表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/26

第19話 名を奪われた娘

 その夜、志乃は自室へ戻ると、迷わず文箱を引き寄せた。


 祝言の日の書付。

 白無垢の裾に紛れるように持ち帰った小さな包み紙。

 その日に使われた懐紙の端。

 さらに、婚家から来た使いが置いていった品を包んでいたごく薄い紙片まで――。


 捨てれば楽になれたのかもしれない。

 けれど捨てられなかった。

 あの日を無かったことにしてしまえば、自分まで本当に消される気がしたからだ。


 灯を近くへ寄せ、紙を一枚ずつ机の上へ並べる。


 雨はまだやんでいない。

 障子の向こうで、庭へ落ちる雫の音が絶え間なく続いている。

 その細かな音に急かされるように、志乃は紙の端を、折り目を、墨の濃淡を見ていった。


 朱の印。


 今日、清雅が見せた小さな控え札の隅にあった、ごく控えめな朱。

 飾りでもなく、家紋でもなく、整理のための、人の手を経た痕に近い印。


「……あった」


 ぽつりと声が漏れた。


 薄い包み紙の裏。

 折り目の陰に隠れるように、小さな朱の押し跡が残っている。

 まるで最初から見せるつもりのない場所へ、内々の目印だけを置いたような、控えめな印。


 祝言の日の包み紙に、なぜそんなものがあるのか。

 しかも、今日見た控え札と、置き方がよく似ている。


 志乃は唇を引き結んだ。


 ただの偶然ではない。

 少なくとも、あの日の品のどこかが、最近の“差し替えられる縁”の流れと同じ筋を通っていた可能性がある。


 机の上に紙を広げたまま、志乃はしばらく考えた。

 今すぐ清雅のところへ持っていくべきか。

 いや、もう夜も深い。

 それに、この印が何なのか、もう少し自分でも確かめたい。


 そう思いながらも、心はすでに明日の方へ走っていた。


 次の日の朝、志乃はいつもより早く書付部屋へ向かった。


 まだ灯の方が明るい刻限で、人影もまばらだ。

 藤三郎はおらず、若い書役たちも来ていない。

 その代わり、部屋の奥に清雅がいた。


 驚くことに、彼はすでに机に向かっていた。

 どうやら昨夜のうちに片づかなかった書付をそのまま見ているらしい。羽織は脱ぎ、着物の袖を少しだけ捲っている。整った姿であることに変わりはないが、こういう“まだ人に見せぬ朝の顔”を見てしまうと、ほんの少しだけ距離が近づいたように感じてしまう。


