第11話 白紙にされたのは、祝言だけではない
榊原家へ入って三日目の朝、わたしはようやくこの屋敷の音に少しだけ慣れはじめていた。
朝一番に聞こえるのは、庭を掃く竹箒の音。
その次に、どこか遠くの廊下を渡る足音。
女中たちが声を潜めてやり取りする気配。
そして、まだ陽が高くならぬうちから、外向きの書付部屋にはもう人の出入りが始まっている。
町家の朝とは違う。
けれど、違うなりに、繰り返される規則のようなものがある。
その規則に自分の呼吸を少しずつ合わせていくしかないのだと、この数日で嫌でも分かった。
とはいえ、完全に馴染めるわけではない。
廊下ですれ違えば、女中たちはきちんと礼をする。だが、その礼の角度や視線の置き方に、まだわたしの居場所が定まっていないことが出る。
書付部屋でも同じだ。藤三郎はあれ以来、必要以上にわたしを軽んじなくなった。若い書役の男も、露骨に鼻で笑うことはなくなった。だが、それは歓迎されたというより、「役に立つうちは置いておく」という種類の受け入れ方に近い。
それで十分だ、と自分へ言い聞かせる。
ここは檻だ。
居心地のよさを求めて入った場所ではない。
朝のうち、藤三郎がいくつかの控えを机に置いていった。
前日の縁談書の件を踏まえて、書き直しの返答文を整えるための下見らしい。
わたしはそれらを順に見ながら、必要な箇所へ短く控えを入れていく。
文を読む。
言い回しを見る。
紙の質と筆の癖を比べる。
そうしているあいだだけは、気持ちが妙に冴えていく。
それが自分の務めなのだと思えば、ようやくここにいる理由を実感できる。
だが、その日は昼前に、別の文箱が運び込まれた。
「こちらも見ていただけますか」
そう言ってきたのは藤三郎ではなく、昨日よりは少し口調の柔らかくなった若い書役だった。
まだ心から認めたわけではないのだろうが、少なくとも“若君の酔狂の女”としてではなく、仕事相手として声をかけてきたらしい。
「何ですか」
「古い縁談控えです。今朝、奥の方から回ってきまして」
奥。
その一言で、胸が少しざわつく。
奥向きが絡む文は、外向きのそれより言葉がやわらかいぶん、かえって嘘が紛れ込みやすい。しかも、表へ出ぬところで処理されるから、記録の残り方も曖昧になりやすい。
文箱から出されたのは、やや古びた控えだった。
紙の端は少し黄ばんでいる。墨の色も、つい先日のものではない。
けれど“古い”と言っても何年も前ではなく、せいぜい数月のうちだろう。
何気なく一通目を開いた瞬間、指先が止まった。
見覚えがある。
いや、文そのものに覚えがあるのではない。こういう“整え方”に、嫌というほど覚えがあった。
最初の挨拶は丁寧だ。
互いの家を立て、穏便を尊ぶふりをしている。
だが、肝心の結びが曖昧すぎる。
事情あり。
差し控え。
互いのため。
いずれも、誰も責を負わぬための言葉だ。
喉の奥がひやりとした。
これは、祝言の日の書付に近い。
まったく同じではない。
字も違う。文の長さも違う。
それでも、“相手に理由を渡さぬために、もっともらしい顔をした曖昧さだけを残す”という筋が、あまりにも似ている。
「どうしました」
若い書役が訊く。
わたしはすぐに答えられなかった。
「これ……誰の縁談ですか」
「は?」
「控えでしょう。誰と誰の」
「それは」
若い書役はそこで口ごもった。
答えづらいのか、答えるべきではないのか、そのあたりの逡巡が顔へ出る。
「見れば分かるだろうが、名は伏せてあります」
「名が伏せてあっても、流れでだいたいの家格は分かります」
実際、文面に出る敬語の置き方や、添えられた控えの質から、双方とも町人ではなく、ある程度以上の家だと分かる。
そして何より、この“差し控え”の仕方は、ただの恋沙汰ではない。家と家の面目を傷つけず、なおかつ理由を伏せたいときの文だ。
「……詳しいことは知りません」
若い書役はそっけなく言った。
だが、ほんとうに知らぬのではなく、口を閉ざしているのだと分かる。
わたしは二通目を開く。
それは先方からの返しの控えらしく、こちらもまた、理由を問わず、ただ“委細承知”の形をとっている。
おかしい。
本当に納得しているなら、ここまできれいに飲み込めるものだろうか。
少なくとも、わたしの家ではそうではなかった。父は怒り、母は泣き、親類は騒いだ。破談や差し止めとは、もっと角の立つものだ。なのにこの文は、最初から角が立たぬよう処理されている。
つまり、当事者の外側に、角を立てさせぬ誰かがいたということだ。
その考えに至ったとき、胸がどくりと鳴った。
