表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/26

第14話 祝言の代わりに入る者

 その日の午後、志乃は仕事へ戻っても、なかなか筆が落ち着かなかった。


 文机の上には、午前のうちに回された控えが二通、返答待ちの下書きが一通、そして帳面の整理がひとつ。どれも外向きの仕事としては難しくない。むしろ、いつもなら落ち着いて向かえば、半日とかからず片づけられる程度のものだった。


 それなのに、今日は最初の一行を書くまでがやけに遠い。


 名は、紙の上で消される前に、人の頭の中で消されます。


 清雅の言葉が、何度も胸の中へ戻ってくる。


 紙に書かれぬ前から、消される手順は始まっている。

 ならば志乃の名前も、祝言の日に“白紙へ戻された”のではなく、そのずっと前から、どこかで少しずつ消されていたのかもしれない。


 そう考えるたびに、胸の奥へ冷たいものが落ちる。

 そして同時に、遅れて熱が上がってくる。怒りだ。


 志乃は筆を置き、そっと息を吐いた。


「進みませんか」


 不意に声がして、顔を上げる。


 いつの間にか藤三郎が机の前に立っていた。

 年配の書役らしい、きちんと整った顔つきのまま、しかし視線には以前ほどの疑いはない。


「……少し」


「珍しい」


「わたしだって、いつも同じように書けるわけじゃありません」


「そうでしょうな」


 藤三郎は机の上を見渡し、それから低く言った。


「若君様から、夕刻前にこちらを、と」


 差し出されたのは、細く綴じた控えと、一通の折り畳まれた紙だった。


「何ですか、これ」


「私は中までは」


 そう答える藤三郎の声が、今日はいつもよりさらに平らだった。

 知っていても言わぬときの声音だ。


「若君様は今、表へ出ておられます。戻られるまでに目を通しておけと」


 それだけ残して、藤三郎は去っていった。


 志乃はしばらく、その綴じと紙を見つめていた。

 今朝、あれだけ見せられたばかりだというのに、まだ何かあるのか。

 いや、きっとあるのだろう。そうでなければ、あの男がここまで手順よく札を切ってくるはずがない。


 綴じを開く。


 中には、いくつかの家名が伏せられた形で、縁談の流れだけを抜き出した整理控えが書かれていた。

 ひとつの家で縁談が動き、差し控えが入り、別家の娘が候補として浮かび、そのあとまた別の家へ話が流れる――そんな線が簡潔に記されている。


 最初はただの整理に見えた。

 だが三つ目の項を読んだところで、志乃の指が止まる。


 ある家の嫡男に対し、最初に挙がっていた娘が差し控えとなったあと、

 「別家の娘、年頃十七、気立て穏やか、持参金多し」

 という控えが差し込まれている。


 それだけなら、よくある話かもしれない。

 だが、その差し込みがあまりにも早い。


 最初の差し控えから、次の候補が立つまでの日付が、ほとんど空いていないのだ。


「……最初からいた」


 小さく呟く。


 最初の娘が駄目になってから探したのではない。

 最初から、差し替えのための娘が控えられていた。

 それも一人とは限らない。場合によっては、二番手、三番手まで、頭の中にはもう並んでいたのかもしれない。


 志乃は次の項を読む。

 そこでも同じだった。

 差し控え。

 理由伏せ。

 そして、間を置かぬ別の娘。


 気分が悪くなる。

 花嫁とは、もっとこう、ひとりひとりの暮らしや心の上にあるものだと思っていた。

 もちろん家同士の結びつきであることは知っている。だが紙の上では、こうも簡単に並べ替えられるのか。駒のように。


 綴じを閉じ、今度は折り畳まれた一通の紙を開く。


 短い文だった。

 けれど、その短さのせいで、内容は妙にはっきりと志乃の目へ飛び込んできた。


『先日、あなたの婚家へ近づいたと見られる娘の輪郭です。

まだ名は伏せます。

ただし、あなたの代わりに“入るはずだった可能性のある娘”が、実在することだけは知っておいてください。

夕刻に戻ります。

                   清雅』


 志乃はその紙を持ったまま、しばらく動けなかった。


 実在する。


 その言葉が、何より重い。


 可能性なら、もう考えていた。

 自分の位置が空けられ、その先へ別の誰かが入るためだったのかもしれない、と。

 けれど“実在する”と書かれてしまえば、それはもう想像ではない。まだ名は分からずとも、志乃の代わりに据えられようとした娘の輪郭が、どこかにあるということだ。


 胸がぎゅっと縮む。


 怒り。

 屈辱。

 そして、どうにも言葉にしにくい何か。


 自分の祝言が潰れた。

 それだけでも十分痛かったのに、その裏で、別の娘の姿がもう用意されていたとしたら。

 では自分は何だったのか。

 ただ、外してよい札のひとつだったのか。


 ふいに、机の向こうで影が動いた。


「ひどい顔になっていますよ」


 清雅だった。


 いつ戻ったのか分からない。

 この人は本当に、人の息が止まる瞬間を選んで現れる。


「……ひどいのは、あなたです」


 志乃は紙を握ったまま言った。


「実在する、って、こんなふうに書く必要ありますか」


「あります」


「どうして」


「想像のままだと、人はどこかでまだ、自分を誤魔化せますから」


 清雅はいつものように静かだった。

 その静けさが、今日はひどく腹立たしい。


「わたしは誤魔化してなんか」


「していました」


 即座に返される。


「祝言を潰されたことの痛みと、花嫁衣装のまま返された恥と、家へ戻された惨めさばかり見ていた。誰がそこへ入るか、まで考えるのを避けていたでしょう」


 その通りだ。

 避けていた。

 いや、考えたくなかった。そこまで認めてしまえば、自分の傷がもっと具体的になるから。


「……名は」


 ようやくそれだけ絞り出す。


「まだ伏せると」


「ええ」


「どうして」


「今の段階で名だけ渡すと、おまえはその娘を憎む方へ走るかもしれない」


 “おまえ”と言われるたび、胸の奥に妙な波が立つ。

 距離を詰められているようでいて、見透かされてもいる感じがして、落ち着かない。


「……憎んで何が悪いんですか」


「悪いとは言っていません」


「じゃあ」


「順番が違う」


 はっきり言い切られ、言葉が詰まる。


「その娘が自分の意思でおまえの位置を奪ったのか。家の都合で押し込まれたのか。あるいは、その娘もまた別の縁から押し出されてきたのか。それを見ずに憎しみだけ向けても、たいてい話は歪みます」


