第9話 榊原家という檻
翌朝は、空の色まで張りつめて見えた。
春の朝らしい柔らかな明るさはある。けれど、障子を透かして射し込むその光さえ、今日は何かを決めろと迫ってくるようだった。
昨夜のうちに、父とは話をした。
榊原家の申し出を、そのまま飲むわけではない。けれど断って終われる話でもなさそうだということ。ならばまず、こちらから出向いて、何をさせるつもりなのか、どういう形で預かるというのかを、はっきり聞くべきだということ。
結局、その結論に落ち着いた。
父が一緒に行くと言った。
母は最後まで反対しかけたが、わたし一人では余計に向こうの思うままになると父が言うと、やがて黙り込んだ。
朝餉の席で、母が何度も箸を持ち直す。
わたしも落ち着かない。味噌汁の湯気を見ているのに、何の味も分からなかった。
「行った先で、余計なことは言うな」
父が言う。
「おとっつぁん、最近そればっかり」
「余計なことを言いそうだからだ」
「ひどい」
「だが、聞くべきことは聞け」
その一言に、わたしは少しだけ気持ちを立て直した。
そうだ。
ただ怯えて向かうのではない。問い返しに行くのだ。
わたしの祝言を白紙にしたものと、清雅が掴んでいる“何か”が、本当に繋がっているのか。その入口くらいは知っておかなければならない。
支度を整え、父と二人で家を出た。
母は門口まで見送りに出て、最後まで何か言いたげな顔をしていたが、結局「気をつけて」としか言わなかった。
榊原家の屋敷は、町場からそう遠くない場所にありながら、そこだけ空気が違っていた。
道幅が少し広くなり、往来の音が妙に整って聞こえる。門前に立つと、まず門そのものの大きさに息を呑んだ。華美ではない。だが木の質、瓦の重み、控えた装いの中にある揺るがなさが、名門の屋敷とはこういうものかと思わせる。
門番へ名を告げると、待たされることもなく中へ通された。
それだけで、昨夜の書付が向こうでどれほど当然のように話を進めているかが分かる。
父の歩き方が、ほんの少しだけ固くなる。
わたしも背筋を伸ばした。
通されたのは、奥へ入りきる前の応接らしい座敷だった。庭に面し、手入れの行き届いた松と石組が見える。無駄な贅沢はない。だが、あらゆるものが「不足がない」という顔でそこにある。
しばらく待つと、襖の向こうから人の気配がした。
開いた襖の向こうにいたのは、榊原清雅だった。
今日は前に見たときよりもさらに整った姿で、淡い青磁色の着物に濃い羽織を重ねている。風雅を装うというより、それがこの人には普通なのだと分かる着こなしだった。
ただし、最初に目に入ったのはやはり顔立ちではなく、その気配だ。
静かだ。
名門の若君らしく、よく躾けられた身のこなしをしている。だが、その静けさは人当たりのよさだけでできているのではない。こちらの言葉一つ、視線一つを見逃さず、必要ならそこへすぐ手を伸ばせるようにしている静けさだ。
「お運びいただき、ありがとうございます」
清雅は父へもわたしへも同じように礼をした。
「榊原さま」
父が慎重に頭を下げる。
わたしも合わせて頭を垂れた。
「昨夜の書付、拝見いたしました」
「ええ」
「娘を預かる、とは穏やかな話ではありません」
「穏やかな話ではないでしょうね」
清雅はあっさりとそう答えた。
父がわずかに言葉を失う。まるで、飾った否定も弁明もする気がないらしい。
「だからこそ、まずはお話をと思いました」
清雅が座をすすめ、父とわたしは正面に腰を下ろした。
部屋へ茶を運んできた女中が、ちらりとこちらを見る。ほんの一瞬。だがその目には、町家の娘を見るときの遠慮と、若君の客として扱うための訓練とが、きれいに同居していた。
そうか、と思う。
ここでは、誰もが誰かを見ている。
清雅は父へ向き直った。
「単刀直入に申し上げます。志乃殿には、しばらく榊原家で文机役見習いとして働いていただきたい」
「見習い、と申しますが」
「表向きは、書付整理の手伝いです。実際にも、まずはそれ以上のことはさせません」
父の眉が動く。
「まずは?」
「ええ。まずは」
やはり余白を残す。
この人は本当に、必要なことだけをきっちりと言い、肝心なところは曖昧に見せながら、実際には曖昧ではない。
「なぜ、うちの娘なのです」
「文を見る目があるからです」
「それだけで、わざわざこんな」
「それだけではありません」
清雅の声が、ほんのわずかに低くなる。
「志乃殿はすでに、いくつかの文に触れている。その中には、見過ごせぬものがある」
父は沈黙した。
その“見過ごせぬもの”の意味を、父もすでに薄々は察しているのだろう。
わたしは清雅を見た。
