第8話 若君の手元
榊原清雅が去ったあと、家の中はしばらく奇妙な静けさに包まれていた。
母は台所へ戻っていったものの、包丁の音がいつもより少し不揃いだった。考え事をしているときの音だ。わたしも文机の前に座り直したが、墨をする手がどうにも落ち着かない。すればするほど、さっきの会話が頭の中で研がれていく。
――今すぐには、何も。
――ただ、次に私が文を持ってきたら、見ていただきたい。
――放っておけば、何も知らぬまま済むとは限らない。
あの男は、どうしてこうも人の胸の内へ、必要なだけ入り込んでくるのだろう。
強引に見えるのに、力づくではない。優しげなのに、逃げ道だけはきちんと奪っていく。
わたしは半紙の上へ、無意味に一本の線を引いた。
真っ直ぐには引けた。けれど、それが何の字にもならないのが、今の自分のように思える。
父が帰ってきたのは、日が少し傾きかけたころだった。
戸を開ける音からして、いつもより重い。
母が何か言いかけたが、父は「分かっている」とだけ低く返し、すぐに居間へ入ってきた。わたしはその顔を見て、清雅が訪ねてきたことが、もう家の中の問題では済まなくなりつつあるのだと悟った。
「おとっつぁん」
父は腰を下ろすなり、しばらく黙っていた。
それから、わたしを見ずに言う。
「今日来たという若君、本当に榊原家の方らしい」
「……らしい、って」
「わしも半信半疑だった。だが仕事先で名を出したら、相手の顔色が変わった。分家とはいえ、家康公の御代からの名門だ」
母が息を呑む。
わたしも、あらためてその重みを胸へ落とした。
榊原康政。
その血筋に連なる家。
わたしのような町家の娘にとっては、遠いどころではない。道の向こう、空の向こうと言ってもいいくらい縁遠い家格だ。
父が苦々しく続ける。
「そんな家の若君が、どうしてうちへ二度も来る」
「それは……」
言葉が続かない。
理由を、わたしは半分知っている。文を見る目のことだ。けれど、それだけで名門旗本の若君が自ら動くものだろうかという疑いも消えない。
「何か、おまえに心当たりはあるのか」
「祝言のことに、少し関わるかもしれないって」
母が「志乃」と咎めるように声を上げた。
けれど父は叱らなかった。ただ、ゆっくりと視線を上げた。
「少し、とは」
わたしは言葉を選んだ。
清雅がすべてを明かしていない以上、こちらが軽々しく話せることも限られる。
「縁談とか離縁とか、そういう文が最近いくつか動いていて、その中に……わたしの祝言が白紙にされた書付と、隠し方の似たものがあるみたいで」
「隠し方」
「理由を言わないための言い回しとか、平凡すぎる整え方とか」
父は難しい顔のまま黙り込み、やがて深く息を吐いた。
「やはり、余計なことに足を突っ込んでおる」
その言葉は、責めるというより、恐れている響きだった。
「わたしだって、好きで突っ込んでるわけじゃない」
「好きでなくても同じだ。相手が相手なら、こちらの都合でやめられる話ではない」
「でも、知らないままでいた方が危ないこともあるって」
「それを、その若君が言ったのか」
わたしは頷いた。
父は顔をしかめた。
「人を動かす言い方をよう知っておる」
それには、少しだけ同意したくなる。
まったくその通りだと思ったからだ。
その日の夕餉は、三人ともあまり味が分からなかった。
父は何度も考え込み、母は何度も箸を止め、わたしは米を口へ運びながら、清雅の言葉を頭の中で反芻していた。
そして、夜が更けるころ。
また、戸が叩かれた。
もう今日は誰も来ないものと思っていたから、三人とも一瞬凍りついた。
父が立ち上がり、警戒を隠さず戸口へ向かう。
「どなたです」
「榊原家の者にございます」
清雅本人ではなかった。
だが、その名が出た途端、家の空気はまた一段階きしんだ。
戸口に立っていたのは、三十前後の男だった。着物は控えめだが仕立てはよく、言葉も所作も無駄がない。いかにも“よく仕える者”という顔つきだ。
「夜分に恐れ入ります。榊原清雅さまより、こちらを」
差し出されたのは、折り目正しい書付だった。
父が受け取り、その場で開く。わたしも母も、固唾を呑んでその表情を見守った。
