第23話 守られるだけでは終われない
その日一日、志乃の胸の内には、妙に落ち着いた熱があった。
祝言の日の書付。
包み紙の裏の朱。
控え札の隅に置かれた小さな印。
そして、それらが与力筋の娘の小札と同じ筋で重なっていたこと。
痛みは、まだ痛みのままだ。
けれど、痛みの正体が少しずつ形を持ちはじめると、人はただ嘆いているだけではいられなくなるらしい。
書付部屋の机に向かいながら、志乃は何度も思った。
ここまで来たなら、もう“巻き込まれた娘”の顔だけではいられない。
誰が、自分の名をどこで消したのか。
それを知るまでは。
朝のうち、藤三郎がいくつかの控えを運んできた。
その中には、婚家周辺の家筋へ最近回ったと見られる、表向きには何の変哲もない挨拶文も混じっている。
挨拶文。
けれど、ただの挨拶文がただの挨拶で終わらぬことを、志乃はもう知っていた。
「こちらも」
藤三郎が低く言う。
「婚家周りの筋です」
「ありがとうございます」
受け取った紙は、どれも穏やかだった。
季節の挨拶。
体調を気遣う文。
先般の折の礼。
しかし、その中に妙に短い紙が混じっている。二つ折りで、言葉数が少ない。
志乃はそれを開き、すぐに目を細めた。
「……この人」
「何か」
「同じ家へ、やけに短い間で二度文を入れてる」
藤三郎が机越しに覗き込む。
「親類なら珍しくもないのでは」
「親類なら、です」
志乃は紙を指先で揃えた。
「でも、一度目はごく形式的。二度目は“先般の件、まずは胸にお納めを”って形で、何かを口で済ませたあとの書き方になってる」
「つまり」
「出入りが増えてる」
志乃は婚家の家筋を頭の中で繋ぎ直した。
与力筋。
母方。
後家の叔母。
そして、最近になってやけに挨拶文が増えた女の名。
まだ実名は伏せられている。
だが、流れとしてはかなり近い。
藤三郎はしばらく考え、低く言った。
「若君様へ、すぐに」
「はい」
その返事が出るころには、もう迷いは薄かった。
以前なら、こうした控えが本当に意味を持つのか、自分の読みすぎではないかと一度は疑っただろう。
だが今は違う。
紙の上で何も言わぬまま動く女の筋というものが、本当にあるのだと知ってしまっている。
清雅のもとへ控えが運ばれたのは昼前だった。
だが今回は、清雅の方から書付部屋へ来た。
「こちらですか」
志乃が立ち上がると、清雅はすぐ机へ寄ってきた。
その顔はいつものように落ち着いているが、目だけが少し早い。急いでいるときの目だと、最近の志乃には分かるようになっていた。
「ここ」
志乃は短い文を二通並べる。
「どちらも同じ人の文です。でも、文意の運びが“用が済んだあとの確認”になってる。しかも時期が、祝言白紙の直前と重なります」
清雅は無言で読み、すぐに頷いた。
「ええ。これでかなり絞れる」
「後家の叔母筋ですね」
「おそらく」
その答えが早い。
つまり、向こうでもそれだけ材料が揃ってきているということだ。
「会えますか」
思わずそう訊いていた。
清雅は顔を上げる。
「今の段階で?」
「はい」
「まだ早い」
「でも」
「まだです」
きっぱり言われ、志乃は唇を引き結んだ。
「……いつもそうやって、少し手前で止める」
「止めるべきだからです」
「わたしを守るため?」
「それもあります」
「“それも”」
志乃はそこへ食いついた。
「じゃあ、それ以外もある」
清雅は少しだけ目を細めた。
わずかに、困ったようにも見える。
「あります」
「何ですか」
「おまえが今、あの女へ会えば」
声がひとつ低くなる。
「おまえは自分の怒りを、まだ使われる」
その言葉に、志乃は息を止めた。
使われる。
それは図星だった。
もし今、後家の叔母筋の女が目の前へ出てきたら、自分はたぶん冷静ではいられない。怒りと屈辱と悔しさを、そのまま握られてしまう。
「……分かってます」
「本当に?」
「分かってます」
そう言ったものの、声には少し棘が残った。
それを聞き取ったのか、清雅は短く息をつく。
「志乃殿」
「はい」
「おまえは、守られているだけでは足りないと思っている」
その言葉に、胸の内がきりりと締まる。
まさに、それを今朝から何度も考えていたからだ。
「……はい」
「ええ。そうだろうと思っていました」
「思ってたなら」
志乃は顔を上げた。
