第10話 偽りの縁談書
榊原家から戻ったその夜、わたしはほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、門の大きさが浮かぶ。磨き抜かれた廊下、揃いすぎた足音、女中たちの一瞬の視線、用人のよそよそしい礼。
そして、そのすべての真ん中にいるようでいて、どこか一歩外側からそれらを見ている榊原清雅の姿。
――ここは檻です。
――ですが、檻の中にしかいない鳥もいる。
あの言葉の意味を、わたしはまだうまく掴めずにいた。
ただ分かるのは、榊原家へ入れば、守られる代わりに自由は減るということ。けれど同時に、そこに入らなければ見えないものがあることもまた、本当だということだった。
朝、母はひどく重たい顔をしていた。
父は無言で朝餉をかき込み、食べ終えると湯飲みを置いてようやく言った。
「決めるのは、おまえだ」
わたしは箸を持つ手を止めた。
「おとっつぁん」
「行かせたくない気持ちはある。だが、行かぬ方が安全と言い切れるわけでもない」
母が悔しそうにうつむく。
「そんな……」
「だから、決めるのは志乃だ」
父はわたしを見た。
正面から、まっすぐに。
「ただし、行くなら“拾われる”つもりで行くな。働きに行くんだ」
その言葉は、ずしりと胸へ落ちた。
そうだ。
清雅の言葉がどれほど強くても、名門の屋敷がどれほど眩しく見えても、わたしは“哀れまれて置かれる娘”として行ってはならない。
行くなら、筆で働く者として行く。そうでなければ、檻に入る意味がない。
「……行く」
言った瞬間、母が顔を上げた。
「志乃」
「怖いよ。でも、もう何も知らないまま家の中で震えてるのはいや」
自分の声が思ったより静かだった。
もう少し泣きそうになるかと思っていたのに、不思議とそうはならなかった。
「わたしの祝言のことも、あの文のことも、知らないまま人に決められるのはいや。だから行く」
母は何か言いかけ、結局、わたしの手を強く握った。
その手のぬくもりだけで十分だった。
その日のうちに、榊原家への返事は届けられた。
そして、志乃を文机役見習いとして預かる段取りは、驚くほど早く整えられた。
早すぎる、と思う。
まるで、こちらが頷くことまで最初から折り込み済みであったかのように。
実際、その通りなのだろう。
翌々日、わたしは小さな包みひとつで榊原家へ入った。
花嫁道具のような大仰な荷ではない。着替えと、筆と、硯と、少しの紙。
それだけだ。
祝言の日にこの家を出るときは、白無垢の重みに押し潰されそうだった。今日はむしろ軽すぎて、自分の人生の嵩まで軽くなったように感じる。
門をくぐると、前に見たときと同じように、すぐ誰かの視線を感じた。
女中が一人、案内役として待っていた。年のころは三十前後。顔立ちはおとなしいが、口元の締まり方に隙がない。
「志乃さまでございますね。わたくし、菊江と申します」
「よろしくお願いします」
「こちらへ」
言葉は丁寧だが、どこか線が引かれている。
当たり前だ。昨日まで町家にいた娘が、若君の差し図で屋敷へ入る。歓迎一色で迎えられるはずがない。
案内されたのは、奥ではなく、外向きの棟に近い一角だった。
部屋は思っていたよりずっと簡素だが、清潔で、必要なものは不足なく揃っている。文机も、小ぶりながら使いやすそうなものが置かれていた。
「しばらくはこちらをお使いください」
「ありがとうございます」
「若君様より、落ち着かれましたら書付部屋へ、と」
それだけ言って、菊江は一礼した。
だが出ていく前に、ほんの少しだけ足を止める。
「榊原家では、口の軽い者は長くおりません」
振り返ると、菊江は穏やかな顔のまま続けた。
「見たことも、聞いたことも、仕事に必要な分だけ胸へしまうのがよろしいかと」
忠告とも牽制ともつかぬ言い方だった。
わたしは頷く。
「気をつけます」
「そうしていただければ」
菊江が去ると、部屋は急に静かになった。
わたしは小さな包みを机の脇へ置き、ひと息ついた。
ここが、しばらくのあいだのわたしの居場所になる。
町家の娘として育ったわたしには、畳の匂いも、障子越しの光も見慣れたもののはずなのに、この部屋はどこか違って見えた。
