第20話 奥向きの手
雨は、昼過ぎにはようやく細くなった。
障子を打つ音が遠のき、代わりに庭の木々から雫が落ちる音だけが残る。榊原家の屋敷は、濡れたあとの方がかえって輪郭をはっきり見せるようだった。庭石の色、飛び石の並び、廊下の柱の艶。すべてが整いすぎていて、時折、ここが人の住むところではなく、何かの意志で形を保っている箱のように思えることがある。
志乃は書付部屋の机に向かいながら、朝の話を何度も思い返していた。
代わりに入りかけた娘。
その娘の母方。
後家の叔母筋。
近ごろ幾つかの縁談へ口を出している女。
まだ名前はない。
だが、輪郭はもう十分に不気味だった。
そして不気味なのは、その女が“目立って悪辣な者”としてではなく、よくある女の顔でその流れへ入り込んでいることだった。後家、叔母、母方の口添え。どれも表向きには珍しくもない。むしろ、縁談というものに付きものの存在だ。だからこそ、紙の上へ名前が残りにくい。
筆を持つ手が、少しだけ重い。
「進みませんか」
低い声に、顔を上げる。
藤三郎だった。
「少し」
「今日は皆、似たようなものです」
「皆?」
「雨の日は、紙も人も余計な湿りを帯びますから」
そう言って藤三郎は、いつものように感情を見せぬ顔のまま、一通の控えを机へ置いた。
「こちらを、先に」
女房筋から回ったものらしい。
折りが浅く、香がほのかに移っている。だが、その甘い香と反対に、文の中身はひどく乾いていた。
ある家の娘について、
“先方よりご気分よろしくなく”
“当家としても押して立てぬ旨”
“代わりに年頃近き親類筋の娘の名を出す余地あり”
と、柔らかく書いてある。
志乃は文を追って、すぐに分かった。
「これ、先に“代わり”が決まってる」
藤三郎が目だけで続きを促す。
「先方が気乗りしないから別を出す、って形を取ってるけど、本当は違う。最初から“もしこちらが駄目なら次はこちら”って、内で話が済んでる」
「どこでそう見ますか」
「この“余地あり”の言い方です」
志乃はその行を指した。
「余地なんて、今ここで初めて浮かんだなら、もっと控えめになる。でもこれは違う。もう何度か口でやり取りしたあとの文です。紙の上では初めてでも、人の頭の中では二度目か三度目です」
藤三郎が小さく頷く。
「……やはり、そう見えますか」
「え?」
「この控え、元は表へ出さぬつもりだったものです」
藤三郎の声が、いつもより少しだけ低くなる。
「若君様が見せるようにと」
そうか、と思う。
これはただの仕事ではない。
清雅は意図的に、志乃へ“代わりの娘を押し出す文の筋”を見せている。
そう思ったとき、部屋の外からまた女の衣擦れが近づいてきた。
お瑞だった。
今日の彼女は淡い藍の着物に、きっちり結い上げた髪。顔つきはいつもと同じ穏やかさなのに、その穏やかさの裏にある緊張が少し濃い。
「志乃さま、少しよろしいかしら」
“少し”で済まぬ顔だと思う。
だが断れるはずもない。
案内されたのは、昨日のお里と会った部屋ではなく、さらに小さな控えの間だった。
そこには誰もいない。けれど、いないこと自体が妙に重い。
「お話があるのです」
お瑞が座るなり言った。
「何でしょう」
「今朝、若君様から聞かれましたでしょう。後家の叔母筋の話を」
志乃は息を潜めた。
「はい」
「名はまだ伏せるようにとのことでしたが、せめてどういう流れの女かだけは、知っておいた方がよろしいかと」
「……その人、そんなに」
「厄介です」
きっぱりと言い切られ、逆に心が冷える。
「厄介?」
「悪目立ちする女ではございません。そこが厄介です」
お瑞は志乃の目をまっすぐ見た。
