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『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第17話 若君の囲い込み

 次の日の朝、書付部屋へ入った瞬間、志乃は空気の変化に気づいた。


 人の数も、机の並びも、帳面の積まれ方も、ぱっと見にはいつもと変わらない。

 けれど、視線の流れが違う。


 若い書役が文箱を抱えたまま一瞬だけ手を止め、藤三郎は帳面を広げながらも志乃の方を見ず、代わりに机の端へひとつの文箱を置いた。

 その文箱には、細い紙札が差してある。


 「先に若君様へ」


 志乃は足を止めた。


「……これ、何ですか」


 藤三郎がようやく顔を上げる。


「今朝からの扱いです」


「扱い?」


「志乃殿の見た控え、志乃殿の控え書き、志乃殿が違和感ありとした文。いずれも、まず若君様へ上げることに」


 言葉は平板だ。

 だがその平板さの下に、複雑なものが沈んでいるのが分かる。


 若い書役――最初に志乃へ食ってかかったあの男が、あからさまに不満そうな顔をしていた。


「昨日までとは、ずいぶん違うんですね」


 志乃が言うと、藤三郎は少しだけ間を置いてから答えた。


「若君様のご指示です」


「……全部」


「全部です」


 志乃は文箱へ視線を落とした。

 囲われている、と思う。

 昨日まででも十分そうだったのに、今日はそれが形になって目の前へ出されている。


「不便ではございますが」


 藤三郎が低く言う。


「今のところは、それが一番よいのでしょう」


 その“よい”に、誰のための、という言葉はついていない。

 榊原家のためか。清雅のためか。志乃のためか。

 たぶん、全部なのだろう。


 机へ向かうと、すぐに最初の控えが回ってきた。

 ある家の養女入りに関わる内相談の写しだ。紙そのものは何の変哲もない。だが三行目の“心づもり”という言葉の置き方が妙に軽く、その軽さがかえって重い。すでに内々で決まっていることを、まだ「考えのうちです」と装うときの軽さだ。


