第7話 その筆で、嘘を暴け
榊原清雅が帰ったあとも、家の中の空気はしばらく元へ戻らなかった。
父は黙ったまま仕事へ出る支度をし、母は台所でやけに大きな音を立てていた。どちらも平静を装おうとしているのだと分かる。
けれど、装えば装うほど、今朝この家へ何か異質なものが入り込み、まだどこかにその気配を残していることが際立った。
わたし自身も落ち着かなかった。
文机に向かい、代筆の下書きを整えようとしても、清雅の声ばかりが耳に残る。
――あなたの目は、字を見ているようで、人の嘘を見ている。
――そういう目は、隠しても無駄です。
あんなふうに言い当てられたのは、初めてだった。
祖父はわたしの字を褒めてくれた。寺子屋の師匠も、仮名の筋がよいと言ってくれた。母はきれいだと喜び、父は読みやすいと笑った。
けれど、それはあくまで“字”の話だった。
文の向こうの人間を見る目。
嘘を見抜く目。
それを力のように言われたのは初めてで、そのせいで、昨日までなんとか形にしていた「細々した筆仕事をして生きる」という覚悟の輪郭が、急に別の光を帯びはじめている。
わたしは筆を置いた。
今の心で書いても、よい字は出ない。
しばらく庭先に出て風に当たろうと思い、立ち上がった、そのときだった。
表で、また戸を叩く音がした。
胸がひやりとする。
まさか、と思ったが、そのまさかだった。
母が戸を開けると、今日は別の男の声が聞こえた。若いが、清雅本人ではない。
「榊原さまより、お届けに上がりました」
届け物。
母が戸惑いながら応対し、やがて小さな包みを手に戻ってくる。
「志乃」
「何」
「また、榊原さまのところから」
母が差し出した包みは、白ではなく、少しくすんだ薄茶の紙で包まれていた。折りは簡素だが、雑ではない。紐の結びも無駄がなく、こういうものをまとめ慣れた手つきが見える。
「開けてみなさい」
母に促され、わたしは居間で包みを解いた。
中から出てきたのは、三通の文だった。
どれも開封済みで、表の宛名は消されている。中の文も要所が伏せられていたり、別紙が挟まれていたりする。どう見ても、ただの贈り物ではない。
そして、添えられた短い紙片が一枚。
『先ほどの続きです。
もしお時間があるなら、これらを見て、違和感があれば記していただきたい。
筆だけで結構。人はまだ書かずともよい。
清雅』
母がその紙を覗き込み、眉をひそめた。
「ずいぶん勝手な……」
「うん」
わたしもそう思う。
思うのに、三通の文を前にした瞬間、胸の奥で何かが静かに動いたのも事実だった。
見たくないわけではない。
むしろ、見たい。
それが腹立たしい。
清雅は、きっとそのことまで見越している。わたしが“断る”と口では言っても、目の前に文を置かれれば放っておけないことを。
母が案じるように言った。
「返してしまった方がいいんじゃないかい」
「……そうかもしれない」
「かもしれない、じゃなくて」
「でも」
わたしは一通を手に取った。
紙質はそれぞれ違う。ひとつは上等な料紙に近く、ひとつは町家でも使うような実用の紙、もうひとつはその中間だ。だがいずれも、ただの私文ではない匂いがした。人に見せること、あるいは人に見せぬことを意識して書かれた文の匂い。
「少し見るだけ」
そう言ってしまえば、母はそれ以上強く止めなかった。
心配はしている。けれど母にも、わたしがここで紙を閉じたところで、頭の中でそれを考え続けるだろうことが分かっているのだろう。
文机へ向かう。
墨をすり、筆を整え、まず一通目を開く。
短い挨拶から始まる、女房言葉まじりの文。
体裁だけ見れば、ある家の奥向きから別の家の女へ送る内々の相談に見える。だが、三行読んだところで、わたしは筆を止めた。
違う。
女が自分で書いた文ではない。
いや、もっと正確に言えば、「女が書いたように整えられている」。
言い回しは柔らかい。
けれど柔らかさが不自然に均一だ。女の内相談の文なら、どこかに感情の揺れが滲む。遠慮、苛立ち、言いにくさ、あるいは皮肉。そうしたものが崩しの癖や言葉の選び方に出る。だがこの文は、最初から最後まで同じ濃さの化粧をしているみたいに整いすぎている。
筆を取り、余白へ小さく書く。
『女房文に見せているが、整え手あり。
