第21話 若君の過去の縁
次の日は、久しぶりに朝から晴れた。
雨のあとらしく空は高く、庭木の葉にはまだ細かな雫が残っている。書付部屋の障子も広めに開けられ、光が机の端まできれいに届いていた。紙の白がはっきり見える日の方が、志乃は好きだった。嘘を見つけるには、光は多いに越したことがない。
だが、その日の朝の志乃は、紙の白さよりも別のことを気にしていた。
昨日、お瑞から聞いた後家の叔母筋。
頭巾の女。
奥向きの手。
そして、清雅が言った“明日、札を一枚増やします”という言葉。
何を見せるつもりなのか。
どこまで見せるつもりなのか。
それを考えるたび、胸のどこかが妙に落ち着かなかった。
朝の仕事に取りかかってほどなく、菊江が来た。
「若君様がお呼びです」
「今ですか」
「はい。書付部屋ではなく、庭向こうの離れへ」
離れ。
それだけで、いつもより少し私的な場なのだと分かる。
志乃は筆を置き、紙を押さえてから立ち上がった。
書付部屋の中では、誰もあからさまには見なかった。見なかったが、気配は動いた。若君に呼ばれる。離れへ。そういう事実だけで、屋敷の中では十分にひとつの文のような意味を持つ。
離れは、主屋からは少し離れているが、完全に奥のものでもない半端な位置にあった。
庭を挟み、風が通り、花を置く棚があって、どこか気を抜けそうな造りになっている。だが、こういう“気を抜けそうな場所”ほど、実際には気を抜いてはならぬのだと、榊原家へ来てからの志乃は知っていた。
案内された小間には、清雅がひとりいた。
今日は文箱も帳面も広げていない。
代わりに、薄い茶と菓子が一揃い用意されている。いかにも人を落ち着かせるための顔をしていて、だからこそ余計に落ち着かない。
「お呼び立てしてすみません」
清雅が言う。
「本当にそう思ってますか」
「半分くらいは」
「半分しか」
志乃が座ると、清雅は少しだけ目を細めた。
「今日は文ではありません」
「またそうやって構えさせる」
「構えますか」
「構えます」
「それは結構」
相変わらず腹立たしい。
でも、このやり取りがあると、自分の方も少し平常へ戻れるのが悔しい。
清雅はしばらく志乃を見ていたが、やがて低く言った。
「昨日、後家の叔母筋の話を聞いたでしょう」
「はい」
「それで、おまえは“そういう女”に会ってみたいと思った」
「……はい」
「ですが、会えばすぐに見抜ける相手ではありません」
「分かってます」
「ええ。だから今日は、その前に一つ、私の話をしておこうと思いまして」
志乃は思わず瞬きをした。
「あなたの?」
「ええ」
珍しい。
いや、初めてかもしれない。
清雅はいつも、人の話は拾い、人の心は読むくせに、自分のことはほとんど語らない。家康公以来の名門の分家筋だということも、家の厄介事を片づける立場にあることも、志乃は断片でしか知らない。
「何ですか、急に」
「急ではありません」
「十分急です」
「おまえが、少しばかり私の言うことを聞きすぎるようになったので」
「聞いてません」
「聞いていますよ」
「聞かされてるんです」
「そうとも言います」
その返しに眉を寄せたまま、志乃は黙った。
清雅は少しだけ笑ってから、外の庭へ目をやる。
「私は、一度だけ、縁談の場へほとんど座らされかけたことがあります」
志乃は、息を止めた。
思っていた“自分の話”とは違った。もっと家の役目や、文の流れのことかと思っていた。
だが出てきたのは、縁談という言葉だ。
「……ほとんど?」
「ええ。表向きは、まだ話があるかないかのうちでしたが、内ではもうかなり進んでいた」
清雅の声音はいつも通り静かだ。
だが、静かなぶんだけ、逆にその話が軽くないと分かる。
「おまえが見ている差し控えや差し替えと、似たようなものです。相手の家格、こちらの分家としての立場、本家との兼ね合い、将来の役目。そういうものが先に並び、私本人の考えは最後でした」
それはつまり、志乃が最近見続けている“女の名の差し替え”と、根は同じだということだ。
