第14話 祝言の代わりに入る者
その日の午後、志乃は仕事へ戻っても、なかなか筆が落ち着かなかった。
文机の上には、午前のうちに回された控えが二通、返答待ちの下書きが一通、そして帳面の整理がひとつ。どれも外向きの仕事としては難しくない。むしろ、いつもなら落ち着いて向かえば、半日とかからず片づけられる程度のものだった。
それなのに、今日は最初の一行を書くまでがやけに遠い。
名は、紙の上で消される前に、人の頭の中で消されます。
清雅の言葉が、何度も胸の中へ戻ってくる。
紙に書かれぬ前から、消される手順は始まっている。
ならば志乃の名前も、祝言の日に“白紙へ戻された”のではなく、そのずっと前から、どこかで少しずつ消されていたのかもしれない。
そう考えるたびに、胸の奥へ冷たいものが落ちる。
そして同時に、遅れて熱が上がってくる。怒りだ。
志乃は筆を置き、そっと息を吐いた。
「進みませんか」
不意に声がして、顔を上げる。
いつの間にか藤三郎が机の前に立っていた。
年配の書役らしい、きちんと整った顔つきのまま、しかし視線には以前ほどの疑いはない。
「……少し」
「珍しい」
「わたしだって、いつも同じように書けるわけじゃありません」
「そうでしょうな」
藤三郎は机の上を見渡し、それから低く言った。
「若君様から、夕刻前にこちらを、と」
差し出されたのは、細く綴じた控えと、一通の折り畳まれた紙だった。
「何ですか、これ」
「私は中までは」
そう答える藤三郎の声が、今日はいつもよりさらに平らだった。
知っていても言わぬときの声音だ。
「若君様は今、表へ出ておられます。戻られるまでに目を通しておけと」
それだけ残して、藤三郎は去っていった。
志乃はしばらく、その綴じと紙を見つめていた。
今朝、あれだけ見せられたばかりだというのに、まだ何かあるのか。
いや、きっとあるのだろう。そうでなければ、あの男がここまで手順よく札を切ってくるはずがない。
綴じを開く。
中には、いくつかの家名が伏せられた形で、縁談の流れだけを抜き出した整理控えが書かれていた。
ひとつの家で縁談が動き、差し控えが入り、別家の娘が候補として浮かび、そのあとまた別の家へ話が流れる――そんな線が簡潔に記されている。
最初はただの整理に見えた。
だが三つ目の項を読んだところで、志乃の指が止まる。
ある家の嫡男に対し、最初に挙がっていた娘が差し控えとなったあと、
「別家の娘、年頃十七、気立て穏やか、持参金多し」
という控えが差し込まれている。
それだけなら、よくある話かもしれない。
だが、その差し込みがあまりにも早い。
最初の差し控えから、次の候補が立つまでの日付が、ほとんど空いていないのだ。
「……最初からいた」
小さく呟く。
最初の娘が駄目になってから探したのではない。
最初から、差し替えのための娘が控えられていた。
それも一人とは限らない。場合によっては、二番手、三番手まで、頭の中にはもう並んでいたのかもしれない。
志乃は次の項を読む。
そこでも同じだった。
差し控え。
理由伏せ。
そして、間を置かぬ別の娘。
気分が悪くなる。
花嫁とは、もっとこう、ひとりひとりの暮らしや心の上にあるものだと思っていた。
もちろん家同士の結びつきであることは知っている。だが紙の上では、こうも簡単に並べ替えられるのか。駒のように。
綴じを閉じ、今度は折り畳まれた一通の紙を開く。
短い文だった。
けれど、その短さのせいで、内容は妙にはっきりと志乃の目へ飛び込んできた。
『先日、あなたの婚家へ近づいたと見られる娘の輪郭です。
まだ名は伏せます。
ただし、あなたの代わりに“入るはずだった可能性のある娘”が、実在することだけは知っておいてください。
夕刻に戻ります。
清雅』
志乃はその紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
実在する。
その言葉が、何より重い。
可能性なら、もう考えていた。
自分の位置が空けられ、その先へ別の誰かが入るためだったのかもしれない、と。
けれど“実在する”と書かれてしまえば、それはもう想像ではない。まだ名は分からずとも、志乃の代わりに据えられようとした娘の輪郭が、どこかにあるということだ。
胸がぎゅっと縮む。
怒り。
屈辱。
そして、どうにも言葉にしにくい何か。
自分の祝言が潰れた。
それだけでも十分痛かったのに、その裏で、別の娘の姿がもう用意されていたとしたら。