 志乃は短く見立てを書きつけた。


 「表では未定に見せているが、内側ではほぼ決まっている文」


 それを控えと一緒に文箱へ戻そうとしたとき、横から若い書役が言った。


「本当に全部、若君様を通すのですか」


 棘を隠しきれていない声だった。


「そう決まったって」


「いちいちそんなことをしていたら、仕事が滞る」


「じゃあ、あなたは見立てができるんですか」


 思わずそう返していた。

 若い書役はむっとする。


「筆の癖くらいは読める」


「癖だけじゃ足りないから、こうなってるんでしょう」


 言ってから、少し強すぎたかと思う。

 だが引く気にもなれなかった。


 若い書役は言い返しかけ、そこでぴたりと止まった。

 部屋の入口に、静かな気配が立ったからだ。


「ずいぶん賑やかですね」


 清雅だった。


 朝の光を背に、いつものようにきちんと整った姿で立っている。今日は濃紺の羽織に灰色の袴だ。派手ではないのに、人の目を引く。

 そして何より、部屋の空気が一瞬で整う。


 若い書役はすぐに頭を下げた。

 藤三郎も立ち上がる。


「若君様」


「よろしい。続けて」


 そう言いながら、清雅はまっすぐ志乃の机へ来た。


「もう始めていましたか」


「はい」


「見せて」


 まるで当然のように手を差し出され、志乃は眉を寄せた。


「……ほんとうに全部なんですね」


「ええ」


「そこまでしますか」


「します」


 あまりに迷いなく言い切るので、呆れる。


 志乃は控えを差し出した。

 清雅は目を通し、すぐに頷く。


「よいですね」


「まだ一通目です」


「一通目でも、よいものはよい」


 そう言うと、清雅は自分の袖から細い紙を取り出し、志乃の見立てに一言だけ書き添えた。


 「外へ出す返しは強めぬこと」


 それを見て、志乃は目を瞬いた。


「返し方まで?」


「当然でしょう」


「わたしの見立てを使うんですか」


「使わねば意味がない」


 清雅はそう言って、控えを藤三郎へ渡した。


「この返しは、こちらの一筆を足した上で整えてください」


「承知しました」


 藤三郎が控えを受け取る。

 その手つきには、もう昨日までの“この娘に見せてよいものか”という迷いはない。

 代わりに、“若君様がここまで通すなら、そういうものとして扱うしかない”という決まり方に変わっていた。


 志乃は、その流れを見ていて、胸の奥が奇妙にざわつくのを感じた。


 自分の書いた短い控えが、すぐに清雅の手へ渡り、そのままこの家の返答の形に組み込まれていく。

 それは認められている感覚でもあり、同時に、自分の目と筆が清雅の手の中へ収められていく感覚でもあった。


「そんな顔をしないでください」


 清雅が低く言う。


「どんな顔ですか」


「囲われていると気づいた顔」


 どきりとした。

 やはりこの人は、人の胸の内へ踏み込むのをためらわない。


「……実際、囲っているでしょう」


「ええ」


 否定しない。


 清雅は少しだけ姿勢を崩し、声を落とした。


「おまえの見たものを、今は誰にもそのまま触らせたくない」


「どうして」


「勝手に書き換えられては困る」


「それは守ってるみたいに聞こえます」


「半分は」


「じゃあ、もう半分は?」


 清雅は一拍だけ間を置いた。

 その間に、書付部屋の奥で誰かが帳面をめくる音がした。遠くで戸の開く音もする。

 こんなに人のいる場所なのに、この瞬間だけ、二人の間の空気が妙に近い。


「……手放したくないからです」


 低く、あまりに静かに言われたので、最初は意味が入ってこなかった。


 手放したくない。


 何を。

 志乃の見立てをか。筆をか。

 あるいは、その両方をか。


 顔が熱くなるのを感じて、志乃はすぐ視線を落とした。


「そういう言い方、ずるいです」


「そうでしょうか」


「自覚がないなら、もっと質が悪い」


 志乃の声は少し硬くなった。

 だが清雅は怒らない。


「自覚ならあります」


「じゃあ、なおさらです」


「そうですね」


 その返しが、悔しいほど柔らかい。

 まるでこちらの反発すら、織り込み済みみたいではないか。


 午前の仕事がひと区切りついたころ、藤三郎が別室へ呼ばれ、書付部屋には志乃と若い書役、それに二人の下働きだけが残った。

 清雅は去らず、部屋の端の机で別の控えを見ている。


 若い書役が、紙を整えるふりをしながらぼそりと呟いた。


「若君様も、ずいぶんだ」


 聞こえぬほどではない声。

 聞かせる気もある。


 志乃は顔を上げた。


「何がですか」


「いや別に」


「別に、って顔じゃないでしょう」


 若い書役は少しだけ唇を歪めた。


「そこまで若君様が目をかける相手は珍しいと言ってるだけです」


 その言い方には、嫌味だけでなく、少しの戸惑いも混じっていた。

 つまり、この男にとっても、清雅のこの囲い方は普通ではないのだ。


「羨ましい?」


 思わずそう返してしまい、自分で少し驚いた。

 若い書役も目を丸くする。


「……町娘のくせに、強いな」


「そう見えるなら、見立て違いです」


「じゃあ何だ」


 志乃は少しだけ考えてから言った。


「わたしは、怒ってるんです」


 若い書役は言葉を失った。

 そうだろう。こんな答えは予想していなかったに違いない。


