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『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第18話 古い離縁状の癖

 その日は朝から雨だった。


 春の終わりに近い雨で、冷たいというより、じわじわと人の気を湿らせる種類のものだった。瓦を叩く音も、庭石へ落ちる水の跳ねも細かい。榊原家の屋敷は雨に濡れてなお整って見えたが、その整い方が今日は少し息苦しかった。


 書付部屋の障子は半ば閉じられ、いつもより灯が多く置かれている。

 灯の数が増えると、紙の白さがかえって際立つ。

 人の顔も、筆先も、隠しようのないものだけがよく見える。


 志乃は机へ向かいながら、雨の日の紙は嫌いではないと思った。

 湿りを吸って少しだけ重くなった紙は、扱いが難しいぶん、書き手の癖も出やすい。慎重に筆を運ばねばならず、その分だけ無意識の乱れが目につく。


 つまり、嘘を整えようとする者には少しばかり不利だ。


 朝の仕事がひと段落したころ、藤三郎が一通の古びた文を持ってきた。


「若君様より」


 その一言だけで、志乃は顔を上げた。


「今日はこちらを見ていただきたいと」


 差し出されたのは、離縁状の控えだった。


 ひと目で分かる。

 紙の黄ばみ、折り目の深さ、墨の色。最近のものではない。少なくとも数年は経っている。だが、何十年も前というほどではない。


「古いですね」


「はい。表向きは、後妻筋の家の整えに使う古控えの照合です」


 表向き。

 その言い方をされるときは、だいたい別の意味がある。


「……表向きは、ですか」


「そういうことです」


 藤三郎は深くは語らない。

 ただその顔を見るに、これもまた、ただの古文書整理ではないのだろう。


 志乃は控えを受け取り、ゆっくりと開いた。


 文面は簡潔だった。

 家と家の体面を損なわぬよう、しかし関係を断つべき理由だけはきちんと残す。離縁状らしい文の形をしている。

 だが、三行読んだところで、志乃の指先が止まった。


「……変」


 思わず漏れた声に、藤三郎が問う。


「どこが」


「ここ」


 志乃は紙の中央近くを指した。


「離縁の理由にあたるところだけ、妙に綺麗すぎる」


「綺麗すぎる?」


「前後の筆は、全体に少しだけ急いでるんです。筆を立てるところと寝かせるところに迷いがある。たぶん書き手は、この種の文に慣れてはいるけど、心までは落ち着いていない」