整いすぎている。無駄がなさすぎる。
自分が少しでも気を緩めれば、すぐ“余所者”として弾かれそうな緊張がある。
やがて、書付部屋へ通された。
前に見たときよりも、部屋の中には人がいた。
帳面を繰る者、封を改める者、文箱を運ぶ者。女も男もいるが、皆それぞれに役目がきっちり決まっているらしく、私語は少ない。
その中へ案内されると、視線が集まる。
若君に連れられてきた町家の娘。
しかも、ただの手伝いではなく文机役見習い。
珍しいのだろう。怪しまれてもいるだろう。
けれどあからさまに蔑む者はいない。榊原家という檻の中では、そういう無遠慮さもまた許されぬのだ。
「こちらが志乃殿です」
低い声がした。
見れば、年配の男が一人、文机の向こうに座っている。昨日見た用人とは別だ。髭はなく、痩せぎすで、指先だけが妙に几帳面そうな男だった。
「文の見比べに目が利くと聞いております」
言い方は丁寧だったが、半信半疑が隠れていない。
「わたくし、榊原家で外向きの文を預かっております、藤三郎と申します」
「志乃です。よろしくお願いいたします」
「まずは簡単なものから見ていただきましょう」
簡単なもの。
そう言って藤三郎が差し出したのは、数通の縁談に関わる文だった。
家と家とのあいだでやり取りされた控え、返答の下書き、そして最終的に双方で取り交わされた写し。
ぱっと見た限り、ただの細かな食い違いにしか見えない。
だが藤三郎の眉間の皺を見るに、“ただの食い違い”では済まないのだろう。
「どこかおかしいと?」
「先方より、話が違うとの申し立てがございました」
「話が違う」
「縁談に際して交わした条件の文言が、こちらの控えと、先方の手元の文で違っているのです」
なるほどと思う。
縁談そのものは進んでいる。だが、その条件――持参金、住まい、付ける女中の数、あるいは婚礼後の扱い――そうした細部が違えば、後々大きな禍根になる。
「どちらが本物か、という話ですか」
「表向きはそうです。ですが、本物偽物の一言で済むなら、もう片づいております」
藤三郎の声には少し棘があった。
試されているのだと分かる。
わたしは文を受け取り、机に並べた。
紙質。
墨の濃さ。
筆の運び。
文の位置取り。
頭から順に追っていく。
最初の二通に大きな違いはない。
むしろ、違いがあるのは三通目――先方の手元にあったという写しだった。
条件にあたる箇所の文言が、ほんの少しだけ違う。
“女中二人”が“女中三人”になっている。
“年内”が“年明け早々”に変わっている。
どちらも、一字二字の差に過ぎない。だが、その一字二字こそが後で人を揉めさせる。
わたしは眉を寄せた。
「……変です」
「ほう」
藤三郎が腕を組む。
「どこが」
「差し替えたように見せているのに、差し替えきれていません」
部屋の何人かが、こちらを見た気配がした。
けれどもう気にしている余裕はない。
「この先方の写し、条件のところだけ文字が違って見えるように整えてあります。でも、整えた人は元の文の癖を真似しきれていない」
「真似しきれていない?」
今度は別の男が口を挟んだ。若いが鼻にかかった声で、明らかにこちらを軽く見ている。
「たった一字二字で、そこまで分かるものか」
振り向けば、小姓ではないがまだ若い書役らしい男だった。
名前は知らない。けれどその目には、“若君の気まぐれで入った町娘が何を言う”という色がある。
腹は立ったが、ここで張り合っても仕方がない。
わたしは紙から目を離さずに答える。
「一字二字だから分かることもあります」
「ふん」
「たとえば、ここの“三”の払い。元の書き手は、二画目に入る前に少しだけ筆を溜めます。でも、差し替えた方は勢いで流している。それから、“早”の上の“日”の収まり方も違う。元の書き手はやや縦長に取るのに、こちらは横に広い」
若い書役は黙った。
さらに続ける。
「それに、差し替えた箇所の周りだけ、文意の呼吸が変わっています」
「呼吸?」
藤三郎が問う。
「はい。前後の文は、ずっと遠慮がちなんです。相手の家格を気にして、少し下からお願いする調子になっている。でも差し替えたところだけ、妙に言い切りが強い」
