第13話 書かれなかった名前
翌朝、志乃はいつもより早く目を覚ました。
榊原家の朝は、町家にいたころより静かなくせに、なぜか人を眠らせてはくれない。
竹箒が庭を掃く音も、遠い廊下を渡る足音も、炊き出しの火が入る気配も、みな慎み深い。慎み深いのに、屋敷じゅうの者がもう動き始めているのだと、はっきり分かる音ばかりだ。
その中で、志乃の胸だけがひどく落ち着かなかった。
昨夜、清雅は言った。
明日、見せたいものがある、と。
それを見れば、祝言の件の形が変わるかもしれない、と。
何を見せるつもりなのか。
文ではないと言っていた。では証人か、品物か、何かの控えか。
考えれば考えるほど、落ち着かなくなる。
顔を洗い、髪を整え、いつもより少しだけ早く書付部屋へ向かうと、まだ人は少なかった。藤三郎が文箱を整理しているだけで、若い書役たちは姿を見せていない。
志乃が入ると、藤三郎は手を止めて一礼した。
「お早うございます」
「お早うございます」
「若君様より、今朝はそちらではなく、奥手前の小書庫へ来るようにとのことです」
「小書庫?」
「はい」
それだけで、胸がひとつ鳴る。
書付部屋ではない。外向きの仕事ではなく、もっと別のものを見せるつもりなのだ。
藤三郎はそれ以上を語らず、また文箱へ手を戻した。
この家の者は皆そうだ。知っていても、言うべきでないことは口の端にも乗せない。
それが榊原家で長く息をするための作法なのだろう。
志乃は案内されたとおり、小書庫へ向かった。
小書庫は、応接の座敷よりさらに奥まった、だが完全な奥向きへ入る前の、ひっそりした一角にあった。
文箱と帳面が壁際に並び、光は障子越しに柔らかく落ちている。埃ひとつ目立たぬほど整えられているのに、不思議とここだけは、人に見せるためではなく、ほんとうに“しまう”ための部屋だと感じられた。
その中央に、清雅はすでにいた。
今日は羽織を着けていない。淡い鼠色の着物に濃い帯だけという気軽な姿で、文机の前に座っている。なのに気配は少しも緩まない。むしろ余計な飾りがないぶん、目の静けさだけが際立って見えた。
「おはようございます」
志乃が言うと、清雅は顔を上げた。
「お早いですね」
「落ち着かなかったので」
「正直で結構」
志乃はわずかに眉を寄せる。
「からかわないでください」
「からかってはいません。今日は、落ち着かないくらいで丁度よい」
そう言って、清雅は机の上へ手を置いた。
そこには、何通かの控えと、小さく綴じられた系図の写しのようなものが並べられていた。
「これですか」
「ええ」
「文ではないって言っていましたよね」
「文ではありません。少なくとも、ただの文ではない」
相変わらず言い回しが回りくどい。
けれど今日は、それに腹を立てるより先に知りたい気持ちの方が強かった。
志乃が向かいへ座ると、清雅は最初の一冊を開いた。
それは家系書の控えだった。だが正式の家譜というより、内々で縁談や養子入りを整理するための簡易な写しらしい。男の名、女の名、縁先、破談、再縁談、養女入り――そうした言葉が細かく記されている。
「最近半年ほどで、内々に動いた縁の写しです」
「最近、半年」
「ええ。私が気になって拾わせていた分だけですから、すべてではありません」
さらりと言われたが、気になって拾わせていた、という言い方自体が穏やかではない。
この男は普段から、名門同士の婚姻や養子入りの流れを、ただの噂ではなく“拾うべきもの”として見ているのだ。
清雅は一枚を指した。
「ここを」
志乃は身を乗り出した。
ある家の娘の名があり、縁談先が記され、その脇に後から書き足したような細い文字で“差し控え”とある。
さらにその下には、別の娘の名が、やや濃い墨で入れられていた。
「……これ」
「気づきますか」
「最初の娘の名、あとから消してあります」
正しくは、墨で塗り潰してはいない。
けれど、もとの名を薄く残したまま、その上を別の手でなぞり、行の意味そのものを変えている。表向きは“差し控え”だが、実際には“差し替え”に近い。
「よく見えますね」
「だって、墨の乾きが違うもの」
志乃は指を置かぬよう気をつけながら、目で追った。
「しかも、この二つ目の名だけ、筆の運びが違う。最初の一覧を書いた人と、差し込んだ人が別です」
「そうですね」