「いつも表へは出ず、誰かの“相談役”の顔をする。後家で、子もなく、だからこそ親類の娘たちへやたらと世話を焼く。表から見れば、気が利いて、よく見て、身の置き方を知った女」
その言い方だけで、志乃の背筋がひやりとする。
善意と悪意の境が曖昧な顔だ。
誰も最初からは疑わない。
「けれど、その女が口を出した縁は、妙に“綺麗に収まる”」
綺麗に収まる。
志乃はその表現に、思わず顔をしかめた。
「収まったように見えるだけで、後から誰かが泣いているのでは」
「ええ。そうでしょうね」
お瑞は淡々と答える。
「ですが、外から見れば“揉めずに収まった”ようにしか見えません。そこが肝なのです」
志乃は膝の上で手を握った。
祝言の日の書付。
理由の曖昧な差し控え。
途中から手の入った縁談書。
そして古い離縁状。
どれもみな、“綺麗に収める”ための文だった。
その後家の女は、文を書いているのではないかもしれない。
だが“どう収めるか”を決める側にいる。
「その人は、男の方とも通じているんですか」
「通じておりますとも」
お瑞は少しだけ疲れたように言った。
「後家であれば、気軽に出入りもできる。親類の家へ顔を出し、叔母として娘の相談に乗り、時には表の者へも“女房方の気持ち”として話を通す」
つまり、奥向きと外向きを繋ぐ蝶番のような存在なのだ。
女の顔で入り、家の都合で動き、表向きは善意の助言に見せかける。
「……その人が、わたしの婚家へも」
お瑞は少しだけ間を置いた。
「可能性はございます」
「だけど、まだ断じられない」
「そうです」
またそこへ戻る。
札が足りない。
でも、札はもうかなり揃いつつある。
お瑞は机の上へ、小さな紙片を置いた。
それは文そのものではなく、どうやら口伝えの覚えのようだった。家名は伏せられ、関係だけが簡潔に書かれている。
某家後家叔母
娘二人の縁を差配
近ごろ与力筋へも口あり
町方より文筋を拾う女あり
最後の一行で、志乃は目を見開いた。
「町方より文筋を拾う女」
頭巾の女だ。
「はい」
お瑞が頷く。
「全部が同じ手で動いているわけではないでしょう。でも、少なくともこの後家の周りに、町で文を拾い、家と家のあいだを柔らかく繋ぐ女がいた」
つまり、頭巾の女は偶然そこにいたのではない。
後家の女の、少なくとも近くにいた。
だとすれば、祝言の日の朱印も、そこへ繋がる可能性がますます高い。
志乃は紙片を見つめながら、小さく言った。
「女の手って、こういうことなんですね」
「ええ」
「怒鳴ったり、奪い取ったりするんじゃない」
「ええ」
「相談役みたいな顔で、綺麗に収める」
お瑞は静かに頷いた。
「だから厄介なのです」
部屋の空気がひどく重くなる。
もしその後家の女が本当に祝言白紙に関わっていたのなら、婚家も、使いも、たぶん全部が駒の一つにすぎなかったのかもしれない。
もっと前から、女の名をどう並べ替えるかが決まっていて、文はそれを波立てぬよう整えるためだけに使われた。
「……会ってみたい」
また思わず口に出ていた。
お瑞が少し目を細める。
「そのお顔で?」
志乃ははっとした。
きっと今の自分は、ひどく強張っている。
「わたし、そんな顔してますか」
「ええ。正面から行けば、相手はたちまち身構えましょう」
「……」
「それでは、相手の本当の癖が見えませぬ」
そうか。
紙の癖と同じだ。
見ようと思って見せられたものは、もう本当の癖ではない。
「では、どうすれば」
「まずは、その女がどの縁へ、どんな順で口を出しているかを見なさいませ」
お瑞は言った。
「一つだけでは見えぬものも、三つ四つ並べれば癖が出ます」