文の一行を指でなぞる。
「つまり、条件だけを後から盛りたかった人の気が、ここだけに出ています」
言い終えると、部屋がひと息ぶん静かになった。
誰かが喉を鳴らし、誰かが帳面を閉じる音がする。
その静けさの真ん中で、藤三郎がゆっくりと紙を受け取った。
「……なるほど」
その声は、最初より少しだけ重かった。
「こちらの控えが本物だと?」
「本物、というより」
わたしは言葉を選んだ。
「こちらの方が先です。先方の写しは、あとから条件だけ変えたものを、元の文らしく見せようとした跡があります」
若い書役がなおも噛みつこうとする。
「証は?」
「筆です」
「そんなもの」
「そんなもの、で済ませるなら、最初からわたしに見せる必要はなかったでしょう」
言ってから、少し強すぎたかと思う。
だが若い書役はむっとした顔のまま黙り込んだ。
そのとき、部屋の入口で衣擦れの音がした。
「面白い」
振り向かなくても分かる。
榊原清雅だった。
いつから聞いていたのか。
部屋の空気がさっと整う。藤三郎も若い書役も、揃って一礼した。
「若君様」
「続けてください。私も聞きたい」
清雅はそう言って、部屋の端へ寄った。
それだけなのに、空気の流れが変わる。誰もが彼を意識しながら、それを表には出さぬようにする。名門の若君とは、ただそこに立つだけで人の姿勢を変えるものなのか。
わたしは少しだけ息を整え、もう一度文を指した。
「条件を盛った人は、たぶん元の文を書いた人ではありません。書いた人の近くにいて、字も少しは真似られるけれど、文の調子までは真似きれなかった」
「つまり」
清雅が促す。
「写しの段階で、内側の誰かが手を入れた?」
「はい」
清雅の目が、ほんのわずかに細まる。
「そこまで言い切れますか」
「……言い切れます」
少し迷ってから、それでも言った。
見えるものを、見えないふりはしたくなかった。
清雅はそこで、藤三郎へ向き直った。
「これで足りますか」
藤三郎は深く頭を下げた。
「十分にございます」
若い書役だけが、まだ不服そうに唇を結んでいる。
清雅はそれを横目で見て、さらりと言った。
「おまえはどう見た」
若い書役が一瞬、答えに詰まる。
「私は……そこまでは」
「そうでしょうね」
微笑んだまま言うのに、ひどく厳しい。
若い書役は赤くなって黙った。
清雅は再びわたしを見た。
「志乃殿」
「はい」
「今のは、単なる当てものではありません」
「……はい」
「書き手の癖だけでなく、文意の調子と、差し替えた者の欲まで見ている」
その言い方に、胸の奥が少しだけ震える。
欲。
そうか。わたしは字だけを見ていたのではない。そこへ手を入れた人の“こうしたい”という欲まで見ていたのだ。
清雅が静かに続ける。
「それが見える者は少ない」
その場にいた誰も口を挟まなかった。
若い書役でさえ黙っている。
その沈黙が、言葉以上に重く感じられる。
藤三郎が文を抱え、改めてわたしへ頭を下げた。
「失礼いたしました。見習いと侮っておりました」
そこまで頭を下げられるとは思わず、こちらが戸惑う。
「いえ」
「この件は、すぐに先方への返しを整えます」
藤三郎が部屋を出ていくと、残っていた者たちもそれぞれの仕事へ戻っていった。けれど先ほどまでと違う。視線の質が変わっている。
まだ警戒はある。だが“若君の酔狂で入った娘”ではなく、“使えるかもしれない女”として見られ始めたのが分かる。
それが嬉しいのか、息苦しいのか、自分でも分からなかった。
部屋にわたしと清雅だけが残る。
いや、正確には人の気配は近くにもあるのだろう。けれどこの瞬間だけは、二人きりのようだった。
「初仕事としては上々ですね」
清雅が言う。
「初仕事、ですか」
「榊原家での、という意味で」
「まだ見習いです」
「見習いでも仕事は仕事です」
わたしは机の上へ視線を落とした。
紙はもう片づけられているのに、さっきまでの一字一字がまだ頭の中に浮かんでいる。
「……最初から、こういうのを見せるつもりだったんですか」
「ええ」
「わたしが解けると」
「解けるでしょう」
何のためらいもなく言い切るので、また腹が立つ。
「もし解けなかったら」
「そのときは、そのときです」