 清雅は志乃の前へ座る。


「おまえは、誰に何を奪われたのかを知りたいのでしょう」


「……はい」


「なら、奪ったように見える者が、本当に奪った側なのかも見なければならない」


 その言葉が、志乃の中へじわじわと染みる。

 腹は立つ。

 けれど、理屈としてはその通りだ。


 もしその娘自身もまた、家のために動かされていただけだったなら。

 自分と同じように、名を使われる側だったのだとしたら。

 怒る相手は“その娘”だけではない。


 清雅は机の上の綴じを開いた。


「見てください」


 志乃は無言で目を向ける。


「ここにあるのは、候補が差し替えられた例です。ただし、差し替えられた後に入った娘が、必ずしも“得をする側”だったわけではない」


「……どういうことですか」


「たとえば、ある家では三番目の娘が急に格上の家へ入れられた。外から見れば棚ぼたです。ですが実際には、元いた縁談が破れ、そこへ戻る道がなくなっただけかもしれない」


「……」


「別の家では、後家となった叔母筋の取り計らいで、ある娘が縁談へ押し込まれた。本人の気持ちは関係ない」


 志乃は綴じの線を目で追う。

 墨の上では、娘たちはただ“差し込まれた名前”として並んでいる。

 だがその一つ一つの後ろに、それぞれの暮らしや、たぶん泣いた夜があるのだと思うと、単純には憎みきれない。


「おまえの代わりに入るはずだった娘も、そうかもしれない」


 清雅は低く言った。


「だから今は、名だけではなく位置を見るべきです」


 位置。


 その言い方に、志乃は少しだけ目を細めた。


「いつも、人のことを配置みたいに言いますね」


「配置で動くものを相手にしているからです」


「それでも、人は人でしょう」


「ええ。だから厄介なのです」


 その答えに、少しだけ息が抜けた。

 この人は、冷たいようでいて、人を物として扱い切っているわけではない。

 むしろ、人が人であるからこそ面倒だと知っているのだ。


「……その娘は」


 志乃はもう一度、訊いた。


「婚家へ入ったんですか」


「そこまではまだ」


「じゃあ」


「近づいた形跡がある、という段階です」


「近づいた」


「婚家の周辺家筋と、年頃、そして急に浮いた持参金話。それらが妙に揃っている」


 志乃は、ぐっと膝の上で手を握った。


 持参金。

 家筋。

 年頃。


 自分という人間が消されたあとに並べられるのが、そういう条件なのだと思うと、胸の中が冷える。

 けれど同時に、これが“家の都合で動く婚姻”なのだとも、今なら分かる。


「悔しいです」


 また、その言葉が零れる。


「ええ」


「でも……」


 志乃は紙を見つめた。


「その娘が悪いって、まだ言い切れない」


「ええ」


「そう思うのも、悔しい」


 清雅が少しだけ笑った。


「結構です」


「何が」


「怒り方を間違えていない」


 またそうやって、簡単に言う。

 でも、その一言で少しだけ気持ちが整うのも事実だった。


 志乃はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。


「わたし、その娘のこと、知りたいです」


「もちろん」


「ただし、先に言っておきます」


 志乃は顔を上げた。


「もしその人が、自分の意思でわたしの場所を奪おうとしたなら、わたしは許せない」


 清雅は正面からその目を受け止めた。


「そうでしょうね」


「でも、そうじゃないなら」


 言葉を探しながら、続ける。


「そうじゃないなら、怒る相手を間違えたくない」


 その瞬間、清雅の目がほんのわずかにやわらいだ。

 めったに表へ出ない種類のやわらぎだった。


「……やっと、その顔になりましたか」


「何ですか、その言い方」


「いえ」


 清雅は視線を落とし、綴じを閉じた。


「おまえは、思っていたよりずっと真っ直ぐだ」