生の言葉ではなく、見せるための柔らかさ』
二通目を開く。
こちらは男の文だ。家の外向きのやり取りに近い。形式は堅いが、途中の“重ねて”“恐れ入り候”の運びに微妙な揺れがある。最初から一人の手で書かれてはいる。しかし、文意の流れが二度ほど引き返している。
書いた者が迷ったのではない。
口頭で言い含められたことを、書きながら自分の言葉へ置き換えきれずにいる。
また余白へ記す。
『一手。
ただし、書き手は主ではなく代書寄り。
言い回しに自家の息づかいが薄い』
三通目を開いたところで、背中にじわりと汗が滲んだ。
これは――。
ひどく短い文だ。
けれど短いからこそ、隠したいものがどこにあるかがよく見える。
内容は縁談の差し止めに近い。
婉曲で、礼を失さず、表向きには相手を気遣う形をとっている。だが、その言い回しの選び方が、妙に見覚えを呼ぶ。
子細あり。
互いのため。
表立てぬが吉。
祝言の日の、あの書付そのものではない。
だが“隠すために整えた平凡さ”があまりによく似ている。
思わず息が浅くなる。
手が止まったまま動かない。
「志乃?」
母の声に、はっと顔を上げた。
いつの間にか、母が少し離れたところからこちらを見ていた。
「大丈夫かい」
「……うん」
嘘だった。
大丈夫ではない。
文を読むだけで、こんなに胸がざわつくとは思わなかった。
似ている。
同じ手ではない。けれど、文を整えた“理”が似ているのだ。人に理由を渡さないための、体面だけが残る文。
筆を握り直す。
『差し止めの理を曖昧にしすぎ。
相手へ理由を渡さず、体面だけを残す形。
祝言破談の書付に近い隠し方』
最後の一行を書いてから、自分でその文字を見つめた。
書いてしまった。
祝言破談。
わたしは今、自分の出来事をこの文へ重ねて書いたのだ。
母が近づいてくる気配がしたが、その前に、外で再び戸を叩く音がした。
今度は先ほどの使いではない。
もっと静かな、しかし間合いの整った叩き方だった。
母が戸口へ向かう。
わたしの心は嫌なほど正確に、その相手を言い当てていた。
「……榊原清雅でございます」
やはり、その声だった。
母が戸を開ける。
今度の清雅は、朝のときより少しくだけた色の羽織をまとっていた。派手ではない。だが立っているだけで、そこだけ空気の質が少し違って見える。美しい人だと、やはり思う。けれど近くで見るほど、その美しさより、気配の静けさの方が怖い。
「ご無礼を重ねます」
清雅はきちんと一礼してから、母の向こうにいるわたしへ視線を寄越した。
「文はご覧になりましたか」
あまりにもまっすぐな問いかけに、呆れる。
まだ家へ上がるとも言わぬうちから、まずそれなのか。
「……見ました」
「違和感は」
「ありました」
「でしょうね」
その返答に、わたしはついむっとした。
「最初から分かっていて寄越したんですね」
「もちろん」
悪びれない。
そのくせ口調はどこまでも穏やかだ。
「でなければ、あなたに渡す意味がない」
父もまだ帰っていない。家にいるのは母とわたしだけだ。母は露骨に落ち着かない様子で、けれど名門の若君を門前で追い返すわけにもいかぬと困っている。
結局、清雅はまた居間へ通された。
今度は前よりも距離が近く感じられた。
それは家の中の空気がすでに一度この男を受け入れてしまったからか、それともわたし自身が、彼の持ち込む文に意識を持っていかれているからか。
清雅は文机の上に置かれた三通と、わたしが余白へ記した短い見立てを見て、ゆっくり目を通した。
読みながら、表情はほとんど変わらない。けれど、三通目の最後の一行――『祝言破談の書付に近い隠し方』――に目が止まったときだけ、ほんの一瞬、まつげの影が揺れた。
「そうお感じになりましたか」
「はい」
「どこが」
試すようでいて、試す以上のものがある問いだった。
ここで曖昧に答えたら、たぶん彼はそれ以上追わない。だが、わたしが本当に何を見たのかは、きっとその曖昧さごと量られる。
逃げたくない、と不意に思った。
「言葉が平凡すぎるんです」
自分の声が静かであることに、少し驚く。
「平凡?」
「はい。子細ありとか、互いのためとか、表立てぬが吉とか。どれも、おかしくはない言い回しです。でも、おかしくない言い回しばかり重ねると、かえってそこに“理由を言わない意思”が見える」