わたしの祝言のときも、そうだったのではないか。
婚家が突然心変わりしたのではない。
あれはもっと別の手が入った“処理”だったのではないか。
だからこそ、使いの男は事情を半分しか知らず、書付は理由を与えぬためだけに整えられ、家は騒ぐことすら許されぬまま白紙へ戻された。
「志乃殿」
声に顔を上げると、いつの間にか藤三郎が部屋へ戻ってきていた。
「顔色がよろしくない」
「……大丈夫です」
大丈夫ではない。
でもそう言うしかない。
藤三郎は机の上の文へ目を落とし、それが何の控えか察したらしい。
「そこまでで結構です」
「まだ全部見ていません」
「よいのです」
「でも」
「それ以上は、若君様に」
その言い方で、ようやく分かった。
この文は、最初からただの見比べ仕事ではなかった。
清雅が見るべきものを、先にわたしの目に通しているのだ。
では、どこまでが偶然で、どこからが仕組みなのだろう。
昨日の偽りの縁談書も、今日の古い控えも。
それらが本当に“仕事として回ってきた”だけなのか、それとも清雅がわたしに何かを思い出させ、気づかせるために並べているのか。
その問いの答えは、ほどなくしてやってきた。
昼を少し過ぎたころ、菊江が部屋へ来て言った。
「若君様がお呼びです」
わたしは筆を置いた。
心のどこかでは、来ると思っていた。
案内されたのは、前に話をした応接の座敷よりさらに奥ではないが、少し静かな一間だった。
庭へ面した障子は半ば開き、風がやわらかく入っている。季節の花が一輪、控えめに活けられているのが、いかにも清雅の好みらしい。
その人は、もうそこで文を広げていた。
「お忙しいところを」
わたしが言うと、清雅は顔を上げた。
「今は、あなたの方が忙しいでしょう」
「そうでもありません」
「では、座って」
促されるまま座る。
机の上には、さっき見た古い縁談控えがある。
「ご覧になりましたね」
「……はい」
「どう思われましたか」
いつもと変わらぬ穏やかな口調だ。
けれど今は、試しているというより、確かめようとしている気配の方が強かった。
「似ています」
「何に」
「わたしの祝言の日の書付に」
言ってしまうと、かえって胸の内が静かになった。
もう、そこから目を背けることはできない。
清雅は少しだけ視線を伏せた。
それは驚きではない。やはり、という沈黙だった。
「どこが似ていると?」
「隠し方です。相手に何も渡さないための、平凡すぎる整え方。事情あり、差し控え、互いのため。そういう言葉ばかりで、誰の意思なのか分からなくする」
清雅は文をたたまなかった。
指先で紙の端をなぞりながら訊く。
「それだけですか」
「……それだけじゃありません」
喉が少し乾く。
でも、ここまで来たら言うしかない。
「この控えのやり取り、当事者だけでは済んでいない気がします。双方が納得して差し控えたというより、差し控える形へ持っていかれている」
「持っていかれている」
「はい。もし本当に嫌なら、もっと棘が残る。もっと怒りや悔しさが滲む。でも、ここにはそれがない。だから、怒ることも悔しがることも許されぬところで文が整えられたんだと思います」
言い終えたとき、自分の両手が少し震えているのに気づいた。
自分の祝言を、今まさに他人の文に重ねて見ているからだろう。
清雅はその震えを見たのか、見ぬふりをしたのか、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「やはり、あなたには見える」
その言い方は、誉めるというより、確認するようだった。
「……最初から知っていたんですね」
わたしは顔を上げた。
「わたしの祝言が、ただの破談じゃないって」
庭の風が、障子をわずかに鳴らす。
清雅はすぐには答えなかった。
その沈黙が何より雄弁だった。
「どこまで」
思わず身を乗り出す。
「どこまで知っているんですか。どうしてわたしは、あの日、花嫁衣装のまま帰されたんですか。婚家の気まぐれじゃないんでしょう。じゃあ何なんですか」
声が荒くなる。
自分でも止められなかった。
「わたしは、何を奪われたんですか」
その一言に、清雅の目が動いた。
ほんのわずかに。
けれど、確かに。
奪われた。
それは以前、この人自身が口にした言葉だ。
「……その言葉を覚えていましたか」
「忘れるわけがないでしょう」
清雅は、ふっと息をついた。
疲れたようにも見えるが、たぶん違う。言葉を選び直しているのだ。
「私は、すべてを知っているわけではありません」
「でも、何かは知っている」
「はい」
