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『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第22話 祝言の紙片に残った印

 その晩、志乃は誰にも声をかけず、自室へ戻るなり文箱を引き寄せた。


 今日、清雅に見せられた小札。

 与力筋の家の持ち物かもしれぬ、年頃の娘の扇子札。

 そして、その娘の背後にいるかもしれぬ後家の叔母筋。


 どれもまだ名前を持たぬ輪郭に過ぎない。

 だが、その輪郭が生身の女の持ち物まで帯び始めた今、志乃はもう、祝言の日の残り物をただの思い出として抱えてはいられなかった。


 火を近くへ寄せる。

 文机の上へ布を敷き、その上へ、ひとつずつ紙を並べていく。


 祝言の日の書付。

 婚家から来た包み紙。

 そのとき使われた懐紙の切れ端。

 飾り紐に挟まっていた小さな控え札めいた紙。

 そして、母が片づける前に袖へ入れてしまっていた、紅を包んでいた薄紙まで。


 どれも、他人から見れば取るに足らぬ屑だろう。

 けれど志乃にとっては違う。これらは、あの日の自分が本当にそこにいた証であり、同時に、理由を奪われた日から唯一手元に残った“流れの痕”だった。


 志乃はまず、紙の質を分けた。

 婚家由来のもの。

 こちらの家で使ったもの。

 そして、どちらとも断じきれぬもの。


 次に折り方を見る。

 母の手か、婚家の女中の手か、それとももっと別の、事務的な手か。

 このところずっと文の向こうを見てきたせいか、前には気づけなかった細かさが、今は少しずつ目へ入る。


「……これ」


 最初に違和感を覚えたのは、懐紙ではなく、薄い控え札のような紙だった。


 紙質は安い。

 けれど、ただの荷札にしては折り目がきれいすぎる。

 しかも隅に、小さな朱がある。


 前に見つけた包み紙の裏の印より、さらに薄い。

 ほとんど紙の繊維へ沈みかけているような、消える寸前の印だ。


 志乃は息を止めて、その紙を灯へかざした。


 朱の位置。

 紙の隅から指一本ぶん内側。

 しかも、ただ丸く押しているのではない。ごく小さく、一度引いてから置いたような、半月にも見える崩し方だ。


 どこかで見た。

 いや、今日だけではない。

 最初に見たのは、たしか――


 志乃は記憶を辿る。


 口入屋で見せられた、途中から別の手が入っていた書状。

 そのときの文そのものにはなかった。

 だが、お袖が文箱へ戻す前に脇へ置いた整理札に、よく似た朱があった気がする。


 そのあと、清雅が見せた控え札。

 与力筋の娘の持ち物らしき小札。

 そして、今日までのあいだに書付部屋で通ってきた幾つかの内向きの控えにも、同じ位置の朱が、ごく控えめに残っていた。


「同じ」


 小さく呟いた瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。


 文の癖ではない。

 筆の癖でもない。

 紙を整理し、筋ごとに分け、どこかへ回すときにつける印の癖。

 つまり、書き手よりも“運び手”や“整え手の周辺”に近い習いだ。


 志乃は次に、祝言の日の書付そのものを広げた。

 文面はもう何度も見ている。

 問題は、文そのものではなく、紙の扱われ方だ。


 折り。

 端。

 袖に収められていた位置。


 そして今まで気づかなかったが、封を切られたあとの裏側の端に、ごく薄く朱が移っている。

 押された印そのものではない。

 どこか他の紙に押された朱が、重ね置きされたことで移ったようなかすかな滲み。


「重ねてた」


 つまりこの書付は、単独で置かれていたのではない。

 同じ印のついた何かと一緒に扱われ、重ねられ、分類されたあと、婚家からの“正式な通知”としてこちらへ渡された可能性がある。


 そのとき、控えめな足音が近づいた。


「志乃さま?」


 菊江の声だった。

 志乃はあわてて紙へ手をかけたが、もう遅い。障子の向こうに気配が止まっている。


「起きておいでですか」


「……はい」


「灯がまだ見えましたので」


 言い逃れはできそうにない。

 志乃は少しだけ紙をまとめ、障子を細く開けた。


 菊江は夜着の上に羽織を引っかけた姿で立っていた。眠る前だったのだろう。だがその目は眠そうではなく、きちんと起きている。


「何か」


「少し、見直していました」


「祝言の日のものを?」


 その問いに、志乃は一瞬言葉を失った。

 菊江は、まとめきれていない紙片をちらりと見ただけで、そこまで分かったのだ。


「……分かるんですね」


「この家の中で、若君様が動かれたあとに、一人で夜更けまで紙を広げる女がいれば、何を見ているかくらいは察しがつきます」


 そう言われれば、その通りだ。


 菊江は少し考えるようにしてから、小さく言った。


「お休みを勧めるべきなのでしょうけれど」


「けれど?」


「今は、見つかるときに見つけた方がよろしいこともあります」


 意外な言葉だった。

 菊江はもっと、規律や慎みを重んじる女だと思っていたからだ。


「……よろしいんですか」


「よろしいかどうかは存じません」


 いつものように、厳密で曖昧な答えだった。


「ただ、夜は余計な目が減ります」


 その一言に、志乃は少しだけ息をついた。

 それは協力でも、親しみでもない。

 けれど、この屋敷で生きてきた女としての、現実的な助けだった。


