第26話 押し出された縁の跡
昼を回ったころ、榊原家の書付部屋には、雨上がりの湿りがようやく引きはじめていた。
障子の桟を通して差す光は朝より強く、紙の白さがきりりと浮いて見える。墨壺の口元も、文箱の角も、机の端に積まれた控えの束も、みな輪郭を取り戻していた。
こういう時間の紙は、嘘がよく見える。
志乃は、先ほど書いた見立てをそっと乾かしながら、頭の中で同じ名を何度も転がしていた。
桐野佐江。
代わりに入りかけた娘。
与力筋の家の次女。
母方に後家の叔母。
別の縁があったが、そこから押し出され、こちらへ近づいた娘。
その娘を押した流れを見る。
さっき清雅がそう言った。
では、その“元の縁”はどこにあったのか。そこからどう外され、どう婚家へ寄せられたのか。
そこにこそ、後家の叔母筋の癖が残っているはずだった。
「若君様より」
藤三郎が低く声をかけてきた。
志乃が顔を上げると、彼は細い綴じを一冊だけ机へ置いた。
普段よりさらに薄い。だが、中身は軽くないのだろうと、その手つきだけで分かる。
「これは」
「元の縁に関わる控えの抜き書きです」
志乃の背筋が、すっと伸びた。
「桐野佐江の」
「名は書かれておりませんが、流れとしてはそう見てよいかと」
藤三郎はそこまで言って、少しだけ声を落とした。
「若君様が“まず志乃殿に”と」
囲われている。
改めてそう思う。
だが今は、その囲い込みがただ鬱陶しいだけではない。少なくとも、自分の見るものが途中で勝手に書き換えられぬという確かさを伴っている。
「ありがとうございます」
綴じを開く。
最初の一枚は、ごく短い覚え書きだった。
ある家の三男坊と、与力筋の娘との縁が内々で進みかけていたこと。
その後、先方の病気見舞いを理由に話が延び、やがて“娘の身の上に少々の支障”として静かに流れたこと。
その数行だけで、もう嫌な気配が濃かった。
「三男坊……」
家格としては悪くない。
名門ではないが、堅実に収まる縁だ。
少なくとも、与力筋の次女が不自然に押し込まれるには十分な相手に見える。
次の紙を見る。
これは相手方からの控えではなく、どうやら縁談を取り持つ女房筋の覚えらしい。文の体裁ではなく、人に言い含める前の覚えだ。
“向こう三男、家内病ありて急がず”
“娘方は母の方より少々色あり”
“いったん待たせておけば、別筋へ回しやすし”
志乃の指が止まる。
「待たせておけば……」
ぞくりとした。
いったん待たせる。
それは、破談とも断りとも言わないまま、相手を宙づりにするやり方だ。
そしてその宙づりの時間があれば、別の縁へ回す支度ができる。
「汚い」
思わず、小さく零れた。
断らない。
決めない。
待たせる。
そのあいだに別の縁を整え、もっと“よい置き場所”へ差し込む。
なるほど、これなら揉めにくい。誰も表立って恨みを向ける形がない。だがそのぶん、動かされる側は知らぬうちに居場所を失う。
それは、志乃の祝言とよく似ていた。
祝言の日まで、はっきりとは切らない。
だが、切る形だけは先に整えておく。
そうして最後に、理由も怒る道筋も削った文だけが届く。
「見えましたか」
その声で、志乃は振り向いた。
清雅が立っていた。
今日は朝より少し表情がやわらいでいる。だが、その目は紙へ向けられた瞬間にまた静かに研がれた。
「見えました」
志乃は綴じを閉じずに言った。
「桐野佐江は、最初から婚家へ寄せられていたんじゃない」
「ええ」
「一度、別の縁へ置かれていた」
「はい」
「でも、その縁をすぐ切らず、待たせて、宙づりにして、その間にこっちへ寄せた」
清雅は頷いた。
「その通りです」
「つまり、桐野佐江も、最初から“こっちへ行きたい”と動いたんじゃない」
「おそらく」
「後家の女が、順番に置き場を見ていた」
そこまで言って、志乃はふっと息を吐いた。
怒りと悔しさに混じって、やはりやるせなさがある。
「桐野佐江も、勝手に動かされた娘の一人かもしれない」
「ええ」
「でも、その人の都合じゃないからって、わたしの痛みがなくなるわけじゃない」
「当然です」
清雅の返事は早かった。
その早さに少しだけ救われる。