「この家、最初の娘ではなく、別の娘を入れたかったんですか」
「その可能性が高い」
清雅はそこで二冊目の控えを開いた。
今度は別家のものだ。同じように、女の名が消え、別の名が横から差し込まれている。今度は完全に別筆で、しかも差し込まれた名の方が家格の高い家へ流れている。
志乃の呼吸が少し浅くなる。
「こんなことが、よくあるんですか」
「よくある、というほど表へは出ません」
「出ないだけで、あるんですね」
「ええ」
清雅はあくまで静かだった。
「家同士の釣り合い、持参金、後ろ盾、誰がどこへ入れば次の縁が動くか。そういうものを考え始めると、女の名は案外あっさり書き換えられる」
その言い方に、志乃の胸へ冷たいものが落ちる。
女の名。
それを、こうも簡単に。
花嫁の顔も、声も、気持ちもなく、ただ“誰がどこへ入るか”だけで整えられる世界がある。
もちろん、家と家が結ぶ以上、そうした側面があることは頭では分かっていた。だがこうして実際の紙の上で見ると、それは想像よりずっと露骨で、無慈悲だった。
「これを、わたしに見せたかったんですね」
「ええ」
「どうして」
「あなたが、自分の祝言を“ただ潰された縁”ではなく、“動かされた縁”として見られるようになるためです」
そこまで言われると、もう誤魔化しようがない。
自分の件も、この中に並べられた差し替えのひとつである可能性がある。そういうことだ。
志乃は三冊目へ手を伸ばした。
今度はもっと断片的な控えで、誰かが口頭でまとめた備忘のようだった。ところどころ名が伏せられているが、日付と家格の流れを追うと、ある縁談が破れたあと、ほとんど間を置かずに別の娘の名が挿し込まれているのが見て取れる。
志乃の目が細くなる。
「……これ」
「何ですか」
「この流れ、変です」
「どこが」
「破談のあと、次の娘の名が入るまでが早すぎる」
志乃は線を指で追う。
「家同士で相談して、親類にも話を通して、本人の支度もあって――って考えたら、こんな数日で別の娘に切り替わるはずがない。最初から候補があったみたい」
「そうですね」
「つまり、破談になってから探したんじゃない。最初から差し替え先が用意されていた」
そこまで口にして、自分でぞっとした。
最初から。
差し替え先が用意されていた。
では、自分の祝言も。
もし同じような流れだったなら、婚家へ入るはずだった志乃の代わりに、誰か別の娘の名が最初から控えられていたことになる。
「……わたしのときも」
声が自然に漏れた。
「そう思われますか」
清雅は問い返したが、その口調は試しているのではない。志乃自身に、そこまで辿り着かせようとしている。
「思う」
志乃ははっきり言った。
「だって、あの日の書付は急に決めた文じゃなかった。婚家が気まぐれでやめたなら、もっと慌てるはず。もっと揉めるはず。なのに、あれは最初から“やめる形”だけが綺麗に整ってた」
息を吸う。
「……わたしの代わりに、誰かを入れるつもりだったんでしょうか」
清雅はすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって現実味を帯びる。
「可能性は高いです」
やがて、そう言った。
「誰か、まで分かっているんですか」
「まだ輪郭だけです」
「輪郭」
「家筋と、女の年頃と、差し込まれる位置。そこまでは」
志乃は拳を握った。
紙の上には、たくさんの名が書かれている。女たちの名。消された名。書き足された名。
そのどれかと同じように、自分の名も、どこかで消され、どこかで別の名に差し替えられたのかもしれない。
悔しい。
腹が立つ。
そして何より、そういうふうに人の名が動くのを、誰もおかしいと表では言えないことに、ひどくぞっとする。
「顔色が変わりましたね」
清雅が言う。
「変わります」
「ええ。そうでなくては」
その言い方は相変わらず冷静で、少し癪だった。
「怒っているんです」
「分かっています」
「悔しいんです」
「ええ」
「なのに、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか」
清雅は、珍しくすぐに答えなかった。
少しだけ視線を落とし、紙の上の消された名を見つめる。
「落ち着いて見えるだけです」
その一言が、思ったよりも静かに胸へ入った。
