第12話 おまえは奪われた
その夜、志乃は久しぶりに夢を見た。
祝言の日の夢だった。
白無垢の重み。
母の震える指。
父の白い顔。
そして、あの書付。
何度も見返した文なのに、夢の中ではいつも肝心なところが滲んで読めない。
子細ありて。
互いのため。
詮索無用。
その決まり文句だけが、白い紙の上でぬるりと浮かび、あとは墨が流れたように崩れていく。
夢の中の志乃は、その読めぬ文を前に、怒ることも泣くこともできずに立ち尽くしていた。
そのとき、不意に誰かの声がした。
――捨てられたのではない。
――おまえは奪われたんだ。
清雅の声だった。
はっとして目を開けると、障子の向こうがわずかに白んでいた。
まだ朝には早い。けれど眠りはもう浅く、胸の奥には夢の続きのような重さが残っている。
布団の中で、志乃はしばらくじっとしていた。
奪われた。
その言葉を、清雅は前にも口にした。
そして昨日、もっとはっきり形を与えた。祝言だけではない。理由も、怒る道筋も、最初から消されていたのだと。
それが本当なら、自分は今まで、何を失ったのかさえ正確に知らずにいたことになる。
ふいに、腹の底から静かな怒りが湧いた。
婚家が憎いのか。
書付を持ってきた使いが憎いのか。
それとも、もっと別の、姿の見えぬ手が憎いのか。
まだ分からない。
けれど分からぬままでも、怒りそのものはたしかに存在していた。しかもそれは、祝言を潰された恥ずかしさや悲しさよりも、もっと深く自分の芯へ届く種類のものだった。
起き上がり、静かに身支度を整える。
榊原家での朝は、誰かが先に動き始める前に、自分の気持ちだけは整えておかなければならない。
書付部屋へ入ると、まだ人はまばらだった。
藤三郎がすでに帳面を開いていたが、志乃へ気づくと何も言わず一礼だけを寄越した。最初のころの疑い深さは薄れたが、その代わり“この娘はもう若君の仕事に深く関わっている”という距離の取り方に変わっているのが分かる。
志乃も礼を返し、自分の机へ向かった。
文机の上には、昨夜のうちに新しい控えがいくつか積まれている。けれど、今日はそれらへ手を伸ばす前に、どうしても確かめたいことがあった。
祝言の日に持ち帰った、あの書付だ。
町家を出るとき、志乃はあの紙を捨てられなかった。
呪いのような紙だった。見るたびに胸が塞がるのに、それでも手放せない。だから着物の底へ忍ばせるようにして、この屋敷まで持ってきていた。
部屋からそれを取り出し、机の上へそっと広げる。
幾度見たか分からぬ文だ。
けれど今日は、これまでとは違う見方をしようと思った。
傷ついた花嫁としてではなく、文を見る者として。
まず、紙質。
婚礼当日の急な使いにしては、紙が落ち着きすぎている。急場でそこらから取ったものではなく、あらかじめ用意していたと見てよい。
次に折り。
きっちりしている。礼を失さぬ範囲で、余計な情はこもらぬ折り方だ。
そして文面。
子細ありて白紙に戻したく候。
重ねて申すべき儀もなく、今日のところはこれにて。
互いのため、詮索無用に願いたく候。
やはり、平凡すぎる。
祝言当日に相手へ渡す文として、あまりに感情の気配がない。婚家の怒りも、後ろめたさも、逡巡も見えない。
それはつまり、当事者の感情が最初から削られているということだ。
さらに、今日の志乃は、その先まで見た。
「……筆を持つ人が、これは」
口の中で、小さく言葉にする。
この文を書いた者は、書き慣れている。
ただし、日々公儀の書状ばかり扱う者の手ではない。礼法は知っているが、文章の温度を消すことを優先している筆だ。
もっと言えば、これは「誰かの言葉を整えること」に慣れた手だ。
誰かの言葉を整える。
それはつまり、本人の感情や本音を削ぎ落とし、表へ出して差し支えない形へ仕立てるということだ。
ぞくりとした。
もしかすると婚家ですら、この文を“自分たちの言葉”として受け取らされていただけなのかもしれない。
