第24話 消された花嫁の名
夕刻が近づくにつれ、榊原家の屋敷はまた別の顔を見せはじめる。
昼間は整然として見える廊下も、夕暮れの光が斜めに差すころには、長い影を畳へ落とす。庭木の葉は黒く沈み、障子の桟だけが細く光る。
人の出入りは減るはずなのに、むしろその分だけ、どこで誰が息を潜めているのかが気になる時間だった。
志乃は書付部屋の机に向かいながら、胸の内にたしかな重みを感じていた。
もう、後には引けない。
朱の印の筋。
婚家周辺への出入りを増やした後家の叔母筋。
与力筋の家の娘。
差し替えられる縁。
そして、自分の名がどこかで“最初からなかったこと”にされていた可能性。
それらはもう、ただの違和感ではない。
まだ決定打ではなくとも、確かに同じ流れの中に並び始めている。
藤三郎が、その日の最後の文箱を閉じたころだった。
部屋の入口に人影が差す。
「若君様」
誰かが言った。
清雅はいつものように静かに入ってきた。
だが、今日の顔には、朝とは少し違う張りがある。整っていることに変わりはない。けれど内側で、何かひとつ結び目がきつくなっているような気配があった。
「志乃殿」
「はい」
「少し」
その一言で十分だった。
また札が来たのだと分かる。
志乃は机の上を整え、清雅のあとについて廊下へ出た。
今度は離れではなかった。外向きの奥、書付部屋と用人の部屋のあいだにある、細長い控えの間。誰にも見つからぬ場所ではないが、長話をするにも向かぬ半端な場所だ。
だからこそ、今から出る話が“完全な密談”ではなく、しかし軽く口にもできぬ話なのだと分かる。
清雅は障子を半ば閉めると、懐から一枚の紙を出した。
志乃は息をひそめる。
紙そのものは新しい。
だが書かれているのは、どうやら誰かが口で拾った話を簡潔にまとめた控えらしい。
家名は伏せられ、人名も崩されている。
そのかわり、関係だけが見えるように整えられていた。
某与力筋次女
母方後家叔母、近ごろ名門家筋へ出入りあり
先般まで別縁ありしも、ほどなく話消ゆ
その後、旗本筋への話、内々に浮上
志乃の目が、その一行で止まる。
先般まで別縁ありしも、ほどなく話消ゆ
「……別縁」
声が少しだけ掠れた。
「はい」
清雅が答える。
「与力筋の娘にも、もともと別の縁があった」
「じゃあ」
「その娘もまた、別の縁から押し出された可能性が高い」
やはり、と思う。
分かっていた。
分かっていたのに、こうして言葉になると、胸の内に別の痛みが走る。
その娘は、ただ志乃の場所を奪ったのではない。
おそらく自分自身も、どこかで別の場所から押し出されている。
そのうえで、空いたところへ差し込まれた。
まるで駒だ。
だが駒であることを、本人は知らなかったかもしれない。
「……やっぱり」
志乃は紙から目を離せなかった。
「その人だけが悪いって、簡単には言えない」
「ええ」
「でも、わたしの代わりに近づいたことは事実」
「ええ」
「嫌です」
そう言い切ると、清雅は静かに頷いた。
「それでよい」
また、その言葉だ。
否定も慰めもしない。ただ、いまの感情をそのまま置いてよいと言う。
それが志乃には助かる。
清雅はさらに一枚、別の細い紙を出した。
今度は、女房筋から上がってきた内向きの控えらしい。
後家叔母、当人娘へ直接は触れず
まず母方へ口を入れ、持参話を立てる
その後、町方の女を使い、先方周辺の腹を探る
志乃は、思わず紙を握りそうになって、慌てて手を止めた。
「これ」
「ええ」
「やり口が」
「綺麗ですね」
清雅が淡々と言う。
綺麗。
そう表現されると、余計に腹が立つ。
「母に口を入れて、持参金の話を立てて、町方の女に先方の腹を探らせる。そうやって、本人には“急に良い話が来た”ように見せる」
志乃は、そこまでをほとんど噛むように言った。
「はい」
「ひどい」
「ええ」
何も隠さず肯定されると、逆に行き場がなくなる。
だが今日の志乃は、その行き場のなさごと抱え込める気がした。
「つまり、その後家の女は」
志乃は言葉をつなぐ。
「与力筋の娘にも、婚家にも、両方へ先に手を入れていた」
「そう考えるのが自然です」
「じゃあ、わたしの祝言が白紙になる前から、もう全部」
「全部とまでは言いません」
清雅が言葉を挟む。
「ですが、おまえの祝言が止まれば、この娘を差し込める形までは整っていたのでしょう」
それは、もう十分だった。
止まれば。
差し込める形。