清雅は口を挟まない。
聞いている。わたしの言葉だけを、まっすぐに。
「本当にやむを得ない事情で縁談を止めるなら、どこかに相手への申し訳なさが混じると思うんです。言い淀みとか、遠回りとか、下手な言い繕いとか。でも、こういう文にはそれがない。最初から“相手に何も渡さない”ために整えてある」
清雅が、ようやく小さく頷いた。
「続けてください」
その言葉に、胸の奥が微かに震えた。
祖父でも師匠でもない。名門旗本の若君が、わたしの言葉の続きを待っている。
「それから、一通目と三通目は手が違います。字も違うし、崩し方も違う。でも、整えるときの考え方が似ています。見せるべき形だけを残して、人の気配を消している」
「人の気配」
「はい。誰がどこまで本気でそう思っているのか、分からなくする書き方です」
言い切ったところで、急に恥ずかしさが押し寄せた。
こんなふうに、ほとんど初対面の男へ向かって、文の見立てを並べ立てるなど。しかも相手は榊原家の若君だ。
けれど清雅は笑わなかった。
馬鹿にもせず、驚きを見せびらかしもせず、ただ静かに言った。
「やはり、その筆は飾りではない」
そのひとことが、胸の真ん中へ落ちた。
飾り。
そうだ。これまでわたしの字は、女のたしなみとして、嫁入り前の見栄えとして、そういうものとして見られることが多かった。たとえ褒められても、それは“花嫁修業の出来がよい”という枠から出なかった。
でもこの男は違う。
わたしの筆を、何かを暴くためのものとして見ている。
「おまえの筆は、飾るためのものではない」
清雅が、今度ははっきりとそう言った。
「嘘を暴くためにある」
耳の奥が熱くなる。
わたしは思わず、視線を落とした。
嬉しいのではない。
たぶん嬉しいだけではない。
けれど、何かを見出されたことは確かで、そのことがどうしようもなく胸を打つ。
母が気まずそうに咳払いした。
居間に流れる空気が、わたしだけのものになりかけているのを止めようとしたのだろう。
清雅はそこで、ようやく少しだけ力を抜くように背をもたせた。
「さて。ここからが本題です」
本題。
まだ本題ではなかったのか、と内心で身構える。
「私はあなたに、いきなり難しいことを求めるつもりはありません」
「難しいこと以外を求めているようにも思えません」
ついそう返してしまうと、清雅はふっと笑った。
「口も回る」
「悪かったですね」
「いいえ。ありがたい」
何がありがたいのか分からない。
けれど、この人はわたしを娘扱いして丸め込もうとはしない。そのことだけは妙に腹立たしく、同時に少し楽でもあった。
「まずは一つ、確認したかっただけです」
清雅は三通の文を指先で軽く揃えた。
「あなたが偶然当てたのではなく、本当に見えているのかどうか」
「……それで?」
「確かめられました」
あまりにあっさりと言うので、逆にぞわりとする。
「では、次に進みましょう」
「次?」
「そう」
清雅はわたしを見た。
その目はやはり静かで、けれど静かだからこそ逃げにくい。
「これらの文の中には、近ごろ江戸で起きている幾つかの“縁の切れ方”が混ざっています。縁談の差し止め、離縁の進め方、家の内から消えた名前。そのいずれも、表へ出せぬ事情を抱えている」
家の内から消えた名前。
その言い方に、ひやりとしたものが背中を走る。
「そして、そのうちの一つは、あなたの祝言が白紙にされた件と、まったく無縁ではないかもしれない」
母が息を呑んだ。
わたしの喉もひどく乾く。
「……かもしれない、では困ります」
「ええ」
清雅はあっさりと認めた。
「だから、困っているのです」
それが冗談ではないことは、その顔を見れば分かった。
飄々としているようでいて、この人は本当に何かに手を焼いている。だからこそ、こんな家まで二度も足を運び、わたしのような女を試しているのだ。
「わたしが知らないうちに、何が起きているんですか」
「まだ、すべては言えません」
「どうして」
「言ってしまえば、あなたは今ここで逃げたくなるでしょうから」
腹が立った。
図星を突かれたから、余計に。
「そんなの、最初から逃げたいです」
「でしょうね」
「だったら放っておいてください」
「できません」
即答だった。
