第15話 榊原家の女たち
榊原家で暮らし始めてから、志乃は少しずつ、この屋敷には二つの流れがあるのだと知った。
ひとつは、表に見える流れ。
書付部屋を通り、帳面を巡り、用人や書役、小姓たちの足を使って動く、外向きの筋だ。
こちらはまだ分かりやすい。文が行き、返り、誰かが受け取り、誰かが整える。目に見えるぶんだけ、嘘もまた紙の上へ残る。
もうひとつは、表に見えにくい流れだった。
廊下ですれ違うときの女中たちの目。
湯殿へ向かう途中にふと止まる声。
奥から外向きへ運ばれてくる菓子皿の数。
誰が誰に先に頭を下げるか、誰がどこまで若君の動きを知っているか。
そういうもの全部が、紙ではなく人のあいだを流れている。
そして、その流れの中で自分が今どう見られているのかを、志乃は嫌でも意識するようになっていた。
朝、湯から戻るときだった。
廊下の曲がり角で、二人の若い女中が小声で何か話していた。志乃に気づくと、あからさまではないが、ひと息ぶん沈黙が落ちる。
「おはようございます」
志乃が声をかけると、二人はきちんと頭を下げた。
「お早うございます、志乃さま」
最初のころなら“志乃どの”か、もっとよそよそしい呼び方だった。
今は“さま”になっている。
それが厚遇なのではなく、“若君の意向がある相手だから無下にはできない”という意味であることを、もう志乃は知っていた。
すれ違いざま、片方の女中の袖からほのかに沈丁花の香がした。
奥向きへ出入りの多い女たちが好む香だ。
つまり、この二人はただの下働きではなく、もっと奥に近い。
志乃が通り過ぎたあと、またかすかな囁きが戻る。
わざと聞こえぬようにしているが、聞こえぬほどでもない。
「……やっぱり」
「でも文机役見習いって」
「それにしては」
「しっ」
志乃は振り返らなかった。
その代わり、胸の内へ冷たいものが落ちていくのを感じた。
それにしては、何なのだろう。
それにしては若君が気にかけすぎる、ということか。
それにしては町家の娘にしては扱いが丁寧すぎる、ということか。
たぶんどちらもだ。
部屋へ戻る前に、菊江が廊下の向こうから歩いてきた。
今日の菊江は、いつにも増して隙がない。
「朝から熱心なこと」
「何がですか」
「聞かぬふりをなさるのも、才能のうちかもしれません」
志乃は少しだけ眉を寄せた。
「わたし、別に」
「別に、で済むうちはよろしいのです」
菊江は立ち止まった。
前に立たれると、背は高くないのに妙な圧がある。
この人もまた、紙を持たずに人を読む種類の女なのだと分かる。
「志乃さま」
「はい」
「若君様に近いところへ置かれる女は、何をしていようと、何かあるように見られます」
唐突な物言いだった。
だが菊江は続ける。
「文机役見習いであろうと、奥女中であろうと、客人であろうと同じこと。まして、若君様ご自身が何度もお声をかける方なら、なおさらです」
やはりそうなのだ。
屋敷の中では、もうそういう目で見られている。
「……わたしは、そんなつもりじゃ」
「つもりの話ではございません」
ぴしゃりと言われ、志乃は言葉を飲み込んだ。
「この家の中では、見え方が先に立ちます。お気持ちがどうであれ」
そう言って、菊江はほんの少しだけ声を和らげた。
「ですから、立ち居振る舞いだけは、なおのことお慎みなさいませ」
忠告だ。
厳しいが、悪意ではない。
たぶん菊江は、自分なりのやり方で志乃へ“生き残り方”を教えようとしているのだ。
「……ありがとうございます」
そう言うと、菊江は少しだけ目を伏せた。
「礼を申されるほどのことでは」
そして、そのまま通り過ぎていった。
書付部屋へ入るころには、もう何人かが揃っていた。
昨日より空気が少し変わっている。露骨な敵意はないが、視線が前より長く留まる。志乃がどういう顔をして机に向かい、誰が声をかけ、誰が近寄るのかを見られているのだ。
藤三郎が帳面を広げながら言った。
「本日は奥からの控えが少し混じります」
「奥から」
「ええ。外へ出さぬ前提のものゆえ、言葉がやわらかい。そのぶん、厄介です」
「分かります」
「分かるようになりましたか」
「前から少しは」
そう返すと、藤三郎の口元がわずかに動いた。
笑ったのではない。だが、認める方へ半歩ぶん寄った顔だ。
「では、こちらを」
差し出されたのは、女房同士で交わされたらしい短い文の控えだった。
ある娘の縁談について、“先方の御意向もございますれば、こちらとしても無理には”といった、柔らかい拒み方が並ぶ。
だが、その柔らかさの中に、“この娘はあちらへ”“こちらは別へ”と、すでに女たちのあいだで振り分けが済んでいる気配がある。
志乃はそれを読んでいるうちに、ふと気づいた。
ここで動いているのは、男たちだけではない。