「それは、わたしの祝言の件と関わっているんですか」
「可能性は高い」
「高い、では困ります」
「分かっています」
清雅はわたしの言い方を咎めず、そのまま受けた。
「ですが、今の段階で断言できるほど、こちらも札が揃っていない」
「札?」
「文、証、人の動き。そういうものです」
その言葉の運びに、この人が普段からこういう話をしているのだと分かる。
風流な顔をしていても、見ているものはもっと生臭いのだ。
父が重い声で訊く。
「娘をここへ置けば、その札とやらが揃うのですか」
「揃う可能性が高くなる」
「それは、娘を囮に使うということでは」
空気が、ぴり、と張った。
わたしも息を止める。
父はよく言ったと思う。わたしがぼんやりと恐れていたことを、そのまま口にしてくれた。
だが清雅は、怒りもせず、笑いもせずに答えた。
「囮にするつもりはありません」
「つもりは、でしょう」
「いいえ。少なくとも、私の手の中に置く方が、市中へ放っておくよりましだという意味です」
その“手の中”という感覚に、また胸がざわつく。
清雅は続けた。
「志乃殿が町で筆仕事を続ければ、また似たような文が流れてくるでしょう。そのたびに、おそらく志乃殿は違和感を拾う。違和感を拾えば、向こうも気づきます」
「向こう?」
「文を整えている側です」
その答えは、冷たくはないのに容赦がなかった。
「見える者がいると気づかれれば、黙っていられぬ者も出ます」
わたしの指先がひどく冷える。
そこまでのことなのか、と怖くなる一方で、清雅がただ脅しているのではないことも分かってしまう。
消えた依頼人。途中から手の入った書状。祝言の日の書付。点と点が、ようやく線として怖さを持ち始めていた。
「……それで、榊原家へ置けば安全だと?」
わたしが訊くと、清雅は少しだけ目を細めた。
「絶対とは申しません」
「そこは言い切らないんですね」
「言い切れることだけを言う主義です」
腹立たしいほど筋が通っている。
都合のよい嘘を言わぬ代わりに、言い切らぬことで人を追い込む。そういう種類の人だ。
「ですが、私の目の届くところへ置けば、少なくとも勝手に消されることは減る」
勝手に消される。
何をどうすれば、そんな物騒な言い回しがこんな静かな座敷に似合ってしまうのだろう。
父が、ややあってから言った。
「娘は正式な奉公人ではありませぬ。武家のしきたりも知らぬ」
「最初から奥へ上げるつもりはありません。外向きの書付部屋近くで、文机役見習いとして置きます」
「奥へは上げない」
「はい。少なくとも今は」
少なくとも今は。
まただ。
この人の言葉には、必ず先がついてくる。
「住まいは」
「屋敷内に部屋を用意します。女手はつけます」
「自由に帰れますか」
「必要があれば」
「必要とは誰の判断です」
父の問いは鋭かった。
清雅は少しだけ唇の端を上げる。
「今のところは、私です」
その一言で、はっきりした。
これはただの“仕事の申し出”ではない。わたしの身柄を、少なくとも一定のあいだ、清雅の裁量の中へ置くということだ。
檻だ、と思った。
金で飾られてはいない。
名門旗本の屋敷、文机役見習い、身の安全の保証――どれも表向きはきれいだ。けれど実際には、この家の中へ入った途端、わたしの出入りも仕事も視線も、すべてが誰かの目の届くところへ収まる。
守られる代わりに、放してはもらえない。
それはまさしく檻だった。
なのに、その檻の中にしか見えないものがあるのだとしたら。
そのとき、襖の向こうから控えめな足音がした。
年配の男がひとり現れ、清雅へだけ一礼する。用人だろうか。
「若君様」
「何だ」
「本家より、使いが」
その一言で、ほんの一瞬だけ清雅の表情が消えた。
消えた、というのがいちばん近い。
さっきまでの柔らかな余裕も、手綱を握るような静けさも、そのひと呼吸だけどこかへ退いた。代わりに現れたのは、もっと硬質で、少しだけ苛立ちを押し殺した顔だった。
「今ですか」
「はい」
「待たせておけ」
淡々とした声だった。
だが、そこにわずかな棘があるのを、わたしは聞き逃さなかった。
用人が去ったあと、清雅はすぐに元の顔へ戻った。
けれどもう、見てしまった。
この人もまた、この家の中で絶対ではない。
榊原家の若君で、名門の分家筋で、人を動かすだけの権を持っていて、それでもなお“本家より使い”の一言で、表情を消さねばならない立場にある。
父もそれに気づいたらしく、少しだけ目を細めた。
「若君さまも、お楽ではないようで」
清雅は微笑んだ。
「楽な家など、だいたい長くは続きません」
その返しは軽く聞こえるのに、ひどく本音じみていた。
