第6話 榊原清雅という男
次の日の朝は、妙に早く目が覚めた。
眠れぬまま夜を越したせいかもしれない。
あるいは、眠りの浅い底でずっと、消えた依頼人のことと、途中から別の手が入った文のことを考え続けていたせいかもしれない。
起き上がると、障子の向こうはまだ白みはじめたばかりだった。
家の中は静かで、台所からもまだ火の気の音がしない。春とはいえ朝の空気はひやりとして、足袋越しの板の冷たさがじかに伝わってくる。
わたしは顔を洗い、髪を整え、文机へ向かった。
仕事の続きがある。帳面の控えと、代筆の下書きの見直しだ。筆を持てば少しは落ち着くかと思ったのだが、思うように墨が落ち着かなかった。線がわずかに強ばる。はねが気持ちばかり鋭くなる。
心が乱れているときの字だ、と自分で分かる。
「駄目ね……」
誰に聞かせるでもなく、小さくこぼした。
見えてしまうものを、見なかったことにはできない。
お袖の言うとおり、筆仕事をする者がいちいち人の事情へ気を取られていては身がもたないのだろう。けれど、気づいてしまった違和感は、胸のどこかへ残り続ける。
まして、わたしにはわたし自身の祝言の件がある。
縁談や離縁にまつわる文に、どうしたって無関心ではいられない。
墨をすり直し、息を整え、もう一度筆を下ろそうとした、そのときだった。
表の方で、誰かが戸を叩く音がした。
こんな朝早くに誰だろうと思う。
母もまだ支度の途中らしく、台所の方で「あら」と戸惑う気配がした。父はすでに起きていたらしく、足音が表へ向かう。
わたしは筆を置き、障子の隙からそっと外の気配を探った。
最初に聞こえたのは、聞き覚えのない男の声だった。
「朝早くに失礼いたします。こちらに、志乃殿というお方がおられると伺いました」
声だけで、妙に整った人だと思った。
柔らかいのに、曖昧ではない。丁寧だが、下から伺うような低さではない。
父の声が返る。
「そうだが。どちらさまだ」
「榊原と申します」
その名だけでは何も分からなかった。
だが父の気配が、はっきりと変わるのが分かった。戸惑いと緊張がいっぺんに混じる。
「榊原……?」
「はい。少し、文のことでお話がありまして」
文。
その一語に、わたしの背筋がぴんと張る。
父はしばらく黙ったままだった。
無理もない。祝言を潰されてまだ日も浅い家へ、朝から名も知らぬ男が訪ねてくるなど穏やかではない。しかも“文のことで”などと曖昧に言われれば、なおさらだ。
「……どういう御用向きか、まず伺いたい」
父の声は固かった。
「表で長々と申すことではございません。ですが、志乃殿が最近、いくつか筆仕事をお引き受けになっていると聞きまして」
息が止まりかけた。
どうして、そのことを知っているのだろう。
まだ仕事と言っても、ごく初歩のものだ。口入屋を通して細々と回ってきたばかりで、町内へ大きく触れ回るようなことでもない。もちろん、完全な秘密ではないにせよ、朝から名指しで訪ねてくるほど知られている話ではない。
「娘に何の用だ」
「直接、少しだけお話ししたいのです」
「娘はまだ若い。見知らぬ御仁に簡単に会わせられるものでは――」
父が言い終える前に、母がそっとわたしの部屋の前へ来た。障子を細く開け、困ったような顔をする。
「志乃」
「うん」
「聞こえたかい」
「聞こえた」
「どうする」
どうすると言われても、こちらにも分からない。
けれど“文のことで”と言われて、出ないという選択ができるだろうか。
心のどこかで、もう答えは決まっていた。
「会う」
母は目を見張った。
「でも」
「おとっつぁん一人に任せたら、話がねじれるかもしれない」
「そんな」
「だって、相手は最初からわたしを呼んでる」
母はしばらく迷っていたが、やがて深く息をついた。
「……分かった。けど、居間で。戸は開けておくからね」
「うん」
わたしは襟元を正し、髪の乱れを手早く撫でつけてから立ち上がった。
鼓動が早い。緊張している。だが、恐れだけではない。むしろ、何かが動き出す前触れのようなものを感じていた。
居間へ入ると、父はすでに相手を上がらせていた。
いや、正しくは“上がらせざるを得なかった”のだろう。土間で追い返せる種類の男ではなかった。