 志乃の足音に気づくと、清雅は顔を上げた。


「早いですね」


「そちらこそ」


「待っていた、と言えばどうしますか」


「信じません」


「でしょうね」


 相変わらずだ。

 だが今朝の志乃には、言い返している余裕があまりなかった。


 志乃は懐から小さく畳んだ紙を取り出し、机の上へ置いた。


「見つけました」


 清雅の目が、その一瞬だけ鋭くなる。


「……これですか」


「はい。祝言の日の包み紙の裏です」


 清雅はすぐに手を伸ばさなかった。

 先に、志乃の顔を見る。

 まるで、本当にそこまで辿り着いたのかを確かめるように。


「自分で見つけたのですね」


「そう言ったでしょう」


 少しだけむっとして返すと、清雅はようやく紙を手に取った。

 灯へかざし、角度を変え、指先で印の位置を確かめる。


「ええ。同じ筋ですね」


 即答だった。


 同じ筋。

 その言葉で、昨日の推測が一段現実味を増す。


「じゃあ、この包み紙も」


「少なくとも、ただ婚家から直接持ち込まれたものではない」


「途中で別の手を通った」


「ええ」


 清雅は紙を丁寧に机へ戻した。


「これで、祝言の日の品の一部が、最近の差し替え文書と同じ流れに乗っていたことになります」


「……」


「つまり、おまえの件はやはり、単独の破談ではない」


 分かっていたことなのに、こうして言葉にされるとやはり胸の奥が重くなる。

 祝言の日の自分は、あの日だけ急に不幸にされたのではない。

 もっと前から、もっと別のところで、自分の名が動かされていた。


「若君様」


 不意に藤三郎が部屋へ入ってきた。

 この時間にしては少し息が速い。


「お早うございます」


「何ですか」


「昨夜お話に出た件、ひとつだけ輪郭が出ました」


 その言い方で、志乃にも分かった。

 “代わりに入りかけた娘”のことだ。


 清雅は視線だけで続きを促す。


「婚家へ近づいた家筋ですが、どうやら北町奉行配下の与力筋に縁のある家の娘でございます」


「与力筋」


「はい。町方とも武家方とも半歩つながる位置」


 なるほどと、清雅が小さく呟く。


 志乃には、その意味がまだ十分に呑み込めない。

 だが少なくとも、その娘は婚家と無縁の遠い家の娘ではない。

 縁談へ差し込まれても不思議のない、ちょうどよい位置にいたことになる。


「名は」


 清雅が問う。


「まだ、はっきりとは。ただ、年頃十七、次女、母方から持参の話が急に立ったと」


 藤三郎はそこで、志乃の存在に気づいているのに、わざとそれ以上を言わないように見えた。

 清雅も少しだけ考え、それから言う。


「分かりました。下がってよい」


 藤三郎が去ったあと、部屋にはしばらく雨音だけが残った。


 次女。

 年頃十七。

 母方から持参の話が急に立った。


 それだけでも、胸の内がざわつく。

 誰か、いるのだ。

 自分の代わりにそこへ入るはずだったかもしれない娘が、ただの紙の上ではなく、生身の人として。


「……その娘ですね」


 志乃が言うと、清雅は頷いた。


「可能性は高い」


「会ったことがあるんでしょうか、わたし」


「どうでしょう」


 曖昧な返事だった。

 けれど、今はその曖昧さが前ほど腹立たしくない。まだ札が足りないという意味だと、ようやく理解できるからだ。


「その人が、自分で」


 そこまで言って、言葉が詰まる。


「自分で、わたしのところへ入ろうとしたんでしょうか」


 清雅はすぐには答えなかった。

 代わりに、昨夜の朱印のある包み紙をもう一度見たあと、静かに言う。


「おそらく、それだけではありません」


「……」


「急に持参の話が立つ娘というのは、大抵、本人より周りが動いています」


「母親、とか」


「ええ。あるいは叔母、後見、乳母筋、女房筋」


 お瑞やお里の言葉が思い出される。

 女の名を運ぶ女たち。

 女が、女の名を差し込む流れ。


「その娘自身が自分で奪いに来た、とは限らない」


「でも、嬉しかったかもしれない」


 気づけばそう言っていた。


「自分より格のいい婚家に入れるなら、嬉しいかもしれないでしょう」


 言ってから、胸が少し痛んだ。

 自分でも、嫌な言い方だと思う。

 けれど、本音だった。


 もし自分が別の家の娘で、家の都合で急に話が良い方へ転がったら。

 戸惑いながらも、喜んだかもしれない。

 その可能性を考えるからこそ、余計に苦しい。


 清雅は志乃を見た。


「それもありえます」


「……」


「ですが、喜んだことと、奪ったことは同じではない」


 その言葉は、優しいのではなく、正確だった。


「その娘もまた、どこか別の縁から押し出されているかもしれません」


 志乃は目を伏せた。


 そうだ。

 差し替えられる娘がいるなら、その娘自身もまた、別の場所で差し替えられている可能性がある。