では自分は何だったのか。
ただ、外してよい札のひとつだったのか。
ふいに、机の向こうで影が動いた。
「ひどい顔になっていますよ」
清雅だった。
いつ戻ったのか分からない。
この人は本当に、人の息が止まる瞬間を選んで現れる。
「……ひどいのは、あなたです」
志乃は紙を握ったまま言った。
「実在する、って、こんなふうに書く必要ありますか」
「あります」
「どうして」
「想像のままだと、人はどこかでまだ、自分を誤魔化せますから」
清雅はいつものように静かだった。
その静けさが、今日はひどく腹立たしい。
「わたしは誤魔化してなんか」
「していました」
即座に返される。
「祝言を潰されたことの痛みと、花嫁衣装のまま返された恥と、家へ戻された惨めさばかり見ていた。誰がそこへ入るか、まで考えるのを避けていたでしょう」
その通りだ。
避けていた。
いや、考えたくなかった。そこまで認めてしまえば、自分の傷がもっと具体的になるから。
「……名は」
ようやくそれだけ絞り出す。
「まだ伏せると」
「ええ」
「どうして」
「今の段階で名だけ渡すと、おまえはその娘を憎む方へ走るかもしれない」
“おまえ”と言われるたび、胸の奥に妙な波が立つ。
距離を詰められているようでいて、見透かされてもいる感じがして、落ち着かない。
「……憎んで何が悪いんですか」
「悪いとは言っていません」
「じゃあ」
「順番が違う」
はっきり言い切られ、言葉が詰まる。
「その娘が自分の意思でおまえの位置を奪ったのか。家の都合で押し込まれたのか。あるいは、その娘もまた別の縁から押し出されてきたのか。それを見ずに憎しみだけ向けても、たいてい話は歪みます」
清雅は志乃の前へ座る。
「おまえは、誰に何を奪われたのかを知りたいのでしょう」
「……はい」
「なら、奪ったように見える者が、本当に奪った側なのかも見なければならない」
その言葉が、志乃の中へじわじわと染みる。
腹は立つ。
けれど、理屈としてはその通りだ。
もしその娘自身もまた、家のために動かされていただけだったなら。
自分と同じように、名を使われる側だったのだとしたら。
怒る相手は“その娘”だけではない。
清雅は机の上の綴じを開いた。
「見てください」
志乃は無言で目を向ける。
「ここにあるのは、候補が差し替えられた例です。ただし、差し替えられた後に入った娘が、必ずしも“得をする側”だったわけではない」
「……どういうことですか」
「たとえば、ある家では三番目の娘が急に格上の家へ入れられた。外から見れば棚ぼたです。ですが実際には、元いた縁談が破れ、そこへ戻る道がなくなっただけかもしれない」
「……」
「別の家では、後家となった叔母筋の取り計らいで、ある娘が縁談へ押し込まれた。本人の気持ちは関係ない」
志乃は綴じの線を目で追う。
墨の上では、娘たちはただ“差し込まれた名前”として並んでいる。
だがその一つ一つの後ろに、それぞれの暮らしや、たぶん泣いた夜があるのだと思うと、単純には憎みきれない。
「おまえの代わりに入るはずだった娘も、そうかもしれない」
清雅は低く言った。
「だから今は、名だけではなく位置を見るべきです」
位置。
その言い方に、志乃は少しだけ目を細めた。
「いつも、人のことを配置みたいに言いますね」
「配置で動くものを相手にしているからです」
「それでも、人は人でしょう」
「ええ。だから厄介なのです」
その答えに、少しだけ息が抜けた。
この人は、冷たいようでいて、人を物として扱い切っているわけではない。
むしろ、人が人であるからこそ面倒だと知っているのだ。
「……その娘は」
志乃はもう一度、訊いた。
「婚家へ入ったんですか」
「そこまではまだ」
「じゃあ」
「近づいた形跡がある、という段階です」
「近づいた」
「婚家の周辺家筋と、年頃、そして急に浮いた持参金話。それらが妙に揃っている」
志乃は、ぐっと膝の上で手を握った。
持参金。
家筋。
年頃。
自分という人間が消されたあとに並べられるのが、そういう条件なのだと思うと、胸の中が冷える。
けれど同時に、これが“家の都合で動く婚姻”なのだとも、今なら分かる。
「悔しいです」
また、その言葉が零れる。
「ええ」
「でも……」
志乃は紙を見つめた。
「その娘が悪いって、まだ言い切れない」
「ええ」
「そう思うのも、悔しい」
清雅が少しだけ笑った。
「結構です」
「何が」
「怒り方を間違えていない」
またそうやって、簡単に言う。
