第25話 名の主を追う朝
翌朝、志乃はまだ暗いうちに目を覚ました。
障子の向こうは、夜の名残を少し引きずっている。
けれど榊原家の屋敷は、そんな薄闇のうちからもうどこかが動いていた。遠くで水の音がする。誰かが庭を掃く箒の音も、まだ控えめながら耳へ届く。
志乃は布団の中で、しばらく目を閉じたまま昨日の名を思い返した。
桐野佐江。
たった四文字。
それだけなのに、その名が与えられたことで、今まで紙の向こうにぼんやりと浮かんでいただけの“代わりの娘”が、急に輪郭を持った。
年頃十七。
与力筋の家の次女。
別の縁が消えたあと、自分の祝言の跡へ差し込まれかけた娘。
敵だと言い切るには、まだ早い。
哀れだと決めつけるのも違う。
けれど、その娘の名を知ってしまった以上、もう“誰か”のままではいられない。
志乃は起き上がり、静かに髪をまとめた。
水で顔を洗うと、肌にひやりとした感触が走る。眠気はそれで十分に切れた。
今日からは、ただ文を読むだけでは足りない。
桐野佐江という名の周りに、どんな流れがあったのか。
その娘の別縁がどう消え、誰が婚家へ近づけ、どこで志乃の名が外されたのか。
そこへ踏み込まなければならない。
そう思うと、胸の内には奇妙な静けさがあった。
怒りは消えていない。
悔しさも、そのままだ。
けれど今のそれは、ただ胸を灼くだけの火ではなく、まっすぐ前を照らす細い灯に変わりつつある。
書付部屋へ入ると、まだ藤三郎しかいなかった。
「お早うございます」
「お早うございます」
いつものやり取りなのに、今日は藤三郎の目が少しだけ違って見えた。
志乃を見る目の中に、“若君のそばに置かれた町家の娘”というだけでなく、“いよいよこの件の中へ深く入る者”を見る色が混じっている。
「若君様は?」
志乃が訊くと、藤三郎は手を止めずに答えた。
「今朝は本家筋より使いがありましたので、少し遅れるかと」
本家。
その一言で、志乃の胸がわずかにざわつく。
榊原家の本家。
清雅自身も完全に自由ではなく、その動きはどこかで本家の意向や視線と繋がっている。第二章の終わりまでで、それはもう十分に見えていた。
「……何かあったんでしょうか」
「そこまでは」
藤三郎の答えはいつも通り簡潔だった。
だが、知らぬというより“言わぬ”ときの間合いだと、今の志乃には分かる。
それ以上は訊かず、机へ向かう。
今朝、回ってきていた控えは三通。
どれも表向きには何でもない、季節の挨拶や礼の文だ。だが、そこに混じって、女の名を口にせず女の名を動かす気配がないか、今の志乃はもう見逃さない。
一通目。
ある家からある家へ、病気見舞いの形を取った紙。
言葉は柔らかい。だが文末に、“いずれ落ち着かれましたら、先般の儀もまた”という一節がある。
何の儀かは書いていない。書いていないのに、当人同士には分かるように置いてある。
二通目。
こちらはもっと短い。
“御母堂にもよろしく”とある。
縁談の話を娘本人ではなく、母方から回しているときに、よくこういう一行が紛れる。
三通目。
これで、志乃の指が止まった。
紙はごく普通。
だが、折り方が少しだけ浅い。
町家の私信に近いようでいて、書き手はそれなりに礼法を知っている。
そして文の途中に一箇所だけ、妙に“甘い”ところがある。
「……母方」
小さく呟いた。
文そのものは、体調を気遣うような穏やかなものだ。
だがその中に、“御身ひとつで抱え込まれませんよう”“近しい方へ先にお打ち明けなさいませ”と、女同士の内輪へ誘い込む言い回しがある。
これは男の書く文ではない。
少なくとも、男の発想ではない。
母、叔母、乳母、年長の女房――そうした女たちが、まだ表へ出ぬ話を手元へ引き寄せるときの文だ。
「見えましたか」
背後から声がした。
振り向かなくても分かる。
清雅だ。
今日は少し遅かったせいか、羽織の肩にまだ外気の冷たさが残っているように見える。だが表情はいつも通り整っていた。
整っているのに、目の奥だけが少し硬い。
本家筋の使いとやらが、穏やかな用ではなかったのかもしれない。
「これです」
志乃は三通目を差し出した。
清雅は目を通し、すぐに頷いた。
「ええ。そこですね」
「“近しい方へ先に”ってところ」
「はい」
「娘本人じゃなく、まず母方へ入る流れ」
「その通りです」
清雅は机の端に紙を置く。
「桐野佐江の件も、同じ筋で動いたのでしょう」
その名前が、朝の静かな部屋で改めて出る。
昨日よりも、もう少し現実味を持って。
「……この娘、自分では何も知らなかったんでしょうか」
志乃が問うと、清雅は少しだけ考えるようにした。
「何も、ではないかもしれません」
「でも全部でもない」
「ええ」
「中途半端にだけ知らされるのが、一番いやですね」
「そうですね」
