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『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第16話 消えた依頼人の痕

 夕方近く、屋敷の中が少しだけ緩む時間がある。


 朝から続いていた足音がひと息つき、帳面を閉じる音がぽつぽつと混じり、女中たちの声もひときわ低くなる。夜の支度に入る前の、ほんのわずかな隙間のような時間だ。


 志乃はその時間が、少しだけ好きになりはじめていた。


 誰も完全には休んでいない。

 けれど、張りつめた糸がひと筋ぶんだけ緩む。

 そのぶん、人の本音や疲れが、朝より少しだけ見えやすくなる。


 書付部屋でその日の控えを整えていると、廊下の向こうから静かな足音が近づいてきた。顔を上げると、菊江が立っている。


「志乃さま」


「はい」


「お瑞どのがお呼びです」


 志乃は筆を置いた。

 また奥手前か、と思う。だが今度の菊江の顔は、前回よりさらに読みにくい。警戒とも諦めともつかぬ色が、きれいに隠されている。


「何かあったんですか」


「呼ばれれば分かります」


 それだけ言うと、菊江は先に立って歩き出した。


 案内されたのは、前回のお茶の間ではなかった。

 少し奥まった、女房たちが細事を扱うための小部屋らしい。そこにはお瑞と、もう一人、見覚えのある女がいた。


 口入屋へ文を持ち込んだ頭巾の女――ではない。

 けれど、その女の周辺にいると聞けば納得するような風情の女だった。四十を少し過ぎたくらい、上等すぎぬが癖のない衣、控えめな化粧、そして目だけが妙に周囲を見ている。


「お座りなさい」


 お瑞に促され、志乃は座る。

 目の前の女は、こちらを一度見たきり、すぐ視線を落とした。町人にも武家女房にも見える、どちらへでも紛れられそうな雰囲気を持っている。


「この方は、お里」


 お瑞が言う。


「表ではあまり名の出ぬ方です」


 それは紹介であって、紹介ではない。

 “ただの女ではないが、ここでそれ以上は問うな”という意味を含んだ言い方だ。


 志乃は小さく頭を下げた。


「志乃です」


 お里は低く会釈を返した。


「……お噂は」


 そこで言葉を切る。

 何の噂なのかは言わない。文机役見習いとして若君のそばに置かれた町家の娘。その程度はもう、この屋敷の中では説明不要なのだろう。


 お瑞がさっそく本題へ入った。


「第一章で話に出ていた、消えた依頼人の女のことです」


 志乃の背筋がすっと伸びる。


「あの人のこと、分かったんですか」


「全部ではありません。けれど、行方知れずというほどでもなさそうだと」


「どういうことです」


 お瑞はお里に目をやった。

 お里は少しだけ迷うようにしてから、静かに口を開いた。


「……町で文を運ぶ女は、たまにおります」


 その声は細いが、よく通る。


「表向きは親類づきあい、針仕事の仲介、手習いの使い、そういう顔をしながら」


 志乃は息を潜めて聞く。


「でも実際には、奥向きから奥向きへ、表に出せぬ話を運ぶこともある。縁談の打診、離縁の下ごしらえ、後添えの腹探り、養子入りの気配――男の手へ渡す前の、やわらかい話でございます」