 思っていたより。

 その言い方に少しむっとする。


「最初、どんなふうに思ってたんですか」


「傷ついた娘は、ときに真っ先に分かりやすい敵へ飛びつきます」


「わたしがそうだと?」


「なりかねないと思っていました」


 志乃は唇を尖らせた。


「失礼ですね」


「ええ。ですが外れてよかった」


 そう言われると、もう強くは言い返せない。

 実際、紙を開く前の自分なら、名前だけ聞けばその娘を憎んでいたかもしれないからだ。


 しばらく沈黙が落ちた。

 窓の外で、風が庭木を揺らす音がする。


 やがて志乃は、少し迷ってから訊いた。


「……あなたは」


「はい」


「どうして、そこまでわたしのことを……」


 言いかけて、言葉が詰まる。

 守る、でもない。囲う、でもない。見ている、でも足りない。

 どの言葉もぴたりと来ない。


 清雅はその詰まりを見て、少しだけ口元を緩めた。


「そこまで?」


「知ってるでしょう」


「さて」


 またそれだ。

 でも今は、そのはぐらかしの向こうに、前よりはっきりしたものがある気がした。


「おまえの祝言が白紙になった件は、私にとっても見過ごせる類ではなかった」


「どうして」


「榊原の名を持つ者として、放っておくと面倒な筋が見えたから」


「それだけですか」


 問い返した瞬間、自分で頬が熱くなるのが分かった。

 何を訊いているのだろう。

 でも、もう飲み込めなかった。


 清雅はすぐには答えなかった。

 ほんの少しだけ、志乃を見る目の温度が変わる。


「……それだけなら、他の者に任せています」


 低く、静かな声だった。


 志乃は息を止めた。

 それ以上は何も言わない。

 でも、その“それだけではない”という答えだけで十分だった。


 先に視線をそらしたのは志乃の方だった。

 これ以上まともに見ていたら、何かが分かりすぎてしまう気がした。


 清雅は話を戻すように言う。


「次に追うべきは、その娘個人ではありません」


「分かっています」


「その娘を、そこへ押し出した手です」


「……はい」


「おまえの名を消し、その娘の名を近づけた手。それが見えれば、祝言白紙の筋もかなり絞れます」


 志乃は小さく頷いた。


 怒りは消えていない。

 悔しさも、屈辱もそのままだ。

 でも、それをぶつける先を間違えたくない。今は本当にそう思う。


 清雅が立ち上がる。


「今日はここまで」


「また急に終わるんですね」


「これ以上は、今の頭では散らばるでしょう」


「……それはそうですけど」


「明日、次の札を見せます」


「また札」


「嫌いですか」


「その言い方は」


 言い返しかけて、やめた。

 嫌いだと言い切れない。こうやって一枚ずつ、確実に真相へ近づいているのもまた事実だからだ。


 清雅は障子の前で振り返る。


「志乃殿」


「何ですか」


「今日は、よく怒りました」


「怒らせてるのは、たいていあなたです」


「そうでしょうね」


「でも」


 志乃は少し考えてから言った。


「少しだけ、見えました」


 清雅は動きを止める。


「何が」


「わたしが本当に怒るべき相手の形」


 その言葉を聞いた清雅は、ほんのわずかに目を細めた。


「それで十分です」


 そう言って去っていく背中を見送りながら、志乃は綴じへもう一度目を落とした。


 差し替えられた娘。

 書かれなかった名前。

 自分の代わりに入るはずだったかもしれない誰か。


 女の名が、家の都合で並べ替えられていく世界。

 その中で、自分だけが特別不幸だったわけではないのかもしれない。

 けれど、だからこそ許せない。


 自分の名を消した手を、知りたい。

 その意志は、もう揺らがなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