その人を見た瞬間、わたしは思わず息をのみそうになった。
若い。
父と向かい合って座っているその男は、思っていたよりずっと若かった。二十代の半ばか、少し後か。白茶の羽織に、控えめでありながら上等と分かる着物。帯の結びも乱れなく、所作に少しの無駄もない。
けれど何より目を引いたのは、その顔立ちだった。
美しい、という言葉がいちばん近い。整っているだけではない。輪郭も、目元も、口元も静かに整っているのに、どこかひどく人の注意をさらっていく。
女に見紛うほど柔らかいわけではなく、かといって武辺者のような厳しさを前へ出しているわけでもない。風流を好む若殿、とでも言えば似合いそうな顔立ちだった。
そのくせ、目だけは妙に静かだった。
優しげでも、冷たいわけでもない。
ただ、こちらを見たときに「見た」というより、「測った」と思わせる目。
男はわたしを見ると、わずかに会釈した。
「突然の訪問をお許しください。榊原清雅と申します」
その名を聞いてもなお、最初の一拍では家格までは分からなかった。
だが、父の背筋がさらに伸びる。
「榊原……まさか、あの榊原家の」
「分家筋にございます」
清雅と名乗った男は、事もなげに言った。
「家康公の御代よりの榊原康政が家の末、と申せば分かりやすいでしょうか」
分かりやすいどころではない。
わたしですら、その名は知っていた。幼いころに祖父から聞いたことがある。徳川家の重臣、譜代の名門。そんな家の流れを引く男が、どうしてこんな家に、どうしてわたしを訪ねてくるのか。
母もあからさまに息を詰めた。
父に至っては、警戒と困惑を同時に抱え込んだ顔になっている。
「娘に、何の御用でございましょう」
父の声はかろうじて平静を保っていた。
清雅はわたしを見た。
その視線は強くもなく、ねっとりと纏わりつくものでもない。だが、目をそらすには妙に落ち着かない。
「文を見る目がおありだと聞きました」
その一言に、思わず眉が寄る。
「……誰から」
「いろいろなところから」
曖昧な答えだった。
曖昧だが、はぐらかしではない。どこまで言ってよいかを最初から決めている人の言い方だ。
「お袖どののところで、いくつか筆仕事をなさっているとも」
わたしは黙った。
口入屋のことまで知っている。
父がすぐに割って入る。
「娘はまだ駆け出しです。大層なことはできませぬ」
「でしょうね」
あまりにあっさりと肯定されたので、逆に父が言葉を失った。
清雅はそこで少しだけ笑った。
「ですが、駆け出しであることと、目が利くことは別です」
その言い方に、胸がざわりとする。
「……何をお聞きになったのですか」
気づけば、わたしの方から口を開いていた。
「ある書状を見て、途中から別の手が入っていると見抜かれたそうですね」
「それは」
お袖が話したのか。
いや、たとえそうでも、それをこの人に伝える必要があったのだろうか。いや、そもそも、この人はどういう立場でそんな話を拾っているのか。
清雅はわたしの警戒を面白がるでもなく、淡々と続ける。
「その読みが正しいかどうか、確かめに来ました」
「わたしを、試しに?」
「そうなります」
随分と率直な人だと思った。
名門の若君などと聞けば、もっと遠回しに人を扱うものかと思っていた。けれどこの人は、柔らかい声でいて、肝心なところだけはまっすぐ切り込んでくる。
父が不快そうに声を低くした。
「それは、うちの娘を見世物にするということですか」
「いいえ」
清雅はすぐに首を振った。
「見世物にするなら、こんなふうに朝早く、一人で参りません」
その言葉には、妙に真実味があった。
たしかに、従者を連れ、家名を前に押し出し、大仰な物言いでやってくることもできたはずだ。そうしないのは、この人なりに何かを隠したいからか、あるいは静かに事を運びたいからか。
「では、どういう――」
「これを」
清雅は袖から一通の紙を取り出した。
白く、折り目の整った書状。
見た瞬間、わたしの鼓動がひとつ大きく跳ねた。
どこかで見たような類の、冷えた整い方をした紙だった。
「中を改めてもよろしいですか」
わたしが訊くと、清雅は頷いた。
「もちろん」
父が止めようとしたが、わたしは紙を受け取った。