志乃が桐野佐江へ複雑な感情を抱くたび、この人はそこを無理に綺麗にまとめようとしない。
許せとも、哀れめとも言わない。
それがありがたかった。
「その三男坊の家は、どうなったんですか」
志乃が訊くと、清雅は綴じの後ろを指した。
「最後の紙を」
志乃は言われた通り最後の一枚を開く。
短い控えだ。
“三男方、後に別家養女と縁つき”
それだけ。
「……入れ替わってる」
ぽつりと出た言葉に、清雅は静かに頷く。
「ええ。誰も損していないように見えるでしょう」
「見えるだけです」
「その通り」
誰も損していないように見せる。
これこそが、この後家の女のやり方なのだ。
娘を一人押し出す。
だがその押し出された先にも、もっともらしい縁を用意しておく。
表向きには“皆それなりに収まった”ように見せる。
その裏で、誰の名前をどこへ置けば一番都合がよいかを、紙の前にいる前から決めている。
「ひどい」
また、その言葉しか出ない。
「ええ」
清雅は淡々と言った。
「ですが巧妙です」
「巧妙だから余計にひどい」
「ええ」
そこだけは、いつもすぐに認める。
清雅自身、こういう筋を美しいとは思っていないのだろう。
志乃は紙を見つめた。
「……じゃあ、わたしの祝言も」
「同じ理でしょうね」
「婚家が突然嫌がったんじゃない」
「ええ」
「誰かが、向こうとこっちと、別の娘と、その娘の元の縁まで、順番に並べ替えた」
「ええ」
「そして最後に、誰も大きく恨まぬように、白紙へ戻した」
そこまで口にした瞬間、胸の奥で何かがぴたりと嵌まった。
そうか。
これは単なる破談ではなく、“並べ替え”だったのだ。
誰かが女の名前を札のように持ち、その場その場でいちばん都合よく置き直していく。
桐野佐江も、その三男坊も、自分も、その手の中で動かされただけかもしれない。
「……許せない」
低く言うと、清雅は志乃を見た。
「ええ」
「その人、全部“綺麗に収めた”つもりなんでしょうね」
「おそらく」
「だったら、なおさら顔が見たい」
志乃の声には、もう揺れがあまりなかった。
怒りは燃えている。だがその火が、今は真っ直ぐ前を向いている。
「会う日は近づいています」
清雅が言う。
「近づいてる、ばかり」
「焦れますか」
「焦れます」
「そうでしょうね」
「他人事みたいに言わないでください」
「他人事ではありません」
その返しが、少しだけ鋭かった。
志乃は思わず黙る。
清雅は自分でも気づいたのか、ひと呼吸置いてから声を落とした。
「……次の札は、その後家の女が、誰にどう恩を売っているかです」
「恩」
「ええ。こういう女は、ただ人の縁へ口を出すだけでは長く立てません。助けた家、押し込んだ娘、救われた母方。そういう“借り”をいくつも作っている」
なるほどと思う。
だからこそ、表では誰も強く責められないのだ。
ただ悪いことをしているだけの女なら、いずれどこかで排される。
だが、この女は違う。誰かを泣かせる代わりに、別の誰かへは恩を売る。だから“あの人がいて助かった”という声も残る。
「最低」
「ええ」
「でも強い」
「ええ」
そこまで分かると、逆に気持ちは静まってくる。
怒りを向ける相手が、“ただ悪い女”では足りないのだと分かるからだ。
もっと厄介で、もっと周到で、だからこそ崩しがいのある相手。
「……清雅さま」
志乃が名を呼ぶと、清雅は目だけで応じた。
「次の札、わたしも最初から見ます」
「もちろん」
「後から教えられるんじゃなくて」
「ええ」
「わたし、自分でその流れを繋ぎたい」
清雅はほんの少しだけ、目元をやわらげた。
「そうでなくては困る」
またそれだ。
けれど今は、その言葉が以前のような囲い込みだけには聞こえなかった。
追う者として、自分の隣へ置く声音にも聞こえる。
志乃は綴じを丁寧に閉じた。
桐野佐江の元の縁。
待たされた三男坊。
後家の女の“綺麗に収める”やり口。
紙の上で、ようやく線になった。
自分の名が消されたのは、ただ不幸だったからではない。
もっと“都合よく収まる場所”が別に作られたからだ。
その都合を作る女が、どこかで笑っている。
そう思うと、怒りはさらに深く、静かになった。