「こういうのを、何度も見てきましたから」
「……何度も」
「ええ。家が大きくなるほど、人の縁は人の気持ちだけでは決まりません。決まらないからこそ、せめて文だけは綺麗に整えようとする」
その声には、軽い皮肉が混じっていた。
「綺麗に整った文ほど、汚いことを隠しているときがある」
志乃は黙った。
その言葉は、あまりにも本質だった。
しばらく二人で紙を見ていた。
志乃は、ある行でふと指を止める。
「これ」
「はい」
「この差し替えられた娘の名前、墨が新しいだけじゃなくて……行の頭を少しずらしてあります」
「そうですね」
「最初の一覧に綺麗に入らなかったから、あとから無理に収めたんだ」
「ええ」
「でも、わざわざそれをしたってことは……表に出す見せ方を気にした」
「そうなります」
志乃はその行をじっと見た。
つまり、差し替えは内々にだけ留まらない。
必要があれば、最初からそう決まっていたように“見せる”ために、一覧の見栄えまで整えるのだ。
そこでようやく、志乃はもう一つ気づいた。
「……書かれなかった名前もある」
清雅が顔を上げる。
「ほう」
「差し替えられた名前ばかり見てたけど、逆だ。最初から候補にすら書かれなかった名前がある」
自分の声が少し強くなる。
「最初に入っていた娘は消される。でも、その前の段階で、“本当なら候補に上がるはずだった娘”の名が最初から書かれていないかもしれない」
清雅の目がわずかに細まった。
「続けてください」
「もしそうなら、差し替えは破談のあとじゃない。もっと前から始まってたことになる」
つまり、志乃の祝言も、祝言の日に潰れたのではなく、もっと前から“消すための筋”が裏で引かれていた可能性がある。
清雅はゆっくりと頷いた。
「そこまで見えれば十分です」
「十分じゃありません」
志乃は顔を上げた。
「わたしの名前が、どこで消されたのか知りたい」
その言葉は、思っていたよりまっすぐに出た。
もう、破談の理由を知りたいだけではない。自分の名がどの段階で、誰の都合で、どうやって除かれたのか。そこまで知りたいのだ。
清雅はしばらく志乃を見ていた。
そして、ほんの少しだけ口元を和らげる。
「ええ。ようやく、そこへ来ましたね」
「何ですか、その言い方」
「いえ。最初から、その形で怒っていただきたかった」
「性格が悪い」
「知っています」
またそれだ。
腹が立つのに、今は少しだけ、そのやり取りに救われる自分がいる。
清雅は机の上の一冊を閉じた。
「今日はこれ以上は見せません」
「どうして」
「一度に見せすぎると、考えが散ります」
「わたしはまだ」
「知っています。ですが今日はここまで」
そう言って、清雅は紙を丁寧に重ねた。
まるで、志乃がなお食い下がることまで見越していたような手つきだ。
「一つだけ覚えておいてください」
「何を」
「名は、紙の上で消される前に、人の頭の中で消されます」
その言葉に、息が止まる。
「候補から外す。話に乗せない。縁がなかったことにする。紙へ書かれぬ前から、消される手順は始まっている」
志乃は机の上の、自分ではない女たちの名を見つめた。
その誰もが、家のため、釣り合いのため、都合のために書かれたり消されたりしている。
ならば、自分の名もそうやって、どこかで最初から消されていたのかもしれない。
「……わたし、悔しいです」
ぽつりと零れる。
「ええ」
「まだ何も確かじゃないのに、もう悔しい」
「それでよいのです」
「よくありません」
志乃は首を振った。
「わたしは、わたしの名前がどこで消されたのか知ります」
そのときの声は、自分でも驚くほど静かで、強かった。
清雅は少しだけ目を細めた。
満足したようでいて、同時に何かを警戒しているような目だった。
「その意気です」
「でも一人では無理です」
「ええ」
「だから……」
そこで言葉が詰まる。
頼るのが悔しいのか、認めるのが悔しいのか、自分でも分からない。
清雅は待っていた。急かさず、先に言わず、ただ待っている。
その待ち方がずるいと思う。
「だから、教えてください」
やっとそう言うと、清雅は柔らかく笑った。
「もちろん」
その“もちろん”が、志乃の胸をさらにざわつかせた。
まるで最初から、自分がそう言うのを知っていたみたいではないか。