「若君様に囲われて喜ぶほど、浮かれてはいません」


 そこまで言ってから、清雅の視線がこちらへ向いている気配に気づく。

 聞こえていたのだ。

 当然だろう。


「ええ、それで結構です」


 当の本人が平然と口を挟んでくる。


「喜ばれても困ります」


「……本人が言うことですか、それ」


「本人だから言うのです」


 若い書役はもう何も言わなかった。

 ただ、志乃と清雅を交互に見て、最後には肩をすくめるようにして仕事へ戻っていった。


 昼が過ぎ、部屋へ運ばれてきた簡素な昼餉をとっているときも、清雅の囲い込みは続いた。


「その控えは午後の分へ回してください」

「志乃殿の見立てが入ったものは、まとめずに分けて」

「返しの草案は先に私が見ます」


 ごく自然に、当たり前のことのように指示を出す。

 それがこの人らしいところだ。

 大仰に“守る”とも“囲う”とも言わない。ただ、気づけばそうなっている。


 昼餉を終えて、志乃が自分の茶を口にしたとき、清雅がふいに言った。


「不満そうですね」


「不満です」


「何に」


「何にって」


 志乃は茶碗を置いた。


「わたしの見たものを、全部あなたが先に持っていくところです」


「ええ」


「“守るため”って顔をして、実際には全部手の内へ入れてる」


 清雅は少しだけ目を細めた。


「違いますか」


「違わないから腹が立つんです」


 言い切ると、清雅はほんのわずかに笑った。


「よい顔ですね」


「だから、そういうのやめてください」


「やめません」


「どうして」


「おまえが、ようやくこちらへ噛みつくようになったから」


 志乃は息を止めた。


 こちらへ。

 その言い方は、まるで以前はまだ本気で向き合っていなかったみたいではないか。


「最初は、怖がっているのに礼を尽くして遠ざけようとしていた」


 清雅は淡々と続ける。


「今は違う。腹が立つなら腹が立つと、そのままこちらへ返してくる」


「……悪かったですね」


「いいえ」


 清雅は静かに言った。


「その方が、やっと手元へ置いた甲斐があります」


 またそれだ。

 手元。

 囲い込みを隠しもしない。


 だが、その言葉のせいで志乃の胸はまた落ち着かなくなる。

 腹が立つのに、その腹立たしさの奥に、妙な熱が混じる。


「ほんとうに厄介な人」


 小さく言うと、清雅は「存じています」とだけ返した。


 午後の最後に、志乃はもう一通、やっかいな控えを見抜いた。

 外向きには穏便に整えてあるが、内々の意向だけがやけに強く押し込まれている返答文。

 それを短く見立てにし、文箱へ戻そうとしたところで、清雅がすっと手を差し出した。


「こちらへ」


「……はいはい」


 少し投げやりに差し出す。

 清雅は紙を受け取ると、志乃の見立てを読んだあと、珍しく何も書き足さず、そのまま懐へ入れた。


「書かないんですか」


「今日は十分です」


「何が」


「おまえの癖が見えた」


 その言い方に、志乃は思わず顔をしかめる。


「人を紙みたいに言わないでください」


「紙ではありません。ですが、おまえにも癖はある」


「どんな」


「外から見れば、まず筆の癖より、怒りの置き方に出る」


 そう言って、清雅は少しだけ口元を和らげた。


「奪われた話へ触れると、線が強くなる」


 そこまで見ているのかと、ぞっとする。

 でも同時に、そんなところまで見ているのはこの人だけかもしれないとも思う。


「……見すぎです」


「ええ」


「ほんとうに気味が悪い」


「それは傷つきます」


「傷ついてください」


 そこまで言い返すと、清雅はむしろ楽しげだった。


 日が傾き、仕事が終わるころ。

 書付部屋の者たちがそれぞれ引き上げはじめる中で、志乃はようやく机へ残った控えを片づけた。


 文箱は整理され、帳面は閉じられ、今日一日の見立ては清雅の手元へ集められている。

 自分の書いたものが全部そこへ収まっていくのを見るたび、囲われているという実感が増す。


 だが、それと同じだけ、今日一日で分かったこともあった。


 清雅はただ志乃を守ろうとしているのではない。

 役に立つから置いているだけでもない。

 たぶんその両方で、なおかつ、もう他へ渡す気がないのだ。


 そのことに気づくと、少し怖い。

 けれど、怖いだけでもない。


 部屋を出る前、志乃はふと振り返った。


「清雅さま」


 自分で呼んでから、一拍遅れて気づく。

 いつもなら“若君様”と言うところを、自然に名で呼んでいた。


 清雅もそれに気づいたらしい。

 ほんの少しだけ目を細める。


「何ですか」


「……明日も、全部先に取るんですか」


「ええ」


「不便です」


「我慢してください」


「横暴」


「知っています」


 相変わらずだ。

 でも、そのやり取りが少しだけ自然になってしまっているのが、また悔しい。


「でも」


 志乃は小さく続けた。


「勝手に書き換えられないのは、少しだけ安心します」


 言い終えてから、頬が熱くなる。

 こんなことを素直に言うつもりはなかったのに。


 清雅はしばらく黙り、それからごく静かに言った。


「ええ。そうでなくては困ります」


 その声は、今日のどの言葉よりもやわらかく聞こえた。

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