 離縁状を書く場面で、落ち着いている方が珍しいかもしれない。

 だが紙には、そういう気配が滲むものだ。


「なのに、理由のところだけ違う」


 志乃はその箇所を目で追った。


「“双方相談の上、今後の縁を遠慮いたす”――ここだけ、無駄がなさすぎます。書き手の気持ちじゃなく、表へ残す形だけを整えたみたい」


 藤三郎は黙っている。

 その沈黙は、“続けろ”という意味だと分かる。


「それに、この“遠慮いたす”の“遠”の入り方」


 志乃は指先を紙の少し上で止めた。


「前の行の“道”のしんにょうと同じ人の運びじゃありません。似せているけど、止める位置が少し違う」


「途中から別筆と?」


「いえ……」


 志乃は首を振った。


「たぶん、同じ人が書いてます。でも、ここだけ“自分の言葉”じゃない」


 それを口にした瞬間、胸の奥がひやりとした。


 自分の言葉ではない。

 誰かに言われた形を、もっともらしく整えて置いている。

 それは、祝言の日の書付でも見た感触だった。


 まるで理由そのものが、当事者の口からではなく、別のところから与えられているような書き方。


「志乃殿」


 背後から声がした。

 振り向かなくても分かる。


 清雅だった。


 今日の彼は、灰青の羽織をまとっている。雨の日の薄暗さの中では、その色がよく映えた。いつものように整っているが、雨のせいか、少しだけ物腰が柔らかく見える。


「続けて」


 静かな声で促され、志乃は紙へ向き直る。


「離縁状って、本当ならもっと感情が残ると思うんです」


「怒り、恨み、あるいは情」


 清雅が言う。


「はい」


 志乃は頷いた。


「きれいに切ろうとしても、どこかに“切らざるを得なかった”感じが出る。でもこれは違う。切る形だけ先にあって、その形へ人の事情を押し込んでる」


 清雅はしばらくその離縁状を見ていた。

 やがて、低く言う。


「やはり、同じ手ですね」


 その一言で、書付部屋の空気が少し変わった。


 若い書役たちも、手元を止めぬふりをしながら耳をそばだてている。

 藤三郎だけが、表情を崩さない。


「同じ手、とは」


 志乃が訊くと、清雅はすぐには答えなかった。

 代わりに、別の文箱から二通の控えを取り出す。


 ひとつは、先日見た偽りの縁談書。

 もうひとつは、祝言白紙と似た隠し方をしていた差し控えの古控えだ。


 清雅は三つを机へ並べた。


「この離縁状」

「この差し控え」

「そして、あなたの祝言の日の書付」


 志乃の胸がひとつ鳴る。


「同じ筆ではありません。書いた家も違う。時期も違う。ですが」


「整え方が似ている」


 志乃がそう言うと、清雅は頷いた。


「ええ」


「理由そのものではなく、“理由を表へどう残すか”の考え方が同じ」


「その通り」


 紙の上で、三つの文は互いに何の関係もない顔をしている。

 けれど、こうして並べると分かる。

 どれも、当事者の感情を削り、体面だけが崩れぬよう、もっともらしい言い回しへ押し込んでいる。

 つまり、これはただ筆の癖ではない。

 “文を整える理”の癖だ。


「……整え手がいる」


 志乃は小さく呟いた。


「ええ」


「一人、ですか」


「そこはまだ」


 またその答えだ。

 けれど今日は、それでも前よりずっと近い。


「でも、少なくとも同じ筋だ」


 志乃が言うと、清雅は少しだけ目を細めた。


「よろしい」


「何が」


「その言い方です。整え手一人と決めつけず、筋として見るところが」


 清雅は紙の上へ指先を置いた。


「一人の筆がすべてに関わるとは限らない。ですが、同じ理で文を整える者は、だいたい同じ場所に集まる」


「場所」


「ええ。家か、女たちの流れか、あるいはその間か」


 その言葉に、先日お瑞とお里から聞いた話が重なる。

 女の名を運ぶ女たち。

 奥向きの打診。

 表へ出す前の、やわらかな話。

 そこへ、こういう“整え手”が加われば、女の縁はもっと綺麗に、そしてもっと残酷に切られていく。


「つまり、わたしの祝言も……」


 そこまで言って、志乃は唇を噛んだ。


 今なら、以前よりはっきり分かる。

 婚家が嫌がったとか、相性が悪かったとか、そんな単純な話ではない。

 “切る筋”に乗せられたのだ。

 しかも、離縁や差し控えを表へきれいに残すことに慣れた誰かの手によって。


「可能性は、かなり高くなりました」


 清雅が静かに言う。


「おまえの件も、この筋のどこかにある」


 高くなりました。