あっさりと認められて、かえって息が詰まる。
「あなたの祝言が、婚家の一存で潰れたのではないこと。そこへ、別の意向が入ったこと。少なくともその程度は、ほぼ確かです」
「別の意向って、誰の」
「そこがまだ、札の足りぬところです」
またその言葉だ。
札。
文、証、人の動き。
こんなにも大事なことを、あくまで札の足りぬ話として扱う。その冷静さが腹立たしく、同時に、だからこそ信じられる気もする。
「だったら、どうして最初から教えてくれなかったんです」
「教えれば、あなたは今よりもっと無闇に動いたでしょう」
「そんなこと」
「なさらないと?」
清雅の問いに、言葉が詰まる。
たぶん、した。
婚家へ走ったかもしれない。口入屋へ戻ったかもしれない。茶店の噂に飛びついたかもしれない。
そのどれも、いま思えば危うい。
清雅は机の上の控えへ手を置いた。
「白紙にされたのは、祝言だけではないのです」
その声は低く、静かだった。
「あなたに渡されるはずだった理由も、あなたが怒るはずだった道筋も、最初から消されている」
胸の真ん中を、鈍く殴られた気がした。
理由。
道筋。
怒るはずだった道筋。
そうだ。
わたしは祝言を失っただけではない。問い質す先も、恨む形も、納得する手立ても、最初から奪われていたのだ。
婚家に怒ればよいのか、使いの男を責めればよいのか、それとも誰かもっと別の者がいたのか。何ひとつ分からぬまま、ただ“白紙に戻したく候”の一行だけを押しつけられた。
それは確かに、祝言だけの話ではない。
わたしは唇を噛んだ。
目の奥が熱い。
泣きたいわけではない。けれど、胸のどこか深いところが、ようやく自分の傷の形を知ってしまった。
「……どうして」
声がかすれる。
「どうして、そんなことを」
「それを知るために、あなたはここへ来たのでしょう」
そう言われると、その通りだった。
悔しい。
この人はいつも、こちらが行き着くしかない場所へ、先に言葉を置いて待っている。
「なら、全部教えてください」
「まだ、できません」
「またそれですか」
「はい」
清雅はまっすぐわたしを見た。
「ですが一つだけ。あなたの件と、いま江戸の中でいくつか続いている“おかしな縁の切れ方”は、別々ではない可能性がある」
おかしな縁の切れ方。
それは、今日見た古い控えのことだろうか。
それとも、消えた依頼人が持ち込んだ書状。
あるいは、その先にもまだ幾つもあるのか。
「だから私は、あなたを市中へ置いておきたくなかった」
その言葉に、また胸が波立つ。
保護なのか。
囲い込みなのか。
どちらなのか分からない。いや、たぶんどちらもなのだ。
「……あなた、最初から知ってたんですね」
「何を」
「わたしが、この文を見たら、祝言のことを思い出すって」
清雅は少しだけ視線をずらし、庭を見た。
正面から否定しない時点で、答えは出ている。
「性格が悪い」
思わず言うと、彼はようやく小さく笑った。
「よく言われます」
「ひどい人」
「それも」
ひどい。
でも、もしこの人が最初から何も見せず、何も言わず、ただ“危ないからこちらへ”とだけ言っていたら、わたしはここまで信じなかったかもしれない。
腹立たしいほど、正しい順で札を見せてくるのだ。
しばらくして、清雅は文を文箱へ戻した。
「今日はこれ以上はやめましょう」
「……わたしは、まだ」
「分かっています」
その“分かっています”が、妙にやさしく聞こえてしまって、余計に困る。
「ですが、いまは怒りの形だけ掴めばよい」
怒りの形。
それは大事な言葉だった。
怒っていいのだと、ようやく思えたからだ。
婚家にも、自分にも、事情が分からぬことそのものにも、ただ耐えるしかないと思っていた。
でも違う。
わたしは怒るべきだったし、その道筋を消されたのなら、それにこそ怒っていい。
「……わたし、知らないまま諦めません」
気づけば、そう言っていた。
清雅は頷いた。
「そうでなくては」
また、そう言う。
まるでわたしがそう言うのを、最初から知っていたみたいに。
部屋を辞するとき、わたしは振り返らなかった。
振り返れば、またあの人の顔に何かを読まれそうだったからだ。
廊下へ出る。
息をつく。
胸の奥はまだ熱く、痛く、落ち着かない。けれど不思議なことに、足元だけは少しだけはっきりしていた。
祝言を失った。
だけど、それだけではない。
わたしは“どう失ったのかを知る権利”まで奪われていた。
そのことが分かった今、もう元のわたしではいられない。
白紙にされたのは祝言だけではない。
ならば、取り戻すべきものもまた、祝言だけではないのだ。