指先へ伝わる感触は、祝言の日の書付より少しだけ薄い。だが折り方は固い。あくまで内々の文でありながら、無駄に整いすぎている。
開く。
そこに書かれていたのは、短い申し入れの文だった。縁談にまつわる内相談に見える。文面だけ追えば、どこにでもありそうな控えめなやりとりだ。
だが、二行読んだところで、わたしは顔を上げた。
「これ……」
「どう思われますか」
問い方が静かすぎて、かえって逃げ道がない。
わたしはもう一度文へ目を落とした。
字はきれいだ。きれいすぎる。しかも、“わざと整えたきれいさ”ではなく、日常的に人に見せる文を書き慣れた者の手だ。
けれど、それとは別に、いくつか奇妙なところがある。
「差出人は女の方、という形になっていますよね」
「そうですね」
「でも、女の文にしては、言い回しが硬すぎます」
父と母は黙って聞いている。
清雅だけが、ごくわずかに目を細めた。
「たとえば、この“存ずるところにて候”の言い方。女が絶対に書かないわけではないけれど、奥向きの内相談にしては張りすぎています。それに、この“重ねて”の使い方も、前後の文と少し合わない」
紙の端をそっと押さえる。
「あと、“恐れ入り候”の崩しが、前の“候”のくせと違う」
「違う?」
今度は母が小さく漏らした。
「はい。ここだけ、筆を寝かせる癖が強いんです」
わたしはその箇所を指した。
「この文、たぶん最初から最後まで一人の手で書かれてはいます。でも、もとの文をそのまま写したんじゃない。誰かが口で内容を整えて、それを筆の立つ者がまとめた感じです」
清雅がようやく、少しだけはっきり笑った。
「面白い」
その“面白い”は、人を小馬鹿にする調子ではなかった。
ほんとうに、そう感じたときの声だった。
けれど、わたしは気を許せなかった。
「何が、面白いのですか」
「いえ。そこまで見えるのなら、話が早いと思いまして」
「話?」
「その文は、ある家から“女が書いたもの”として回ってきたものです。ですが、実際には女が自分で書いたのではなく、誰かの意向を別の手が整えたものだろう、と私は見ていた」
私。
名門の若君でありながら、自分をそう呼ぶのだと、どうでもよいところに気づく。
「志乃殿も、ほぼ同じところをご覧になった」
清雅はそう言って、わたしから文を受け取った。
「つまり、あなたは字を見ているようで、実のところ、字の向こうにいる人間を見ている」
その一言に、胸のどこかが熱くなる。
褒められたからではない。
昨日まで、自分の字は嫁入りの箔にもならず、むしろ“賢そうに見せすぎた”などと勝手な理由にすり替えられていた。その字を、目を、初めてまっすぐ“そういう力だ”と言い当てられたからだ。
けれど同時に、怖くもあった。
この人は、わたしの中にあるものを、わたしより先に名前にしてしまいそうだった。
「……それで、何のために」
声が少し硬くなる。
「わたしに、それを確かめて、どうなさるんです」
清雅は紙をたたみながら、穏やかに言った。
「役に立っていただきたい」
父がとうとう顔色を変えた。
「娘を、何に巻き込むおつもりですか」
「巻き込む、という言い方は好みません」
「同じことでしょう」
父の語気が強まる。
だが清雅はまったく動じなかった。怒り慣れている人の顔だ、と妙なことを思う。
「では、こう申し上げましょう。今、いくつか厄介な文が江戸の中を流れています。縁談、離縁、家督、奥向きの揉め事――どれも表立って騒ぐには角が立つものばかりです。ところが、その中に、表へ出せぬからこそ見逃せないものがある」
離縁。
その言葉に、わたしの指先がぴくりと動く。
「私のところには、そういう内々の相談が回ってきます」
静かな言い方だったが、そこに自信があった。
名門の若君としての立場がなければ、そんなふうには言えないだろう。
「その中で、文そのものを読める者は多くない。字が読める者はいる。きれいに書ける者もいる。けれど、“どう嘘をついているか”まで見られる者は少ない」
清雅の目が、まっすぐこちらを捉える。
「あなたなら、それが見えるかもしれない」
その瞬間、なぜだか胸がざわめいた。
期待されている。見出されている。そう感じる一方で、そこには明らかに危うさもある。