それは、自分の祝言白紙のときとも似ていた。
使いは全部を知らぬまま文だけを運び、婚家もまた全部は知らぬまま“そういう形”を受け入れたのかもしれない。
中途半端に知らされる者は、自分が誰の手の中にいるのか最後まで掴めない。
志乃は紙へ目を戻した。
「この文、誰が書いたかは分からなくても、少なくとも“そう書かせた女”の気配はあります」
「はい」
「その人が、後家の叔母筋」
「おそらく」
「おそらく、ばっかり」
思わずそう零すと、清雅は小さく笑った。
「断じられるところまで行けば、そう申します」
「そういうところ、ほんとうに嫌」
「ええ」
「否定しないし」
「癖です」
清雅がそう答えた瞬間、志乃はふと昨日の話を思い出した。
この人もまた、一度は家の都合で縁談の場へ座らされかけたことがある。
だからこそ、こうして断じられるところまで行かなければ動かぬのだろうか。
感情だけでは、結局また別の都合に上書きされると知っているから。
「……今朝、本家から使いが来たって聞きました」
志乃が言うと、清雅は一瞬だけ目を細めた。
「耳が早い」
「藤三郎さんが、少し」
「そうですか」
「何か言われたんですか」
清雅はすぐには答えなかった。
答えたくないのではなく、どこまで言うかを量っている沈黙だ。
「縁談の話ではありません」
やがてそう言う。
「ですが、家の中には、私が最近“外向きの紙に凝りすぎている”と思っている者もいるらしい」
「それって」
「おまえを抱え込んでいることも含めて、でしょうね」
さらりと言うが、その意味は軽くない。
榊原家の本家筋から見れば、分家の若君が町家の娘を屋敷へ入れ、外向きの書付を次々見せ、妙に執着して手元へ囲っている。
たしかに、穏やかではない。
「……大丈夫なんですか」
気づけば、そう訊いていた。
清雅は少しだけ意外そうに志乃を見た。
「私の方を案じますか」
「少しくらいします」
「どうして」
「どうしてって……」
言葉に詰まる。
自分でもはっきりとは分からない。
ただ、この人が本家筋に咎められているなら、その理由の一端に自分もいるのだと思えば、完全に他人事ではいられなかった。
「おまえは律儀ですね」
「それ、褒めてないでしょう」
「半分は」
「また半分」
志乃が少しだけむくれると、清雅は目元だけで笑った。
「案ずる必要はありません。そう簡単に手は離しませんから」
その言葉が、やけに静かに胸へ落ちた。
手を離さない。
囲う。
手放したくない。
この人は、そういうことを平然と言う。
腹が立つのに、どこか安心してしまう自分がいるのが、また少し悔しい。
「……守られるだけでは終われないって言ったの、忘れてませんから」
志乃が言うと、清雅は頷いた。
「ええ。だから今、こうして紙を見せている」
「それはそうですけど」
「ですが、追うことと、無防備になることは違う」
その一言で、空気が少しだけ引き締まる。
「本家の目も、後家の女の手も、どちらも軽くはない。おまえが自分で追うのは結構。ですが、こちらの手を離れて勝手に動くことだけは許しません」
許しません。
その言い方に、思わず顔が熱くなる。
「……いちいち言い方が」
「気に入りませんか」
「気に入らないです」
「結構です」
「何が」
「それだけ口が返るなら、まだ大丈夫だ」
その返しに、志乃は思わず黙った。
この人はいつもそうだ。
こちらの怒りや反発を、否定せず、そのまま生きている証のように扱う。
やがて、清雅は今朝の控えを一通ずつ揃えた。
「次は、桐野佐江が“別の縁”からどう押し出されたかを見ます」
「その娘の、元の縁談」
「ええ」
「そこまで追えるんですか」
「追わせます」
その言い方に、志乃は小さく息をついた。
「ほんとうに、全部あなたが動かす気ですね」
「必要なところは」
「嫌な人」
「知っています」
もう、それに返す言葉もない。
志乃は机へ向き直った。
新しい紙を広げ、短く控えを書き入れる。
「娘本人ではなく、母方へ入る筋。後家叔母筋の手と見てよい」
筆先は、以前より迷わなくなっていた。
怒りに触れたときの線の強さを、清雅に見抜かれてから、自分でも少しだけ分かるようになった。
今のこれは、怒りだけではない。
追うための線だ。
守られるだけでは終われない。
そう言った以上、次は本当に、自分の足で札の先へ進まなければならない。
書付部屋の外では、朝の光が少しずつ強くなっていた。
濡れた庭の匂いが、細い風に乗って入ってくる。
志乃はその匂いの中で、静かに思った。
次は、桐野佐江が押し出された元の縁を追う。
その先に、後家の女がどう手を伸ばし、どう自分の祝言へ繋げたかが見えるかもしれない。
もう、紙の上だけの怒りではない。
名前を持った相手と、その手を持った女の流れへ、志乃は本当に近づき始めていた。