 やはり、と思う。

 紙の上で見えていたことが、今、言葉になった。


「その女も?」


 お里ははっきりとは頷かなかった。

 ただ、否定もしない。


「頭巾を深く被り、町人のように見えて、町人には見えぬ者だったと聞きました」


「……はい」


 志乃の脳裏に、口入屋の近くの路地で見た女が浮かぶ。文を受け渡す手つき、周囲を見る目、紙を握る慎重さ。


「その女、今は“消えた”のではなく、ある家の内で預かられているらしいと」


「預かる?」


「そう言えば聞こえはよろしいですが」


 お瑞が淡く言葉を継いだ。


「勝手に口を開かぬよう、しばらく表へ出さぬということでしょうね」


 胸の中が冷える。

 斬られて川へ浮くような露骨なことではない。

 けれど、女ひとりを“預かる”という形で消す方が、よほど静かで現実的だ。


「その人は、何を運んでいたんですか」


 志乃が訊くと、お瑞は少し目を伏せた。


「一つや二つではないでしょう。縁談に関わる文を運ぶ女は、ひとつの家のためだけには動きません」


 そうか。

 だからこそ厄介なのだ。

 ひとつの縁を動かすための使いであると同時に、複数の家の奥向きを緩く繋ぐ手足でもある。

 つまり、その女を押さえれば、どこかひとつの事件だけでなく、複数の“女の名の流れ”へ蓋をできる。


「……わたしの祝言の件も、その女が」


 言いかけた志乃を、お瑞は手で制した。


「そこはまだ飛びすぎです」


 ぴしゃりとではなく、しかしはっきりと。


「関わっていた可能性はあります。ですが、何をどこまで運んでいたかはまだ分からない」


「でも、可能性はあるんですね」


「ええ」


 お瑞はそこで、じっと志乃を見た。


「志乃さま。思い込みだけで人を敵にしてはなりません。けれど、可能性から目を逸らしてもなりません」


 その言葉は、ひどく重かった。

 最近、清雅もお瑞も、同じようなことを言う。

 怒る相手を間違えるな。だが、見える可能性から退くな、と。


 お里がぽつりと続ける。


「女が女の名を運ぶとき、そこに同情があるとは限りません。けれど、悪意だけとも限りません」


 志乃はそちらを見た。


「どういう意味ですか」


「奥向きで動く女は、大抵、誰かに生かされております」


 お里の目は、まだ志乃をまっすぐには見ない。


「後家として居場所をもらった、娘を嫁がせてもらった、弟に職を与えてもらった、そういう恩がある。だから、頼まれれば運びもする。勧めもする。口添えもする」


 つまり、悪意ひとつで動くのではない。

 恩、義理、家族、立場。

 そういうもので縛られ、使われる。

 それはある意味で、志乃が“娘”として家の事情へ巻き込まれるのと、遠くない。


 だからこそ、単純な悪女の図にはならない。


「では、その女も……」


「誰かの手足であり、同時に自分の暮らしを守るための女だったのでしょうね」


 お瑞が静かに締めた。


 部屋にしばらく沈黙が落ちる。

 外では誰かが走る足音がした。すぐに止み、また静かになる。


 志乃は自分の手を見た。

 もしあの頭巾の女が、自分の祝言白紙のどこかに関わっていたとしても、その女だけがすべての元凶ではない。

 女の名を動かす構造があり、その構造の中で、女が別の女の名を運ぶ。

 それはあまりに息苦しく、やるせない。


「若君様は、このことをご存じです」


 お瑞が言った。


「ただし、直接お口にはしないでしょう」


「どうして」


「お里のような者の名を、若君様ご自身が軽々しく出せぬからです」


 なるほどと思う。

 清雅は多くを知っていても、自分の口からは語らぬ筋がある。表向き名門旗本の若君である以上、女の手足をどこまで掴んでいるかを見せすぎれば、それ自体が別の火種になるのだろう。