「ありがとうございます」


 志乃がそう言うと、菊江はわずかに首を振った。


「礼を申されるほどのことでは。……ただし、明日までには若君様へお見せなさいませ」


「分かっています」


「ほんとうに?」


「たぶん」


「そこは、はい、と言ってください」


 そう言って菊江は去った。

 厳しいのに、完全には冷たくない。

 この家の女たちは、敵と味方が簡単には分かれない。


 障子を閉めると、志乃はもう一度紙へ向き直った。


 菊江の言う通りだ。

 今夜のうちに見つけなければ、明日にはまた別の流れへ飲み込まれてしまう。


 志乃は包み紙と書付、それに控え札を灯の下へ並べた。

 位置を揃え、角度を変え、紙を少しずつずらして重ねる。


 そして、ついに見つけた。


 包み紙の裏の朱。

 控え札の隅の朱。

 書付の封裏に移ったかすれ。

 それらは、単に“似ている”のではなく、同じ置き方の印が、紙を重ねたことで移り合っていると考えた方が自然だった。


 つまり、祝言の日の書付は――


「……別の筋の文と、一緒に扱われてた」


 志乃は唇を引き結んだ。


 婚家がその場で出した書付ではない。

 もっと前に、どこかでまとめて整理されていた。

 そして、その整理の流れの中には、与力筋の娘や、差し替え候補の札と同じ朱印の筋が通っている。


 ここまでくれば、偶然では済まない。


 その夜、志乃はほとんど眠れなかった。

 眠るより先に朝が来た、と言った方が近い。


 まだ朝の早い刻限、志乃は紙をきちんと包み直し、誰よりも先に書付部屋ではなく清雅のところへ向かった。


 さすがにこの時間に離れへ行くのはどうかと思ったが、清雅はもう起きていた。

 いや、起きていたどころか、すでに何かの控えを見ているところだった。人というより、朝から動くために作られた静かな獣みたいだと、志乃は時折思う。


「そんな顔をして来るときは、大抵見つけたときですね」


 開口一番そう言われ、志乃はむっとする。


「人の顔で遊ばないでください」


「遊んでいません」


「絶対に少しは遊んでます」


「否定はいたしません」


 そこは否定しないのか、と言い返したくなる。

 だが今はそれどころではなかった。


 志乃は包みを開き、紙を机へ広げた。


「見てください」


 清雅の目がすぐに細くなる。


「……これは」


「祝言の日の書付、包み紙、控え札」


「ええ」


「同じ印の筋で、重ねられてます」


 志乃は自分で見つけた順に説明した。

 朱の位置。

 薄い移り。

 単独の印ではなく、整理された紙が重ねられた痕であること。

 そして、その重なり方が、昨日見た与力筋の娘の小札の印と同じ流れにあること。


 清雅は一言も挟まず、最後まで聞いた。

 その聞き方が真剣すぎて、志乃は途中で少しだけ喉が渇いた。


「……つまり」


 説明を終えると、清雅が低く言った。


「祝言の日の書付は、それ単体の文としてではなく、“別の縁談筋の札と一緒に”整理されていた可能性が高い」


「はい」


「差し替え候補の娘の筋と、同じ印が」


「はい」


「よく見つけましたね」


 その声が、いつもより少しだけ素直だった。

 志乃は胸の奥が少し熱くなるのを感じたが、表には出さぬようにした。


「だから言ったでしょう、今度はわたしの方から持っていくって」


「ええ」


 清雅はほんの少しだけ笑った。


「頼もしい」


 その言葉は嬉しい。

 けれど、今はそれ以上に、紙の上の事実の方が大きかった。


「これで、かなり近づきましたよね」


 志乃が言うと、清雅は紙へ目を落としたまま頷く。


「ええ。かなり」


「偶然じゃない」


「もう、その言い逃れは難しいでしょう」


 志乃は息を吐く。


 ついにここまで来た。

 祝言白紙は、本当に一連の“名の差し替え”の流れの中に組み込まれていた。

 まだ決定打ではない。

 けれど、偶然ではないと見てよいだけの筋は見えた。


「……悔しい」


 また、その言葉が零れる。

 けれど今度の悔しさは、ただ痛いだけではなかった。

 それに手が届きそうな悔しさだ。


 清雅がゆっくりと紙を重ね直す。


「次に見るべきは二つです」


「二つ?」


「この朱印の筋を辿ること」


「はい」


「それから」


 清雅は志乃を見た。


「おまえの婚家の周りで、あの時期に誰が急に出入りを増やしたか」


 その一言で、また新しい札が目の前に置かれた気がした。


 婚家の周りで出入りを増やした者。

 後家の叔母筋か。

 頭巾の女か。

 それとも、別の誰かか。


 でももう、追う相手はいる。

 追う筋も見えてきた。


「……分かりました」


 志乃は頷いた。


「次は、その人の出入りを見ます」


 清雅は小さく頷いた。

 その目は、満足しているようでいて、まだ油断していない。たぶんこの人は、札が一枚増えるたびに、同じだけ新しい危うさも見ているのだろう。


 志乃は紙を見つめた。


 祝言の日、花嫁衣装のまま帰された娘。

 今は、あの日の紙片に残った小さな印から、自分の名前がどこでどう消されたのかを追っている。


 白紙にされたわけではない。

 最初から、別の文と一緒に仕分けられていたのだ。


 そのことを知った今、もう後戻りはできない。

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