父の眉が動く。
「何と」
「どうしたの、おとっつぁん」
父は答えず、わたしに紙を渡してきた。
文は短かった。
『志乃殿を、しばし榊原家の文机役見習いとして預かりたく候。
表向きは書付整理のための仮の手伝いとし、家名をもって身の安全は保証する。
なお、最近口入屋へ持ち込まれた文に関わる件、長く市中へ置くのは感心せず。
返答は明朝までにいただければ結構。
榊原清雅』
最後の一行を読んだ瞬間、胸が冷たくなる。
長く市中へ置くのは感心せず。
それは“心配している”とも読める。
だが同時に、“市中へ置いておくのは危うい”という通告にも聞こえた。
「何ですって……」
母が顔色を失う。
父が低く言った。
「預かる、だと」
使いの男は視線を伏せたまま、淡々と続ける。
「若君さまは、志乃殿が今しばらく実家に留まることを、かえって危ぶんでおいでです」
「危ぶむとは何を」
「それは私の口からは」
男はそこで言葉を切った。
まただ。知っていて言わないのか、言うところまで知らされていないのか、その境目が見えにくい。
父が怒気を抑えた声で問う。
「娘を榊原家へ置いて、何をさせるつもりだ」
「書付の整理、文の見比べ、必要があれば清書。その程度にございます」
「その程度、で名門旗本家へ娘を差し出せと申すのか」
使いは少しだけ顔を上げた。
その目に、同情とも困惑ともつかぬ色が浮かぶ。
「若君さまは、保護のつもりでもおいでです」
その“でも”が、妙に耳に残った。
保護のつもりでもある。
では、保護だけではないのだ。
父はしばらく黙ったまま、書付を握りしめていた。
母は青ざめて、わたしと父を交互に見ている。
わたしの中にも、いくつもの感情がぶつかり合っていた。
榊原家へ行く。
名門旗本家の屋敷へ。
そんな話、ほんの数日前まで想像すらしたことがない。しかも花嫁としてではなく、“文机役見習い”として。
それだけ聞けば、奇妙な幸運とも取れる。
けれど実際は、そんな綺麗な話ではない。清雅は、わたしを自分の手の届くところへ置きたいのだ。そうすれば、必要なときに必要なだけ文を見せ、必要なだけ働かせられる。
保護。
監視。
囲い込み。
たぶん全部だ。
「……お返事は」
使いが静かに訊いた。
父が答えるより先に、わたしは口を開いていた。
「どうして、そんなに急ぐんですか」
使いはわたしを見た。
初めて正面から。
「若君さまは、急いでおられます」
「何を」
「それも、私の口からは」
やはり同じだ。
だが、ひとつだけ分かった。この男は知らぬのではない。知っていて、口を閉ざしている。
「……わたしが行かなければ?」
使いのまぶたがわずかに動いた。
「若君さまは、無理にとは仰せではありません」
無理にとは。
その言い方に、無理ではない別の強さが潜んでいる。
「ただ」
「ただ?」
「志乃殿が今のまま市中で筆仕事を続けるなら、いずれ似た文がまた目に入ります。そのたびに、今のような話が繰り返されるでしょう」
静かな声だった。
脅しているわけではない。けれど、脅しよりもよほど逃げ道がない。
「若君さまは、それならいっそ、ご自身の目の届くところへ置く方がよいと」
目の届くところ。
その言葉に、妙な熱が頬へ上がる。腹立たしさからか、別の何かからか、自分でも判然としない。
父はそこでようやく、低く言った。
「今日は帰ってくれ。返事は明朝まで、とあったな」
「はい」
使いは深く一礼し、音もなく下がっていった。
戸が閉まる。
夜の冷気だけが少し入り込み、家の中の三人を取り残す。
母が最初に声を上げた。
「そんなの、行かせられるわけないよ!」
「わたしもそう思う」
反射のように答えた。
だが、その声には自分でも感じるほどの迷いが混じっていた。
父が紙を机へ置く。
「行かせたくはない。だが、断って済む話かどうかが分からん」
「おとっつぁんまで」
「済まぬ」
父は顔を上げずに言った。
「相手は名門だ。しかも、娘の件に“危うい文”が関わっていると匂わせておる。ここで強く断って、もし本当に何か起これば――」
それ以上は言わなかった。