「ずいぶんですね」
「ずいぶんですよ」
清雅は少し笑った。
「ですが、外れたことがない」
何が、とは言わなかった。
それでも意味は分かる。
人を見る目か、わたしを見る目か、あるいはその両方か。
言い返そうとして、できなかった。
その代わり、別のことを訊く。
「さっきの縁談書、本当にただの揉め事なんですか」
清雅の笑みが、ほんの少しだけ薄れた。
「どういう意味で?」
「条件を盛っただけなら、せこい話で終わります。でも、藤三郎さんたちの顔つきは、そんな程度じゃなかった」
清雅はわたしを見つめた。
その沈黙に、訊きすぎたかと思う。
だが彼はやがて、静かに言った。
「縁談は、家と家を繋ぐものです。繋ぎ方を少し変えるだけで、その先の人の動きまで変わる」
「人の動き」
「嫁ぐはずの者が嫁がぬこともある。入るはずの金が入らぬこともある。逆に、入るはずでなかった者が入ることもある」
その一言が、胸のどこかへ深く刺さる。
嫁ぐはずの者が嫁がぬこともある。
それは、ほとんどそのまま、わたしのことではないか。
清雅はそこまで言ってから、少しだけ声を落とした。
「だから、こういう一字二字が、ただの一字二字で済まないこともあるのです」
わたしは何も言えなかった。
さっき見抜いた差し替えは、ただの技巧の問題ではなかった。そこには家の都合があり、人の運命があり、場合によっては誰かの“入るはずの場所”を奪う力すらあるのだ。
清雅が机の端へ指先を置いた。
「今の一件で、屋敷の中も少しは静かになるでしょう」
「静か?」
「あなたを置くことに、懐疑的な者もいましたから」
わたしは顔を上げる。
「……やっぱり」
「当然です。突然入ってきた町家の娘に、文を見せるのですから」
「じゃあ、さっきの若い書役の人も」
「ええ」
「試した?」
「半分は」
半分。
では半分は、本当に気に入らなかったのだろう。
そのことに妙に納得する。
榊原家という檻の中で、わたしはまだ余所者だ。使えると証明しなければ、居場所はない。
清雅は、そんなわたしの考えを読んだように言った。
「安心なさい。あなたが働けると示せば、口は減ります」
「安心できる言い方じゃありません」
「そうですか」
「そうです」
言い返すと、彼はまた少し笑う。
この人は本当に、こういうやり取りを面白がっている節がある。
けれど次の言葉は、笑みよりずっと静かだった。
「あなたの書いた控えは、誰にも触れさせません」
「え?」
「今後、あなたが見た文と、その見立ては、まず私のところへ通す」
「どうして」
「勝手に書き換えられては困るからです」
その答えに、ぞくりとする。
それはわたしを守っているようでいて、同時にわたしの仕事そのものを、清雅が手放す気がないという宣言でもあった。
「……わたしを、ずいぶん囲いますね」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
口にした瞬間、自分で少し驚く。
だが清雅は否定しなかった。
「必要なものは手元に置きます」
あまりに迷いなく言うので、息が詰まった。
必要なもの。
それは誉め言葉のようでもあり、品定めのようでもある。
反発したいのに、できない。
清雅の言う“必要”の中に、わたし自身が少しずつ巻き取られていく気がした。
その日の仕事を終え、部屋へ戻るころには、日がだいぶ傾いていた。
障子の外は、やわらかな橙色に染まっている。
わたしは机の前に座り、今日一日のことを思い返した。
縁談書の偽り。
一字二字に仕込まれた欲。
それが家と家の運びを変えること。
そして、榊原家の中で初めて、自分の力が“使えるもの”として認められたこと。
怖い。
でも、もう後戻りはできない。
檻の中へ入ったからには、この中で自分の目と筆がどこまで通じるかを見なければならない。
ふと、昼間の清雅の言葉がよみがえる。
――必要なものは手元に置きます。
その言葉に腹が立つ。
立つのに、なぜか頬が少し熱くなる。
「……ほんとうに厄介な人」
誰にも聞かれぬよう、小さく呟いた。
けれど、その厄介さごと、この家の中で生き延びるためには無視してはいけないのだと、もう分かっていた。