そうだとすれば、祝言白紙は家と家の感情のぶつかり合いですらない。もっと上のところで、都合よく整えられ、当事者にさえ説明を与えぬまま進められた処理だったことになる。
「そこまで見えましたか」
不意の声に、志乃ははっと顔を上げた。
いつの間に入ってきたのか、清雅が部屋の入口近くに立っていた。
今日の彼は、濃い色の羽織に淡い袴を合わせている。相変わらずよく似合う。だがその美しさより先に、いまは“どこまで見られていたのか”の方が気になった。
「……人の気配に気づかせないの、やめてもらえますか」
「気配はありましたよ」
「なかったです」
「それは失礼」
そう言いながら、ちっとも悪びれない。
清雅は志乃の机の前まで来ると、祝言の日の書付へ目を落とした。
それだけで、部屋の空気がまた一段階静まった気がする。まだ朝の早い時間で人が少ないとはいえ、ここが開かれた書付部屋であることに変わりはない。なのにこの男は、必要なときには不思議なほど周りの気配を薄くする。
「見直していたんです」
志乃は書付から目を離さず言った。
「昨日までは、自分が花嫁としてどう辱められたかしか見えていなかった。でも今日は違う」
清雅は何も言わなかった。
志乃の続きを待っている。
「この文、婚家の感情がないんです。もし本当に婚家が怒っていたなら、こんなに綺麗には整わない。後ろめたいなら、もっと回りくどくなる。これはどちらでもない。ただ“表へ出せる形”だけに整ってる」
「はい」
「つまり、婚家の言葉を、そのまま紙にしたんじゃない。誰かが整えた」
清雅はごくわずかに頷いた。
「いいところまで来ました」
「いいところまで、じゃありません」
胸の奥で燻っていたものが、その言葉で急に火を吹いた。
「わたしは、自分の祝言がどうしてああなったのか知りたいんです。いいところだとか、札が足りないとか、そういうふうに少しずつ出されるのは、もう――」
そこまで言って、声が強くなりすぎたと気づいた。
だが止められなかった。
「もう、いやです」
清雅はしばらく黙っていた。
怒らせたかと思ったが、違った。あれはたぶん、志乃がどこまで自分の怒りを言葉にできるか見ていた沈黙だ。
やがて彼は、低く言う。
「では、もう少し先まで申しましょう」
志乃は息を止めた。
「あなたの祝言の件は、誰か一人の気まぐれではありません」
やはり。
分かっていたはずなのに、こうして言葉にされると、胸の内で何かが音を立てる。
「婚家は、少なくとも最後に文を渡す役を負った。ですが、文そのものの整え方、当日の運び、理由を伏せるための筋立て――それらは、もっと別のところで決められていると見ています」
「別のところって」
「まだ断じきれません」
「また」
「ですが、婚家より上で、しかも表沙汰にはできぬ形で話を動かせるところ」
その言い方に、背筋が冷たくなる。
家格の高い家。奉行所へ話を持ち込むまでもなく、縁談を止めさせ、理由を伏せさせ、使いに運ばせることのできるところ。
「……そんなところ、あるんですか」
「あります」
清雅はさらりと言った。
「人の縁は、表で結ばれるように見えて、裏でほどかれることもある」
志乃は無意識に、書付の端を指で押さえていた。
紙は何も語らない。けれど、その沈黙の中に、自分の知らなかった大きさが潜んでいる。
「わたし、そんなもののために」
声が震えた。
怒りか、悔しさか、まだ分からない。
「そんなもののために、何も知らされずに帰されたんですか」
清雅はすぐには答えなかった。
その代わり、机の向こう側へ回り、志乃の正面ではなく斜めの位置に立った。真正面から押さえつけるのではなく、言葉が逃げる余地だけは残しているような立ち位置だった。
「志乃殿」
低く、静かな声だった。
「あなたは、捨てられたのではない」
その言葉が来ると分かっていたのに、胸が締めつけられる。
「おまえは奪われたんだ」
清雅は、今度は“あなた”ではなく“おまえ”と言った。
その違いに気づいた瞬間、志乃の中で何かがぴたりと定まった。