「だから今日、この場を設けました」


 お瑞の言葉で、ようやくこの面会の形が腑に落ちた。

 清雅では言えないことを、奥向きの側から、しかも必要最低限だけ志乃へ渡しているのだ。


「どうして、そこまで」


 志乃は問うた。


「わたしに、そこまで教える必要が」


 お瑞は少しだけ笑った。

 疲れたような、諦めたような、年長の女だけが見せる微笑みだった。


「若君様が珍しく、放っておけぬご様子ですから」


 その言葉に、頬が熱くなりそうになるのを必死で抑える。


「……そういう言い方は」


「事実かどうかは存じませぬ」


 お瑞はあっさり逃がした。

 でも、お里がそこで初めて、ほんの少しだけ志乃を正面から見た。


「若君様のそばに置かれた女は、よくも悪くも早く覚えます」


「何を」


「誰が本当に怖いかを」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 誰が本当に怖いか。

 婚家か。

 差し込まれる娘か。

 頭巾の女か。

 それとも、その女に文を運ばせるもっと上の存在か。


 志乃は自分の中で、何かが一段深く沈むのを感じた。


「……わたし、間違えたくないです」


 ぽつりとそう言うと、お瑞が頷いた。


「ええ」


「怒る相手も、見る相手も」


「それでよろしい」


 お里も小さく頷いた。


「文を運ぶ女は、ただの口ではありません。文がどこへ渡ると、一番よく燃えるかを知っている口です」


 その言い方に、ぞくりとした。

 頭巾の女は、ただ手紙を持っていただけではない。

 どの文を、どの家へ、どの順で渡せば、一番都合よく縁が切れ、別の縁が入り込めるか。その火加減を知る口だったのかもしれない。


 そう思うと、祝言の日のあの書付すら、ただの最終通告ではなく、もっと前から仕込まれた流れの最後の一枚だったように思えてくる。


 話が終わり、志乃が立ち上がると、お瑞が最後に言った。


「今は、女たちを一まとめに敵と見ぬことです」


「はい」


「けれど、女の手が一切ないとも思わぬこと」


 その言葉を胸に刻み、志乃は部屋を出た。


 廊下を戻る途中、窓の外に薄く夕日が差していた。

 欄間から入る光が、畳の縁へ斜めに伸びている。


 女の名は、男だけが動かすのではない。

 女が、女の名を運び、差し込み、消すこともある。


 だとすれば、志乃の祝言を白紙にしたのは、婚家の男たちだけではないかもしれない。

 誰かの母が。

 叔母が。

 乳母が。

 あるいは後家の女が。

 “この娘ではない”と、もっと前から決めていたのかもしれない。


 その想像は、刃物のようだった。

 紙の上の差し替えより、ずっと生々しい。


 書付部屋の前まで戻ると、そこに清雅がいた。


 壁にもたれるでもなく、ただ静かに立っているだけなのに、そこだけ空気が変わる。

 その人は、志乃の顔を見るとすぐに訊いた。


「聞けましたか」


 知っていたのだ。

 当然のように。

 少し腹が立つ。


「……ええ」


「顔で分かります」


「便利ですね、わたしの顔」


「大変便利です」


「最低です」


「存じております」


 そういうやり取りにも、もういちいち驚かなくなっている自分がいる。


 志乃は少しだけ息を整えて言った。


「頭巾の女のこと、やっぱりただの使いじゃなかったんですね」


「はい」


「でも、その女だけが悪いわけじゃない」


「そうですね」


「女の手が入ってる」


 清雅の目が、ごくわずかに細くなる。


「そこまで聞きましたか」


「ええ。お瑞どのと、お里どのから」


 お里の名を出した瞬間、清雅の視線が一拍だけ止まる。

 やはり、その名がここで軽く出てくること自体、あまり表の話ではないのだろう。


「……なるほど」


「怒る相手を間違えるなって、また言われました」


「当然でしょう」


「でも、可能性から目を逸らすなとも」


 志乃がそう言うと、清雅は静かに頷いた。


「それで結構です」


「あなた、ほんとうにそればっかりですね」


「肝心なことですから」


 志乃は廊下の柱へ手を置いた。

 ここまで来ると、もう疲れているのか怒っているのか、自分でも分からない。


「……わたし、少しだけ怖いです」


 ふいに、そんな言葉が零れた。


 清雅は、すぐには慰めなかった。

 その沈黙が、かえってありがたかった。


「何が」


「紙だけじゃなくなってきたから」


 志乃は目を伏せる。


「文の嘘なら、まだ見られる。筆の癖も、言葉の隠し方も。でも、その後ろにいる女たちとか、恩とか、立場とか……そういうのは、見えてもどうしたらいいのか分からない」


 清雅は少し考えるようにしてから、低く言った。


「紙より人の方が厄介です」


「そうですね」


「ですが、人もまた、必ずどこかへ癖を残す」


 その言葉に、志乃は顔を上げた。


「癖?」


「言い回し、贔屓、恐れる相手、甘くなる相手。文ほど綺麗には残りませんが、人の動きにも癖はあります」


 志乃はしばらくその言葉を噛みしめた。

 たしかにそうかもしれない。

 紙の癖を見るように、人の目や立ち位置や沈黙の仕方にも、きっと繰り返されるものがある。


「……じゃあ、見ます」


「ええ」


「紙も、人も」


 清雅はそこで、ほんの少しだけ口元をやわらげた。


「そうでなくては困る」


 またそれだ。

 必要だと言い、困ると言い、手元へ置きたがる。

 腹は立つのに、なぜかその言葉で足元が定まる。


 志乃は小さく息を吐いた。


「次は、誰が本当に怖いか見ます」


「ええ」


「そのためなら、わたし……ちゃんとこの家の女たちの目も見ます」


 清雅は静かに頷いた。


「それができれば、おまえはもう半分、こちら側です」


「嫌な言い方」


「そうでしょうか」


「そうです」


 それでも、その“こちら側”という言葉の意味を、志乃はもう完全には拒めなかった。


 榊原家という檻。

 その中には、紙の嘘だけではなく、女たちの流れもある。

 志乃は今、その両方を読まねばならぬ場所にいる。

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