違うのは、そこに載る名が男か女かだけ。
「嫌じゃなかったんですか」
気づけば、そう訊いていた。
「嫌でしたよ」
あまりにあっさり言われて、志乃は少し驚いた。
「……そういう顔します?」
「どういう顔でしょう」
「もっと、平然としてるのかと」
「平然としていたつもりですが」
志乃は思わず小さく息を吐く。
たしかに、この人ならそうだろう。内心で何を思っていても、表では整えてしまう。
「結局、その話は潰れました」
清雅は淡々と続けた。
「潰れた、というより、別のところへ流れたと言うべきでしょうね。本家筋の都合で、もっと“よい置き場所”が見つかった」
よい置き場所。
その言葉に、志乃は胸の奥がちくりとした。
「物みたい」
「ええ」
清雅は少しだけ目を伏せた。
「人の縁を動かすとき、そういう扱いになることがあります。男でも、女でも」
風がひと筋、離れの中へ通った。
外では葉が少し揺れている。なのに部屋の中だけは妙に静かで、清雅の声だけがよく響いた。
「そのとき、私は初めて、表で交わされる文より先に、人の頭の中で縁が決まっているのだと知りました」
志乃は何も言わなかった。
言えなかった。
今の話は、自分の痛みと重なりすぎたからだ。
誰かに“よい置き場所”を見つけられる。
本人の心より先に、家格と立場で位置を決められる。
それが嫌だったのなら、この人は確かに、ただの観察者ではない。
少なくとも一度は、そういう理不尽の中へ自分の身を置かれた側だ。
「だから、おまえの祝言の件に目が留まった」
清雅は、志乃の心を読んだように言った。
「最初は、文の筋が妙だったからです。ですが、それだけではありません」
「……」
「見たことのある“消され方”だった」
その一言に、志乃の胸が静かに締めつけられた。
やはり、この人はただの好奇心や仕事の都合だけで動いていたのではない。
自分が知っている形の理不尽と、志乃の祝言白紙が重なったのだ。
「そのときの相手の方は」
志乃はためらいながら訊いた。
「どうなったんですか」
「嫁ぎましたよ」
清雅は外を見たまま答えた。
「私ではない相手のところへ。おそらく、それなりに整った家へ」
「……」
「その方が幸せだったのか、不幸せだったのかは知りません」
そこに含まれるものが、妙に重かった。
清雅はその女を責めてはいない。
だが、責めぬかわりに、“そういうふうに人の縁は流されていく”ことを痛みとして記憶しているのだ。
「だから、おまえにも言っている」
清雅がようやくこちらを見た。
「代わりに入りかけた娘を、単純な敵にするなと」
志乃はゆっくり息を吐いた。
「自分の痛みがあるから、そう言うんですか」
「ええ。少しは」
「少しは、って」
「全部ではありません」
やはりそこは引く。
でも、前よりずっと多くを言っている。
「……あなたも」
志乃は言葉を探した。
「怒ったんですか」
清雅は一拍だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ口元を歪める。
「ええ。かなり」
その顔は、笑みにも見えるし、苦い記憶が浮いた顔にも見えた。
志乃は初めて、この人の中にあるものが“静かで整ったものだけではない”と、はっきり感じた。
怒った。
かなり。
なのに今、こうして穏やかな顔で札を並べ、人の縁の流れを見ている。
それは怒りが消えたのではなく、もっと別の形に収まっているからなのだろう。
「……じゃあ」
志乃は膝の上の手を少し握る。
「わたしにだけ、感情で動くなって言ってるんじゃないんですね」
「当然です」
「自分もそうだったから」
「ええ」
そこまで言われると、腹の立ちようが少し変わる。
説教ではなく、経験から言われているのだと分かるからだ。
「でも、全部それで説明しないでください」
気づけば、少し拗ねたような言い方になっていた。
「全部?」
「わたしの件に関わる理由を、それだけみたいに言わないでってことです」