捨てられた。
その言葉は、これまで自分が自分へ向けていたものだった。不要とされた、厄介払いされた、縁起の悪い娘として押し返された。
けれど奪われた、となれば話は違う。
誰かが、何かを目的に、志乃の位置を取り上げた。
志乃がそこにいては困るから、あるいは別の誰かをそこへ入れたかったから。
少なくとも、“ただいらないから捨てた”のではない。
「だから俺は、おまえを取り返している」
その一言に、志乃は息を忘れた。
部屋の空気が一瞬で変わる。
遠くで帳面をめくる音がしたはずなのに、それすら耳から消えた。
取り返している。
誰から。
何を。
祝言をか。人生をか。理由をか。
あるいは、もっと別のものを。
「……何を」
やっとそれだけ言えた。
清雅はわずかに目を細めた。
その目に、これまで見せていた余裕や試すような色とは違う、もっと深いものがよぎる。
「今はまだ、全部は言えません」
「ひどい」
「ええ」
「いつもそう」
「そうでなければ、おまえをここへ連れてこられなかった」
腹が立つのに、反論がうまく言葉にならない。
清雅の言葉はいつも一歩先にある。しかも、その一歩先が、悔しいほど外れていない。
志乃は唇を噛み、書付を見つめた。
この一枚の紙の向こうに、自分の知らない誰かの都合がある。
奪われた。
もしそれが本当なら、奪われたものは取り返さなければならない。
花嫁の座が欲しいわけではない。
婚家へ戻りたいわけでもない。
けれど、何をどう奪われたのかを知らぬままでは、自分のこれからを自分で書けない。
「……わたし、知りたいです」
小さな声だった。
だが、清雅は聞き逃さなかった。
「ええ」
「全部」
「ええ」
「だから、もう勝手に決めないでください」
そこでようやく、清雅は少しだけ笑った。
「善処します」
「善処って何ですか」
「努力はするということです」
「絶対する気ないですよね」
「さて」
そんなやり取りをしているのに、胸の奥ではまだ熱が引かない。
怒っている。
たぶん、かなり。
けれどその怒りはもう、ただ泣きたいだけのものではなかった。
そのとき、部屋の外で小さな物音がした。
誰かが通りかかったのだろう。だがこの話を聞かせるわけにはいかぬと、二人とも同時に気づいた。
清雅は一歩引き、いつもの穏やかな顔へ戻る。
その切り替えの早さに、やはりこの人はこういう場に慣れているのだと思う。
「今日はここまでにしましょう」
「……はい」
「その書付は、もう少し預けていただいても」
言いかけた清雅に、志乃はすぐ首を振った。
「だめです」
きっぱり言うと、清雅はほんの少し意外そうな顔をした。
「これは、わたしのです」
祝言の日に、自分の手へ残ったもの。
呪いのようでもあり、唯一の手がかりでもある。
まだ、誰にも渡したくなかった。
清雅はそのまま、静かに頷いた。
「……そうですね」
それ以上は言わなかった。
志乃は書付を丁寧に畳み、懐へしまった。
その手つきは、もう初日のように震えてはいない。
部屋を出る前、清雅がもう一度だけ言った。
「志乃殿」
「何ですか」
「その怒りは、忘れない方がいい」
振り返る。
彼の顔は、いつものように静かだった。けれどその目だけが、少しだけ鋭い。
「怒りは、人を誤らせることもあります。ですが、奪われたものを取り返すときには、役に立つ」
志乃は何も答えなかった。
ただ、その言葉を胸のどこかへしまい込んだ。
部屋を出て廊下を歩く。
足は不思議なほど軽かった。
何も解決していない。
誰が、なぜ、どうして――肝心なところはまだ曖昧なままだ。
それでも、自分の傷の名前だけは、ようやく分かった。
捨てられたのではない。
奪われたのだ。
ならば、取り返す。
それが祝言そのものではなかったとしても、理由でも、道筋でも、自分のこれからでも。
何を奪われたのかを知り、取り返せるだけ取り返す。
榊原家という檻の中で、志乃ははじめて、自分の怒りを前へ進む力として握りしめた。