表向きの家長や用人や書役だけでなく、その前段階で、女たちのあいだですでに“誰がどこへ収まるか”の算段がついている。
乳母か。
後家の叔母か。
古株の女房か。
それとも奥で顔を利かせる年長女中たちか。
いずれにせよ、女の名は女たちの口でも運ばれ、動かされているのだ。
「難しい顔をしていますね」
不意に別の声がかかる。
顔を上げると、年配の女房が立っていた。
五十前後だろうか。
背筋はまっすぐで、控えめな色の着物をきっちり着こなし、顔立ちは穏やかだ。だがその穏やかさは、何年も人の表裏を見てきた者にだけ宿る種類のものだった。
「お瑞どの」
藤三郎が一礼する。
「若君様より、こちらへ少し」
お瑞と呼ばれた女房は、志乃を見た。
その目には、若い女中たちのようなあからさまな好奇心はない。もっと静かで、深い。値踏みしているのではなく、“何ができる娘か”を確かめる目だった。
「志乃さま」
「はい」
「お手が空きましたら、少しだけ奥手前まで」
言い方は柔らかい。
だが断る前提の誘いではない。
「……今すぐ、ですか」
「今すぐの方がよろしいかと」
藤三郎が目だけで頷いた。行ってよい、いや、行くべきだと言っている。
志乃は筆を置き、立ち上がった。
お瑞に導かれて進む廊下は、これまでよりさらに静かだった。
奥向きの入口そのものではないが、そこへ通じる手前の一角らしい。
女中たちの行き来が増え、香の残り方も濃くなる。だが声はむしろ少ない。ここから先は、声を低くするだけでなく、そもそも余計な口を持たぬ者が残る場所なのだろう。
小さな控えの間へ通される。
そこには菓子と茶が用意されていた。客扱いなのか、試されているのか、判然としない。
「お掛けになって」
お瑞に勧められ、志乃は座る。
お瑞自身は向かいへ腰を下ろした。
「若君様のご意向で、しばらくお側に置かれるとか」
いきなりその話から来るのか、と志乃は一瞬だけ息を詰めた。
「文机役見習いとして、です」
「ええ。そう伺っております」
“そう伺っております”の含みが深い。
名目は承知している。でも名目だけではないでしょう、と言っているのと同じだ。
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑かどうかは、これから次第です」
お瑞は微笑んだ。
だがその微笑みは、甘くも優しくもない。静かな試しだ。
「お若いのに、筆が立つとか」
「人並みです」
「人並みであれば、若君様が二度も三度も目をかけられますか」
志乃は返答に詰まる。
この人は、言葉の表と裏をひっくり返すのがうまい。
「……分かりません」
「分からないふりをなさるのも、女には必要なことですけれど」
お瑞は茶をひと口だけ口にした。
「ここでは、それだけでは足りません」
その言葉に、自然と背筋が伸びる。
「何が、足りないのでしょう」
「誰が、どの流れで、何を知っているかを見る目でございます」
志乃は目を瞬かせた。
それは、紙に向けているのと同じ“見る目”を、人へも向けよということだろうか。
「若君様は、外の文を動かす方です。けれど内の流れは、また別にございます」
「内の流れ」
「はい。女の名が決まる前に、女たちの間で話がついていることもございます」
やはり、と思う。
さきほど控えを見て感じたことと同じだ。
「どの娘がどこへ行くか。どの縁を押し、どの縁を引くか。表では男たちが決めているように見えても、その前に奥で根回しが済んでいることもあるのです」
お瑞の声は穏やかなままだった。
だがその穏やかさの中で、言っていることはかなり重い。
「……わたしの祝言の件も、ですか」
思わず口にしていた。
お瑞はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を伏せ、茶碗を置いてから、静かに言う。
「今ここで、そうとも違うとも申せません」
つまり、可能性はあるということだ。
「ただ」
「ただ?」
「近ごろ、幾つかの家で、女の名が妙な形で動いているのは事実でございます」
胸がざわつく。
やはり、この“名の差し替え”は、清雅だけが掴んでいる話ではない。奥向きにいる女たちの間でも、すでに噂か、警戒か、あるいは暗黙の了解として流れている。
「お若いのに、巻き込まれましたね」
お瑞はそう言った。
哀れみのようでいて、どこか突き放した響きだった。
巻き込まれたのだ。自分の意思だけではなく、女の名が動く大きな流れの中へ。
「……巻き込まれただけでは終わりたくありません」
気づけば、そう言っていた。
お瑞の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「ほう」
「自分の名前が、どこでどう消されたのか、知りたいんです」
お瑞はしばらく志乃を見ていた。
やがて小さく息をつき、微笑む。
