音だ。ズ、ズ、と。暗闇の中で赤い光が二つ揺れているのが見えた。目だ。犬ほどの大きさの、鱗に覆われた影。スケイルリザード——本で読んだことがある。毒はない。ただし爪が鋭く、動きが読めない。


 五歩。四歩。三歩。


 レインは岩に体を押しつけたまま、息を止め続けた。肺が痛い。赤い目がこちらを向いている——ように見える。暗闇の中でも、あの目は光っている。


 二歩。一歩。


 ズ、と。


 爪音が、すぐ目の前を通り過ぎた。


 鱗の匂いがした。生臭くて、冷たい空気を含んだ匂いだ。触れそうなほど近かった。


 レインは動かなかった。


 足音が遠ざかる。遠ざかる。やがて聞こえなくなった。


 それでもレインは五十数えるまで動かなかった。ゆっくり息を吐いて、震える手で火打ち石を取り出す。松明に火が戻るまで、三度失敗した。


「……やった」


 小さく、本当に小さく呟いた。


「……やり過ごせた」


 膝が笑っている。でも、できた。暗闇と岩陰で、隠れ切れた。なるほど、これが魔物のいるダンジョンというやつか。頭で理解していたつもりでも、全然違う。


 松明を低く持ち直し、レインは慎重に歩き始めた。目的は一つ——薬草だ。


 シルバじいさんが言っていた。霧穴の入口近くには、外では滅多に採れない薬草が生えているはずだと。じいさんは昔ガルドから聞いたと言っていた。それが本当なら、今日は一本でも多く持ち帰りたい。


 松明の光の端、岩の裂け目に沿って何かが青白く光っている。


 レインは膝をついて覗き込んだ。細い茎、小さな葉、そして根元にかすかな発光——間違いなかった。


「ミストハーブだ」


 ポーションの原料として使われる薬草で、霧の多い場所にしか育たない。これ一本でポーション三本分は作れる、とシルバじいさんが言っていた。村の薬屋では銀貨二枚で売られていたはずだ。


 丁寧に根を傷めないよう抜き取り、革袋に収める。


 もう少し奥まで行けば、もっと採れるかもしれない。でも今日は初日だ。地図も仲間もなく、松明はあと二本半しかない。


「今日はこれで十分だ」


 そう言い聞かせて、来た道を戻り始めた。入口の霧が白く光って見えた頃、レインはふと立ち止まって振り返った。


 暗い通路の奥。さっきのスケイルリザードがどこかへ消えていく気配。霧が細く流れ続けている。


 じいさんは、この場所に何を見ていたのだろう。


 そんなことを思いながら、レインは外の光の中へ踏み出した。手の中の薬草が、山風の中でわずかに揺れた。


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