 その言い方が妙に現実的で、腹立たしいくらい頼もしい。


 志乃は三つの文を見比べた。

 差し控え。

 離縁。

 白紙。


 形は違う。

 でも、やっていることは同じだ。

 “女の縁を切る”こと。

 しかも、怒る先が曖昧になるように、体面だけ残して切ること。


「……こんなの」


 喉の奥が熱くなる。


「こんなの、ひどい」


 怒りと悔しさが入り混じったまま、そうとしか言えなかった。


 清雅は何も言わなかった。

 ただ、その沈黙が“同感だ”と答えている気がした。


 やがて藤三郎が低く言う。


「若君様、この控えは」


「私のところへ」


 やはりだ。

 志乃の見たものはすべて、まず清雅の手元へ集まる。


 藤三郎が離縁状を包み直して去ると、書付部屋の中はまた、見て見ぬふりの仕事の音へ戻っていった。

 けれど、もう誰もこの一件を“ただの古文書の確認”とは思っていないはずだ。


 清雅は紙の束を机の端へ寄せた。


「今日は、もう一つ」


「まだあるんですか」


「ええ。こちらの方が大事です」


 そう言って出したのは、小さな控え札だった。

 どこかの文箱へ添えられていた整理札らしく、家名も人名もほとんど消されている。だが片隅に、ごく細い朱の印がある。


 志乃は目を凝らした。


「これ……」


「見覚えは?」


 訊かれた瞬間、胸の中で何かが跳ねた。


 見覚えがある。

 いや、“ある気がする”ではなく、たしかにある。


 祝言の日に持ち帰った品の中に、こんな印を見たことがある。

 紙片だったか、包み紙だったか、あるいは懐紙の端だったか。

 はっきりとは思い出せない。けれど、朱の置き方が妙に似ている。


「……あります」


 志乃の声が少し掠れる。


「どこで」


「まだ、はっきりしない。でも、祝言の日のものの中に」


 清雅の目が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。


「確かですか」


「たぶん。いえ……かなり」


 志乃は自分の胸元へ無意識に手をやった。

 祝言の日の書付だけでなく、あの日の包み紙や控えの切れ端らしきものも、いくつか小さくまとめて持ってきている。捨てられなかったのだ。

 呪いのように思いながらも、どこかで必要になる気がして。


「今夜、見直します」


 そう言うと、清雅はすぐに頷いた。


「ええ。誰にも見せずに」


「そこまで言われなくても」


「言います」


 きっぱりした声だった。

 やはりこの人は、少しでも繋がるものが出ると、すぐ囲い込む。


「……わたしの持ち物です」


「ええ」


「あなたの文箱じゃありません」


「知っています」


「なのに、全部まずあなたが見ようとする」


「当然でしょう」


 その“当然”が腹立たしい。

 だが今は、その腹立たしさの方が、むしろ落ち着く。


 清雅は雨音の方へ一度だけ耳を傾けるようにしてから、低く言った。


「朱の印なら、紙の筋ではなく、人の筋を辿れるかもしれない」


「人の筋」


「ええ。誰の手を通っているか」


 それは大きい。

 筆や言い回しは似せられても、印の扱いには流れが出る。

 整理札、控え札、文箱の印――そういうものは、実際に物を回す人間の癖に近い。


 つまり、祝言の日の持ち物の中に同じ朱の印があれば、文の整え手だけでなく、“運んだ筋”まで見える可能性がある。


 そこまで思い至った瞬間、志乃の鼓動が速くなる。


 いけるかもしれない。

 自分の祝言が白紙になった流れへ、文ではなく、物の筋から入れるかもしれない。


「……見つけます」


 小さく言うと、清雅は志乃の顔をまっすぐ見た。


「ええ」


「絶対」


「ええ」


「今度は、わたしの方から持っていきます」


 その言葉に、清雅はほんの少しだけ口元を和らげた。


「それは頼もしい」


 まるで、そう言わせたかったみたいな顔だ。

 悔しい。

 でも、今回はその悔しさごと前へ出るしかない。


 雨はまだ止んでいない。

 書付部屋の外は薄暗く、灯の火が小さく揺れている。


 その揺れる明かりの中で、志乃ははっきりと感じていた。

 祝言白紙の件は、ますます“同じ筋”の中へ近づいている。

 差し控え。

 離縁。

 そして、消された祝言。

 全部が、女の縁を綺麗に切るための、同じ手の延長に見えはじめていた。


 ならば次は、その手を辿る。

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