その一言に、室内の空気がぴたりと止まった気がした。
母さえも何も言えない。
清雅は、少しも声を荒げずに続ける。
「あなたはすでに一度、そこに触れています。口入屋に持ち込まれた書状で。消えた依頼人で。そして、自分の祝言の日の書付で」
その言葉には、否定の余地がなかった。
たしかにそうだ。わたしはもう、“ただの無関係な娘”ではいられない場所まで半歩出てしまっている。
「放っておけば、何も知らぬまま済むとは限らない。むしろ、何も知らぬ方が危ういこともある」
母がようやく言葉を絞り出した。
「そんな……志乃はただの娘です。筆が少し立つからって」
「ただの娘であることと、見えることは別です」
清雅は母にも礼を失さず、それでもきっぱりと言った。
「私は、見えるものを見えると言える人間を、無視する気はありません」
その言い方に、なぜだか鳥肌が立った。
守る、でもない。助ける、でもない。
無視しない。
それはある意味、もっと容赦のない言い方だった。
わたしは膝の上で手を握る。
「……わたしは、何をすればいいんです」
清雅の目が、ほんの少しだけ和らいだ。
「今すぐには、何も」
またそれだ、と言い返しかけたが、彼はすぐに続けた。
「ただし、次に私が文を持ってきたら、見ていただきたい。そして、気づいたことを、今のように隠さずに言ってほしい」
「それだけ?」
「今のところは」
今のところ。
つまり、この先はもっと深くなるということだ。
「なぜ、そこまでわたしに」
「あなたが役に立つからです」
あまりにも身も蓋もない。
けれど、その一言の奥に、もっと別の何かがある気がしてならない。
「それだけですか」
「……いいえ」
初めて、清雅がほんのわずかに言葉を選んだ。
「あなた自身のためでもある」
「どういう意味です」
「まだ言えません」
そこでまた、彼は余白を残す。
その余白が憎らしい。けれど、その余白にこそ真実がある気もしてしまう。
清雅は三通の文と、わたしの書き込みを丁寧にまとめた。
「今日はこれで」
立ち上がる姿には、もともとそこにいた風の自然さがある。
来るときも唐突なら、去るときもまた、妙にすっとしている。
戸口へ向かう前に、彼はふと振り返った。
「志乃殿」
「……何ですか」
「今朝の文で、最後に書いた一行は消しておきます」
最後の一行。
祝言破談の書付に近い隠し方、というあれだ。
「残しては困るのでしょう」
そう言うと、清雅は小さく笑った。
「ええ。今のあなたには、まだ」
その“まだ”が胸に引っかかる。
だが問い返す前に、彼は一礼して出ていった。
戸が閉まる。
足音が遠ざかる。
しばらく、わたしは動けなかった。
母がぽつりと言う。
「……志乃」
「うん」
「あの方、なんだか、こわいね」
「うん」
「でも、悪い人には見えない」
「それがいちばん困るの」
口にすると、自分でも少し可笑しかった。
ほんとうにそうだと思ったからだ。
あからさまに悪い人なら、怖がって拒めばいい。
けれど清雅は違う。礼を失さず、言葉は柔らかく、見ているところはきちんと見ている。なのに、その柔らかさの内側に、ひどく強いものを隠している。
その日の午後、わたしは何度も文机の前に座り、何度も筆を持ち、けれど仕事の紙へはなかなか向かえなかった。
代わりに、半紙を一枚出し、自分のためだけに書く。
子細あり。
互いのため。
詮索無用。
飾るための筆ではない。
嘘を暴くためにある。
並べてみると、どの言葉も急に重みを増す。
とくに最後の一行は、自分で書いたはずなのに、自分のものではないようだった。
わたしの筆は、飾りではない。
もしそれが本当なら。
もし、この手の中にあるものが、ただ嫁入り前の嗜みではなく、何かを暴くための力になりうるのなら。
その先にあるのは、どんな道なのだろう。
白紙にされた人生の、その先。
夕暮れが庭へ落ちるころ、わたしはようやく顔を上げた。
怖い。
それは変わらない。
けれど同じだけ、知りたいとも思ってしまっている。
あの消えた依頼人のこと。
あの文のこと。
そして、わたし自身の祝言が白紙にされた、本当の理由を。
気づけば、胸の奥で小さく火が灯っていた。
それはまだ、決意と呼ぶには頼りない。
けれど、ただ怯えているだけの灯では、もうなかった。