それはまるで、祝言の日の書付と、離縁状と、差し控え文を並べて“同じ筋”を見たのと同じ理屈だった。
志乃はゆっくり頷く。
「……分かりました」
「感情だけでぶつかるのは、最後で結構」
「最後」
「ええ。そこまでは、見て、溜めて、確かめるのです」
その言葉は冷たいのに、志乃にはしっくり来た。
今、自分に必要なのはたぶんそれだ。
怒りをすぐぶつけることではなく、ぶつけるに足るだけの形へ整えること。
部屋を出るとき、お瑞が最後に言った。
「若君様も、その女を簡単には表へ引きずり出せぬのでしょう」
志乃は足を止める。
「どうして」
「後家の女は、男のように正面から責め立てれば崩れるとは限りません。むしろ、被害者の顔をする方がうまい」
志乃は何も言えなかった。
その恐ろしさは、もうよく分かる。
書付部屋へ戻ると、清雅は部屋の端で藤三郎と低く話していた。
志乃に気づくと、すぐ会話を切り上げてこちらへ来る。
「お瑞から何を聞きましたか」
単刀直入すぎる。
だが、今はもうそういう人だと分かっている。
「後家の叔母筋のこと」
「ええ」
「その人、悪目立ちしないんですね」
清雅は一瞬だけ目を細めた。
「そうですね」
「だから余計に厄介」
「ええ」
「それに、頭巾の女もその近くにいた」
「はい」
そこまで答えてから、清雅は志乃の顔を少し覗き込むように見た。
「よく飲み込みましたね」
「嫌な褒め方」
「褒めています」
志乃は少しだけ息をつく。
「……わたし、会いに行くのはまだ早いんでしょう」
「ええ」
「分かってます」
「ええ」
「でも、どこまで我慢すればいいんですか」
その言葉は、思っていたより低く出た。
怒りを押さえすぎたせいかもしれない。
清雅は少しだけ考えるように間を置く。
「おまえが、その女を前にしたとき」
「はい」
「“この人だ”と感じるだけではなく、“なぜこの順で人の名を動かしたのか”まで見えるようになったときです」
志乃は黙った。
「そのときなら、感情だけで噛みつかずに済む」
「……そんなふうになれるんでしょうか」
清雅は静かに答えた。
「おまえなら」
その言い方が、いつもよりも少しだけ真っ直ぐで、妙に胸へ響く。
必要だとか、役に立つとか、そういう言葉ではなく、“おまえなら”と言われると、志乃はそれに弱いのだと、最近ようやく自覚し始めていた。
「……ずるい」
小さく言うと、清雅は少し笑った。
「知っています」
「またそれ」
「だって本当でしょう」
悔しい。
でもその一言で、少しだけ肩の力が抜ける。
志乃は机の上の控えへ目をやった。
女の手。
後家の叔母筋。
町方から文を拾う女。
差し替えられる名。
怒るべき相手は、少しずつ形を持ち始めている。
だからこそ、今はまだ、文のように丁寧に読むしかない。
「清雅さま」
気づけば、また名を呼んでいた。
最近、それが自然になってきていることに、自分で少し驚く。
「何ですか」
「次、見せてください」
「何を」
「その後家の女が、どの縁へどう口を出したか」
清雅はまっすぐ志乃を見た。
「ええ。明日、札を一枚増やします」
「一枚、ですか」
「一度に増やしすぎると散らばるでしょう」
また札だ。
でも今は、その札が必要だと分かる。
「……分かりました」
そう答えると、清雅はほんの少しだけ満足そうに頷いた。
志乃は机へ戻った。
紙を広げる。
筆を持つ。
女の名を綺麗に消すための文を読む。
もう、ただ怒っているだけではない。
どう読めば、どの手が動き、どこへ怒りを向けるべきか。そこまで見ようとしている。
榊原家という檻の中で、志乃の目は、紙だけでなく女たちの流れへも少しずつ慣れ始めていた。