「それでよろしい」
「え?」
「若君様がお側へ置きたがる娘なら、ただ怯えているだけでは困りますもの」
そこまで言われて、やっと気づく。
これはただの茶の席ではない。
奥向き側の女房頭格とも見えるお瑞が、若君のそばへ置かれた町家の娘を見にきたのだ。
使えるか。
潰れるか。
余計な色気だけで立っているのではないか。
そのあたりを見定めに。
「わたしは、別に」
反射的に言いかけ、やめる。
“別に若君様のそばへいたいわけではありません”
そう言ってしまうのは簡単だ。
けれどそれは今さら、あまりに浅い言い逃れに思えた。
「別に、何ですか」
お瑞が穏やかに問う。
志乃は少し考えてから、まっすぐ答えた。
「若君様のそばへいたいかどうかは、まだ分かりません」
自分で言って、自分で少し驚く。
完全な否定ではなかったからだ。
「でも、若君様のところにしか今は見えないものがある。それは本当です」
お瑞はその答えを聞いて、初めてほんの少しだけ、やわらかな笑みを見せた。
「それで十分」
そう言うと、お瑞は立ち上がった。
「では、今日はこのあたりで。あまり長く留めておくと、今度は別の噂になります」
「別の噂」
「若君様に近い女は、それだけで話になります」
やはり、どこまで行ってもそこへ戻る。
志乃が控えの間を出るとき、お瑞は最後に小さく言った。
「女の名は、男だけが動かしているわけではありませんよ」
その言葉は、釘のように胸へ刺さった。
書付部屋へ戻る途中、志乃は何度もその言葉を反芻した。
女の名は、男だけが動かしているわけではない。
つまり、祝言白紙の裏にも、婚家の男たちや使いだけではなく、奥向きの女たちの手が入っていた可能性がある。
乳母。
叔母。
後家。
年長女房。
そうした女たちが、自分の名を紙へ書かせる前から動かしていたのかもしれない。
その想像は、紙の上の差し替えよりも、もっと息苦しかった。
書付部屋の前まで戻ると、清雅が廊下の端に立っていた。
今日は羽織姿で、いつものように隙がない。だが志乃を見た瞬間、わずかに目を細める。
「お瑞に呼ばれましたか」
「……知っていたんですね」
「ええ」
「何を話したかも?」
「だいたいは」
隠す気がないところが、かえって腹立たしい。
「あなた、ほんとうに」
「はい?」
「ろくでもないです」
清雅は少し笑った。
「よく言われます」
「最近、そればっかりですね」
「否定しない方が早いと学びました」
志乃は息をついた。
けれどその軽いやり取りで、少しだけ肩の力が抜けたのも事実だった。
「お瑞どのに、何を見られたと思いますか」
清雅が問う。
「使えるかどうか」
「それだけではありません」
「……若君様の近くに置いて大丈夫な女かどうか、ですか」
そう返すと、清雅は一拍置いてから頷いた。
「ええ」
あまりに素直に認めるので、逆に言葉に詰まる。
「この家では、私の手元にあるものは、それだけで意味を持ちます」
その言い方に、志乃はまた胸の内がざわつくのを感じた。
物みたいな言い方なのに、その奥にあるものは物扱いだけでは済んでいない気がするから厄介なのだ。
「わたしは物じゃありません」
「ええ」
「なのに、そういう言い方をする」
「必要なものは、だいたい手元に置きたくなる質です」
「それが嫌なんです」
「知っています」
「ほんとうに、知ってばかりですね」
「そうしなければ困りますから」
清雅はそう言うと、志乃の机の方へ視線をやった。
「仕事は進みましたか」
「少し」
「では今夜、もう一つ控えを回します」
「またですか」
「またです」
志乃は思わず額を押さえた。
「休ませる気がない」
「休んでいるうちに名は動きます」
その一言に、何も返せなくなる。
悔しい。
だが本当だ。
清雅はそこで、少しだけ声を落とした。
「……ただ、今日は無理をしなくてよい」
「え?」
「お瑞に会った日は、だいたい皆少し疲れます」
その言葉に、志乃は吹き出しそうになった。
笑うような場面ではない。けれど、その妙に現実味のある言い方が可笑しかった。
「若君様も、そうなんですか」
「もちろん」
「意外です」
「傷つきますね」
「そんなこと言うんだ」
「あなたの前では」
さらりと言われ、今度こそ志乃は視線を逸らした。
また、こういうふうに急に距離を変えてくる。
「……困ります」
小さくそう言うと、清雅は何も返さず、ただ少しだけ笑って去っていった。
残された廊下で、志乃はしばらく動けなかった。
女たちの視線。
奥向きの流れ。
そして清雅の、あの柔らかくて厄介な言葉。
紙の上だけを読んでいれば済むと思っていた。
でも違う。
ここでは女たちの目もまた、ひとつの文のように読まなければならない。
榊原家の女たち。
その流れの中へ、志乃はすでに足を踏み入れていた。