 名門へ近づける代わりに、何か別の人生を勝手に剥がされているのかもしれない。


 そう考えると、単純には憎めない。

 憎めないのに、自分の位置に近づいたかもしれない娘だと思うと、胸の内のざらつきは消えない。


「……嫌です」


 小さく言う。


「ええ」


「その人を、可哀そうだと思いたくない」


「思わなくて結構です」


 清雅は即座に言った。


「今はまだ」


 その“今はまだ”に、少し救われる。


 すぐに許せとも、すぐに理解しろとも言わない。

 感情の順番を急がせないところだけは、この人の良いところかもしれないと思う。悔しいが。


「ただ」


 清雅は低く続けた。


「敵がどこにいるかを間違えたくないのでしょう」


 図星だった。

 志乃は小さく頷く。


「はい」


「なら、その娘の顔を見る前に、その娘をそこへ押し上げた流れを見た方がいい」


「……顔を見る前に」


「ええ。顔を見れば、人はどうしてもそこへ心を持っていかれる」


 たしかにそうだ。

 相手が泣いていれば、揺らぐかもしれない。

 傲っていれば、怒りに飛びつくかもしれない。

 どちらにしても、“本当に怒るべき手”から視線が逸れる。


 清雅は机の端に置かれた系図の写しを指で叩いた。


「まずは位置です」


「位置」


「その娘が、どの家から、どの手で押し出され、なぜ婚家へ近づいたのか」


「……はい」


「そこが見えれば、その娘自身へ向けるべき感情も、少しは定まります」


 志乃はしばらく考え込んだ。

 やがて、ゆっくり息を吐く。


「じゃあ、名はまだ聞きません」


 その言葉に、清雅はほんの少しだけ口元を緩めた。


「賢明です」


「褒められてる気がしません」


「褒めています」


「だったらもっと分かりやすく」


「欲張りですね」


 そう返されて、志乃は少しだけむっとした。

 だが、そのやり取りのおかげで胸のざらつきが少し和らぐのも、また腹立たしい。


 そのとき、部屋の外で足音が止まった。

 菊江だった。


「若君様」


「何ですか」


「奥より、女房筋の控えが一通」


 そう言って差し出されたのは、折りの浅い、柔らかな文だ。

 いかにも奥向きから回ってきた紙だった。


 清雅はそれを受け取ると、さっと目を走らせる。

 そして一拍だけ、表情を消した。


「……なるほど」


「何ですか」


 志乃が問うと、清雅は紙を畳んだ。


「その娘の母方に、後家の叔母筋がいるそうです」


 志乃の胸が、どくりと鳴る。


「後家」


「ええ。しかも、近ごろいくつかの縁談に口を出していると噂の」


 お瑞の言っていた、奥向きの流れ。

 後家、叔母、女房筋。

 紙の上ではまだ名が出ないまま、だんだん輪郭だけが集まってくる。


「……やっぱり、女の手が」


「入っていますね」


 清雅は淡々と言った。


「少なくとも、この娘一人の意思ではない」


 それで、少しだけ息がつけた気がした。

 自分の代わりに入りかけた娘の存在は痛い。けれど、やはり憎む相手はそこだけではない。


 志乃は机の上の包み紙を見つめた。


 自分の祝言の日に残った、小さな朱印。

 そこから辿れば、紙の筋だけでなく、人の筋にも触れられるかもしれない。

 そして今、そこに“後家の叔母筋”という輪郭が重なった。


「……会いたいです」


 思わず口にしていた。


「誰に」


「その娘に、じゃなくて」


 志乃は顔を上げる。


「その娘を押した女に」


 清雅は少しだけ目を細めた。


「今はまだ、早い」


「分かってます。でも」


「でも?」


「わたしの名前を消したのが、もしそういう女たちなら」


 そこで言葉が切れる。

 怒りと、悔しさと、言葉になりきらない何かが喉に詰まった。


 清雅は、少しだけ間を置いてから言った。


「会う日はいずれ来ます」


「……」


「そのとき、おまえが感情だけで向かわぬよう、今は札を揃えるのです」


 札。

 またその言葉だ。

 けれど今は、その冷たさがありがたくもある。


「……分かりました」


「ええ」


「でも、覚えておいてください」


 志乃はまっすぐに言った。


「わたし、その娘のことも、その娘を押した女のことも、どっちも忘れません」


 その言葉に、清雅はゆっくり頷いた。


「それでよい」


 部屋の外では、雨がまだ静かに続いていた。

 志乃は、自分の怒りがまた少し形を変えたのを感じていた。


 代わりに入りかけた娘。

 その娘を押した、後家の叔母筋。

 祝言の日の朱印。

 差し替えられる名。


 まだ名は分からない。

 けれど、相手はもう“誰か分からないままの闇”ではなくなりつつあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