言ってから、自分で何を言っているのだろうと思う。
だがもう止められない。
「……それだけではないのでしょう」
離れの中が、一瞬しんと静まった。
清雅はすぐには答えなかった。
ただ志乃を見ている。まっすぐに。逃がさぬようにではなく、返す言葉を選ぶような目だった。
「そうですね」
やがて、低く言う。
「それだけではありません」
志乃は息を止めた。
「おまえが、思ったよりずっと、自分の目で見ようとするからです」
それは、想像していたよりずっと真っ直ぐな答えだった。
「傷ついた女は、ときに簡単な敵へ飛びつく。だが、おまえはそうしなかった」
「……最初は、しそうでした」
「ええ。ですが、止まった」
清雅はほんの少しだけ、やわらかい顔をした。
「その止まり方をする者は、あまり多くありません」
志乃は何も言えない。
そんなふうに言われると、嬉しいのか苦しいのか、自分でも分からなくなる。
「だから、見せている」
「何を」
「札も、筋も、私の過去も」
その言い方に、胸の奥がじわりと熱くなる。
この人は、自分のことを語るのがうまいわけではない。
むしろかなり下手だ。必要なところだけ切って出すから、聞く側が自分で繋がねばならない。
でも、それでも今、少しは見せてくれたのだ。
「……ずるい人」
小さく言うと、清雅は笑った。
「おまえには、よくそう言われます」
「そのたびに否定しないし」
「自覚がありますから」
志乃はふっと息を抜いた。
少しだけ、離れの空気が軽くなる。
けれど、それも束の間だった。
清雅は机の端に置かれた小さな包みを志乃の前へ寄せた。
「今日は、もう一つ」
「まだあるんですか」
「ええ」
「話すだけで終わらせてくれないんですね」
「終わらせません」
包みを開くと、中から出てきたのは古びた扇子の親骨に括られていたらしい小札だった。
女の持ち物に付く、持ち主を取り違えぬための札だろう。だが名は削られ、代わりに家の印だけがかすかに残っている。
「これを、どうしろと」
「その家印、見覚えは」
志乃はじっと見つめた。
はっきりとは分からない。けれど、先日見た系図の写しの端に、似た崩し印があった気がする。
「……与力筋の家」
「ええ」
「じゃあ、その娘の」
「持ち物だった可能性があります」
志乃は小札を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
ついに、紙の向こうにいた“代わりに入りかけた娘”が、持ち物を持つ生身の娘として近づいてきた気がした。
扇子を使い、札を付け、どこかの家で暮らしている。
年頃十七の、名前のある娘。
その事実が、妙にこたえる。
「……会ったこと、あるのかな」
ぽつりと漏れる。
「どうでしょう」
「あなた、そういうときだけ曖昧」
「確かでないことは申しません」
相変わらずだ。
でも今は、その曖昧さも必要なのだと分かる。
志乃は小札を机へそっと置いた。
「この人もまた、名を動かされる側かもしれない」
「ええ」
「でも、だからって、わたしの場所に近づいたことが消えるわけじゃない」
「ええ」
「……難しいです」
清雅は静かに頷いた。
「そうでしょうね」
「簡単に憎めないのも、簡単に許せないのも」
「ええ」
「全部、嫌です」
「それで結構」
またそう言う。
でも今は、その“それで結構”に少しだけ救われる。
感情が綺麗に割り切れないことを、無理に恥じなくていいのだと分かるからだ。
しばらく、二人で小札を見ていた。
やがて清雅が言う。
「次は、その後家の女が、この娘へどう手を伸ばしたかを見ましょう」
「……はい」
「そこまで行けば、祝言白紙の筋ももっと近づきます」
志乃は頷いた。
怒りも、悔しさも、やるせなさも消えない。
けれど少なくとも今、自分はただ傷の中にいるだけではない。
紙を読み、人の筋を追い、名の動き方を見ている。
それはたぶん、奪われた側が、自分の名を取り戻すために必要な時間なのだ。