「どうして、まだ止めるんですか」
「止めているのではありません」
「じゃあ何ですか」
「追える形へ整えているのです」
その答えが、いかにも清雅らしかった。
腹が立つほど、筋は通っている。
でも今日の志乃は、それで引き下がる気になれなかった。
「わたし、守られるためだけにここへ来たんじゃありません」
気づけば、言葉はもう出ていた。
書付部屋の空気が一瞬だけ静まる。
藤三郎も、若い書役も、手を動かしながら耳をそばだてているのが分かる。
けれど今は、そんなことを気にしていられなかった。
「最初はそうだったかもしれない。危ないから、見えるから、囲っておいた方がいいって」
「志乃殿」
「でも今は違う」
志乃は机へ手を置いた。
「わたし、自分の名前がどこでどう消されたか、自分で見つけたいんです」
声が震えていないことに、自分で少し驚いた。
怒っている。
でも、その怒りは今、ようやく前へ向いている。
「あなたに守られて、少しずつ札だけ見せてもらって、それで満足するつもりはない」
清雅は黙って聞いていた。
その沈黙に、部屋の中の気配まで張りつめる。
「わたしは、わたしの祝言のことを、自分で追いたい」
そこまで言ってから、ようやく息を吐いた。
言った。
とうとう、言った。
長い沈黙のあと、清雅がゆっくり口を開く。
「……ようやく」
「え?」
「ようやく、そこまで来ましたか」
その言い方に、志乃は思わず眉を寄せた。
「何ですか、それ」
「待っていたのです」
「待ってた?」
「ええ。おまえが、自分でそう言うのを」
清雅はごく静かに言った。
「こちらがいくら札を並べても、おまえ自身が“守られるだけでは終われない”と言わなければ、次には進めません」
その言葉が、胸の奥へ落ちる。
最初から引っ張ってきた。
囲ってもきた。
守ってもいたのだろう。
でも同時に、この人は、どこかで志乃が自分の足でこちらへ踏み込むのを待っていたのだ。
「……ずるい」
小さく言うと、清雅はほんの少し笑った。
「ええ」
「そんな顔で認めないでください」
「本当ですから」
志乃は唇を尖らせた。
けれど、胸のどこかが少しだけ軽くなるのも感じた。
囲われているだけではない。
少なくともこの人は、最終的には自分で追う者として見ている。
それが分かったからだ。
「では、若君様」
藤三郎が低く口を挟んだ。
「今後は」
「志乃殿にも、次の札をそのまま見せます」
清雅はきっぱりと言った。
「ただし、順番はこちらで決める」
「またそれですか」
志乃が言うと、清雅は即座に返す。
「当然でしょう。放っておけば、おまえは一人で飛び込む」
「……」
「図星ですね」
悔しいが、否定できない。
書付部屋の中に、ほっとしたような、しかし面白がるような空気が一瞬だけ流れた。若い書役でさえ、今のやり取りには言葉を挟めないらしい。
清雅は先ほどの短い文を文箱へ入れながら、志乃に向き直った。
「では、一つ約束を」
「何ですか」
「次の相手を追うときは、必ず私へ先に見せること」
「また囲う」
「囲います」
「堂々と」
「今さらでしょう」
それには、さすがに志乃も返す言葉を失い、代わりに小さく息をついた。
だが、今はそれでもよかった。
少なくとも、守られるだけでは終われないと、自分の口で言えたのだから。
「……分かりました」
そう答えると、清雅の目が少しだけやわらいだ。
「ええ。それでよい」
その“それでよい”は、これまでのどの言葉より、志乃の胸へまっすぐに届いた。
ただ従っているのではない。
ただ囲われているのでもない。
自分の意志で追う。そのうえで、清雅の手を借りる。
ようやく、そういう位置へ立てた気がした。
昼過ぎ、書付部屋の仕事へ戻ってからも、志乃の中には不思議な落ち着きがあった。
やることは変わらない。
紙を読む。
文を比べる。
女の名がどう動いたかを追う。
でも、その一つ一つが、もう“若君の仕事の手伝い”だけではない。自分の名前を取り戻すための手になっている。
書付部屋の窓から見える庭は、もうすっかり晴れていた。
濡れた葉が光を返し、風が通るたびに細かな雫が落ちる。
その光景を横目で見ながら、志乃は新しく回ってきた控えを広げた。
守られるだけでは終われない。
そう口にした以上、ここからはもっと、自分の目で見るしかない。