だからこそ、わたしは余計に分からなくなる。
この人は何者なのだろう。
風雅な若君か。名門の分家を背負う男か。家の厄介事を片づける切れ者か。それとも、もっと別のものか。
しばらくして、清雅は静かに言った。
「ひとまず、屋敷を見ていかれますか」
「見て、どうしろと」
思わず口を挟むと、彼は少しだけ楽しげにこちらを見た。
「入るかどうかを決めるのに、檻の形くらいは知っておいた方がよいでしょう」
どきりとした。
檻。
わたしが心の中で使ったばかりの言葉を、この人は平然と口にした。
「……ご自分で言うんですか」
「違いますか」
違わない。
だから何も返せなかった。
結局、わたしたちは屋敷の外向きだけを案内された。
廊下は磨かれ、庭は整い、女中たちの足音ひとつ乱れがない。だが同時に、どこへ行っても誰かの目がある。あからさまではない。あからさまではないのに、視線は確かにある。
若君に連れられた町家の娘。
その事実だけで、十分に珍しいのだろう。
年若い女中が一瞬こちらを見てすぐ伏せる。
年配の女房が穏やかに礼をしながら、わたしの衣の質と足運びを測る。
小姓らしい少年が面白そうに目を向け、すぐに用人のひと睨みで姿勢を正す。
息が詰まりそうだった。
「……静かな家ですね」
嫌味とも本音ともつかぬ調子で言うと、清雅はわたしの少し前を歩いたまま答えた。
「そう見えますか」
「見えます」
「見えるだけです」
それだけで、この家の内側がどんな場所か、少し分かる気がした。
やがて、外向きの書付部屋へ通された。
文箱が並び、控えの帳面が積まれ、机がいくつか置かれている。華やかさはない。だが、この部屋を通る文が家の内外を繋いでいるのだと思うと、そこに漂う空気はじわりと重い。
「志乃殿に入っていただくとすれば、まずはこのあたりです」
清雅が言う。
「最初は、整理と見比べだけで結構」
「最初は、ですか」
「ええ」
「わたしが頷く前から、その後のことまで決めてるんですね」
清雅は振り返り、わたしを見た。
「頷くと思っているからです」
その言い方に、腹が立つ。
腹が立つのに、完全には否定できないのがもっと腹立たしい。
父が低く咳払いした。
「若君さま」
「はい」
「娘をここへ置くなら、相応の筋を通していただきたい。曖昧なままでは承服できませぬ」
「当然です」
「それと」
父は一歩も退かなかった。
「娘に余計な名が立たぬように」
その願いは切実だった。
祝言を白紙にされた娘が、今度は名門旗本の屋敷へ出入りする。何の説明もなければ、それだけでまた別の噂が立つ。
清雅は父の目を受け止め、ゆっくり頷いた。
「承知しています。文机役見習いとしての名目は整えます。私の酔狂で女を拾った、などという形にはしません」
その一言に、頬がかっと熱くなる。
「そんなふうに思ってるんですか、周りは」
「思う者もいるでしょう」
清雅は平然と言った。
「だから先に手を打つのです」
やはりこの人は、人の悪意をあらかじめ勘定に入れて動く。
そして、その勘定の中にわたしまで入れられている。
書付部屋を出るころには、もう日が少し傾きはじめていた。
帰り際、清雅は門前まで見送りに出た。
「返事は急がせましたが、今日すぐでなくても構いません」
「昨夜は明朝までと」
「脅しておいた方が来てくださるかと思いまして」
あまりにさらりと言うので、わたしは呆れてしまった。
「最低です」
「でしょうね」
そう言って微笑む顔が、美しいのに腹立たしい。
父が一礼し、わたしも頭を下げた。
門を出るとき、ふいに背後から清雅の声が届く。
「志乃殿」
振り返る。
門の内側に立つ彼の姿は、やはりこの家によく似合っていた。似合っているのに、その家の一部として完全に溶け込んでいるわけではない。どこか、この屋敷そのものと静かに渡り合っているような立ち方だった。
「ここは檻です」
穏やかな声だった。
「ですが、檻の中にしかいない鳥もいる」
何を言っているのか、一瞬では分からない。
けれどその言葉は、帰り道のずっとあとまで、胸の中へ残り続けた。
檻の中にしかいない鳥。
それは守られている鳥のことか。
それとも、閉じ込められている鳥のことか。
あるいは、外では生きられない鳥のことか。
父と並んで歩きながら、わたしはもう、ただ一つだけはっきりと分かっていた。
榊原家は、たしかに檻だ。
けれどその檻の中には、わたしの祝言を白紙にしたものへ続く何かがある。
そして榊原清雅もまた、その檻の中で自由な顔をしながら、実のところ何かに繋がれている。
怖い。
でも、知りたい。
その二つが、もうきれいに分けられないところまで来てしまっていた。