つまり志乃の祝言は、単に壊されたのではない。壊したあと、次を滑り込ませるための受け皿まで作られていた。
胸の奥に、静かな怒りが燃え広がる。
「……名前を」
志乃は顔を上げた。
「その娘の名前を、知りたいです」
ついに、そう言った。
清雅はしばらく黙っていた。
その沈黙が少し長かったせいで、志乃は自分が試されているのだと気づく。
「どうして」
ようやく清雅が問う。
「どうして、今それを知りたい」
「知って、すぐ会いに行くためじゃない」
志乃ははっきり言った。
「その人を責めるためでもない。……たぶん、まだ」
たぶん。
そこを曖昧にした自分が、妙に正直だと思う。
「でも、その人の名前を知らないままじゃ、いつまでも“代わりに入る誰か”のままだ」
志乃はゆっくり続ける。
「わたしの名前は、どこかで消された。だったら、その代わりに置かれた人の名前も、ちゃんと名前として見るべきだと思うんです」
それは、今この瞬間にようやく自分の中で整った言葉だった。
敵かもしれない。
敵ではないかもしれない。
どちらにせよ、その娘は“ただの代わり”ではない。
名前のある人間として見なければ、本当の流れは追えない。
清雅は、その答えを聞いて目を細めた。
「……よろしい」
「教えてくれるんですか」
「ええ」
そう言って、清雅は最後に一枚、もっと小さな紙を差し出した。
そこには崩し字で、一行だけ。
桐野 佐江
志乃は、その名を見つめた。
桐野佐江。
初めて知る名だ。
けれど、名がついた瞬間、それまで紙の向こうにぼんやり浮かんでいただけの“代わりの娘”が、急に息をし始めた気がした。
「……佐江」
小さく声に出す。
年頃十七。与力筋の家の次女。母方に後家の叔母。別の縁が消え、そのあとで婚家へ近づいた娘。
志乃はその名を、簡単には憎めないと思った。
でも同じだけ、その名を忘れたくないとも思った。
「覚えられますか」
清雅が問う。
「覚えます」
「どうして」
「わたしの代わりに入りかけた人だから」
答えながら、志乃は自分の声が静かなことに気づく。
泣いていない。震えてもいない。
代わりに、芯のところへ重く沈んでいくような感覚がある。
「でも」
志乃は続けた。
「この人だけを見てもだめですね」
「ええ」
「この人を押した手を見ないと」
「ええ」
「後家の女の名前も、いずれ知ります」
そこまで言うと、清雅はほんの少しだけ笑った。
「ええ。いずれ」
志乃は佐江の名を書いた紙を見つめた。
そこへ、自分でも驚くほど自然に言葉が続く。
「わたし、この人に会うとき」
「はい」
「かわいそうだと思うだけでは会いたくない」
「ええ」
「でも、奪った女だと決めつけたまま会うのも嫌です」
清雅は何も言わず、志乃の続きを待った。
「だから、その間に立てるようになってから会います」
それが、いま自分に言えるいちばん正確な言葉だった。
感情はきれいに割り切れない。
でもその割り切れなさごと抱えたまま、会うに足るところまで行く。
そこまで来たら、初めてこの名と向き合える気がした。
清雅は静かに頷いた。
「それで十分です」
そして、少しだけ声を落とす。
「おまえは、もう受け身ではない」
その一言が、志乃の胸へまっすぐ入った。
そうだ。
もう、花嫁衣装のまま何も分からず帰された娘ではない。
自分の名がどう消されたかを追い、その代わりに置かれた名前を受け止め、その流れを作った手を見ようとしている。
まだ途中だ。
まだ何ひとつ終わっていない。
けれど、もう白紙のままではない。
「清雅さま」
志乃が名を呼ぶと、清雅は目だけで応じた。
「わたし、この名を忘れません」
桐野佐江。
その名を、心の中でしっかりと刻む。
「ええ」
「そして、その先にいる女のことも」
「ええ」
「その人が、どんな顔で人の名を差し替えてきたのか、必ず見ます」
清雅は、志乃の言葉を最後まで聞いてから、低く言った。
「そうでなくては困る」
また、その言葉。
でも今は、もう腹立たしさよりも、同じ方向を見ている証のように聞こえた。
窓の外では、雲が切れかけていた。
濡れた庭の向こうに、かすかな夕焼けの色が差しはじめている。
志乃は小さな紙片を文箱へしまった。
自分の名前が消された。
その代わりに入りかけた娘の名前を知った。
ならば次は、その名前を押し込んだ手を見つける番だ。
怒りはまだ消えていない。
けれどその怒りは、今や行き先を持ち始めていた。