でも、その一言で少しだけ気持ちが整うのも事実だった。
志乃はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「わたし、その娘のこと、知りたいです」
「もちろん」
「ただし、先に言っておきます」
志乃は顔を上げた。
「もしその人が、自分の意思でわたしの場所を奪おうとしたなら、わたしは許せない」
清雅は正面からその目を受け止めた。
「そうでしょうね」
「でも、そうじゃないなら」
言葉を探しながら、続ける。
「そうじゃないなら、怒る相手を間違えたくない」
その瞬間、清雅の目がほんのわずかにやわらいだ。
めったに表へ出ない種類のやわらぎだった。
「……やっと、その顔になりましたか」
「何ですか、その言い方」
「いえ」
清雅は視線を落とし、綴じを閉じた。
「おまえは、思っていたよりずっと真っ直ぐだ」
思っていたより。
その言い方に少しむっとする。
「最初、どんなふうに思ってたんですか」
「傷ついた娘は、ときに真っ先に分かりやすい敵へ飛びつきます」
「わたしがそうだと?」
「なりかねないと思っていました」
志乃は唇を尖らせた。
「失礼ですね」
「ええ。ですが外れてよかった」
そう言われると、もう強くは言い返せない。
実際、紙を開く前の自分なら、名前だけ聞けばその娘を憎んでいたかもしれないからだ。
しばらく沈黙が落ちた。
窓の外で、風が庭木を揺らす音がする。
やがて志乃は、少し迷ってから訊いた。
「……あなたは」
「はい」
「どうして、そこまでわたしのことを……」
言いかけて、言葉が詰まる。
守る、でもない。囲う、でもない。見ている、でも足りない。
どの言葉もぴたりと来ない。
清雅はその詰まりを見て、少しだけ口元を緩めた。
「そこまで?」
「知ってるでしょう」
「さて」
またそれだ。
でも今は、そのはぐらかしの向こうに、前よりはっきりしたものがある気がした。
「おまえの祝言が白紙になった件は、私にとっても見過ごせる類ではなかった」
「どうして」
「榊原の名を持つ者として、放っておくと面倒な筋が見えたから」
「それだけですか」
問い返した瞬間、自分で頬が熱くなるのが分かった。
何を訊いているのだろう。
でも、もう飲み込めなかった。
清雅はすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ、志乃を見る目の温度が変わる。
「……それだけなら、他の者に任せています」
低く、静かな声だった。
志乃は息を止めた。
それ以上は何も言わない。
でも、その“それだけではない”という答えだけで十分だった。
先に視線をそらしたのは志乃の方だった。
これ以上まともに見ていたら、何かが分かりすぎてしまう気がした。
清雅は話を戻すように言う。
「次に追うべきは、その娘個人ではありません」
「分かっています」
「その娘を、そこへ押し出した手です」
「……はい」
「おまえの名を消し、その娘の名を近づけた手。それが見えれば、祝言白紙の筋もかなり絞れます」
志乃は小さく頷いた。
怒りは消えていない。
悔しさも、屈辱もそのままだ。
でも、それをぶつける先を間違えたくない。今は本当にそう思う。
清雅が立ち上がる。
「今日はここまで」
「また急に終わるんですね」
「これ以上は、今の頭では散らばるでしょう」
「……それはそうですけど」
「明日、次の札を見せます」
「また札」
「嫌いですか」
「その言い方は」
言い返しかけて、やめた。
嫌いだと言い切れない。こうやって一枚ずつ、確実に真相へ近づいているのもまた事実だからだ。
清雅は障子の前で振り返る。
「志乃殿」
「何ですか」
「今日は、よく怒りました」
「怒らせてるのは、たいていあなたです」
「そうでしょうね」
「でも」
志乃は少し考えてから言った。
「少しだけ、見えました」
清雅は動きを止める。
「何が」
「わたしが本当に怒るべき相手の形」
その言葉を聞いた清雅は、ほんのわずかに目を細めた。
「それで十分です」
そう言って去っていく背中を見送りながら、志乃は綴じへもう一度目を落とした。
差し替えられた娘。
書かれなかった名前。
自分の代わりに入るはずだったかもしれない誰か。
女の名が、家の都合で並べ替えられていく世界。
その中で、自分だけが特別不幸だったわけではないのかもしれない。
けれど、だからこそ許せない。
自分の名を消した手を、知りたい。
その意志は、もう揺らがなかった。