けれど言葉の先は分かる。
もし本当に、消えた依頼人の件や、祝言の白紙が、誰かにとって“隠しておきたいもの”なのだとしたら。わたしが市中で筆仕事をしながら偶然またそうした文へ触れることは、たしかに危ないのかもしれない。
母が目に涙を浮かべる。
「じゃあ何、あんたは志乃をあんな人の屋敷へやるのかい」
「あんな人、とは何だ」
「綺麗な顔して、何考えてるか分からないじゃないか!」
その言い分に、わたしは少しだけうなずきたくなった。
本当に、その通りだと思う。
父は額を押さえた。
「分からん。だが、少なくともあの若君は、志乃の力を必要としている」
「力なんて……」
母が言いかけたところで、わたしが口を挟んだ。
「あるんだよ」
二人が同時にこちらを見る。
「おっかさんも、おとっつぁんも、今まで褒めてくれたのは字のきれいさだった。もちろん、それは嬉しかった。でも清雅さまは、違う」
名を口にした瞬間、自分で少し戸惑う。
いつの間にか、ただの“若君”ではなく、その人の名で考えていた。
「わたしの字じゃなくて、わたしが文から何を見てるかを見てる」
母は黙った。
父も黙っている。
「それが怖いのは、わたしも同じ。でも……必要とされてるのも分かる」
そう言いながら、胸の内で別の声も聞こえていた。
必要とされることに、少し飢えていたのではないか。
祝言の日、何の理由も知らされぬまま捨てられたわたしは、自分が“いらないもの”になった気がしていた。家族は優しい。でも世間はそうではない。
そんなときに、名門旗本の若君が「役に立つ」と言う。見えると言う。放ってはおけないと言う。
それが危ういことであるのと同じだけ、甘い響きに聞こえてしまうのも事実だった。
「……わたし、会いに行く」
気づけば、そう言っていた。
母が目を見開く。
「志乃!」
「今すぐ榊原家へ行くって意味じゃない。明日、返事をする前に、もう一度、直接」
父がゆっくりと顔を上げる。
「何を聞くつもりだ」
「どうしてこんなに急ぐのか。どうしてわたしなのか。榊原家へ行ったら、何をどこまでさせる気なのか」
言いながら、ひとつずつ気持ちが整っていくのが分かった。
「それを聞いて、わたしが決める」
「決めるって……」
「もう、何も知らないまま決められるのは嫌」
母が泣きそうな顔で立ち尽くす。
父は長く黙ったあと、ようやく頷いた。
「……そうだな」
「おとっつぁん」
「向こうがこちらへ踏み込んできた以上、問い返す権利くらいはある」
その言葉に、少しだけ救われる。
その夜、わたしは布団へ入ってもなかなか眠れなかった。
考えることが多すぎた。
榊原家。
文机役見習い。
名門旗本の屋敷。
そして、清雅の“目の届くところへ置く”という言い方。
あれは本当に保護なのだろうか。
たとえば野にいる小鳥を、鷹から守るために手の中へ入れるようなものかもしれない。けれど、その手の中は、守られる代わりに逃げられない場所でもある。
それでも、そこへ行かなければ見えないものがあるのだとしたら。
白紙にされた祝言の裏。
消えた依頼人。
似た隠し方をする文たち。
清雅はたぶん、わたしがそれを知りたがっていることも見抜いている。
悔しい。
悔しいけれど、それもまた事実だった。
目を閉じると、あの男の顔が浮かぶ。
柔らかな物腰。整いすぎた容貌。静かな目。
そして、必要な言葉だけを選んで、人の心を揺らす声。
――その筆は、飾るためのものではない。
――嘘を暴くためにある。
胸の奥が、ひどく静かに熱を持つ。
もしあの言葉がなければ、わたしはここまで揺れなかったかもしれない。
でも、言われてしまった。しかも、その言葉が嘘ではないことを、わたし自身がどこかで知ってしまった。
布団の中で、そっと指先を握る。
白紙にされた人生の、その先。
そこへ進む道が、よりにもよって名門旗本の若君の手元から始まるかもしれないなんて、誰が想像しただろう。
けれど明日になれば、もう逃げるだけでは済まない。
聞かなければならない。
知ったうえで、決めなければならない。
そう思うと、恐ろしいのに、少しだけ胸が高鳴っている自分がいた。