この人の言う“役に立つ”は、ただ帳面の清書をするのとはわけが違う。
「お断りします」
自分でも驚くほど早く、言葉が出た。
母が小さく息を呑み、父はほんの少しだけ安堵した顔をした。
だが清雅は、やはり驚きもしなかった。
「理由を伺っても?」
「わたしは、ようやく筆で食べる入口に立ったばかりです。そんな大きなお家の内聞に関わるようなこと、できません」
「できないのではなく、したくない?」
「同じことです」
「いいえ」
清雅は、やわらかく、だがきっぱりと言った。
「できないのではありません。したくないのだ。あるいは、怖い」
その言い方に、かっと頬が熱くなる。
「怖くて何が悪いんです」
「悪くありません」
また即答だった。
「むしろ当然でしょう。怖くない方がどうかしている」
そう言われると、反発の勢いが少しだけ削がれる。
怖いと言われることを、責められるものだと思っていたのに、この人はそれを当然だと言う。
清雅は続けた。
「ただ、怖がっている間にも、文は流れ、人は都合よく隠されていく」
その声音が、ほんのわずかに冷たくなった気がした。
「……最近、依頼人が一人、姿を消しましたね」
息が止まる。
どうしてそれを。
わたしの顔に出たのだろう、清雅は目を細めた。
「やはり、ご存じだ」
「ご存じ、って」
「口入屋へ、ある書状を持ち込んだ女です。頭巾を被っていた。町人のようでいて、町人らしい気安さがない」
まるで見ていたかのように言う。
「その人が今朝から見えないという話も、耳に入っているでしょう?」
わたしはもう、否定できなかった。
「……あなたは、何者なんですか」
問いかけると、清雅は少しだけ口元を和らげた。
「先ほど申し上げたとおり、榊原清雅です」
「そういうことではなくて」
「では、こう言いましょうか」
彼は膝の上で指を組んだ。
「表向きは、風雅を好むだけのつまらぬ旗本の若造です。内実は、家の恥も他家の厄介事も、表へ出ぬうちに片づけねばならぬ立場にあります」
父と母は、それをどう受け止めてよいか分からぬ顔で黙っている。
わたしだけが、その言葉の中にある“表向き”と“内実”の分け方へ反応していた。
この人は、自分のことすら、最初から文のように二重に置いて話すのだ。
「……わたしに、どうしろと」
「今すぐ何かをせよとは申しません」
清雅は立ち上がった。
話は終わりだというふうに。けれど、それがただの引き際ではないことは、その目を見れば分かった。わざと余白を残している。
「ただ、あなたはすでに一つ、気づいている」
「何に」
「消えた依頼人の書状と、あなた自身の祝言の日の書付が、同じ“隠し方”をしていることに」
全身がこわばる。
それは、昨夜、布団の中でようやく自分でも言葉になりかけたことだった。
なぜこの人が、それを知っているのか。
「……どうして」
「さて」
清雅は微笑んだ。
初めて見る、はっきりした笑みだった。
美しい人だと思う。だがその笑みは、人を安心させるためのものではない。むしろ、こちらが一歩踏み込むのを待っている顔だった。
「それを知りたいと思われたなら、またお会いしましょう」
父がすぐに口を挟む。
「待ってください。娘を勝手に――」
「勝手にはいたしません」
清雅は父へもきちんと一礼した。
「今日は顔を見に来ただけです」
そして、最後にわたしへ向き直る。
「ですが一つだけ。あなたの目は、字を見ているようで、人の嘘を見ている」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
「そういう目は、隠しても無駄です。いずれ、どこかで誰かが見つける」
言い終えると、清雅はそれ以上何も言わず、ふつうの客のように表へ出ていった。
見送りに立つ気にもなれず、わたしは居間に座ったまま、その足音が遠ざかるのを聞いていた。
戸が閉まって、ようやく家の中へ現実の空気が戻ってくる。
最初に口を開いたのは母だった。
「……なんなの、あの方」
父は苦い顔のまま腕を組んでいる。
「ろくな話ではない」
「でも、おとっつぁん」
気づけば、わたしは父を見ていた。
「ろくな話じゃないって分かるのに、どうして追い返せなかったの」
父はしばらく答えなかった。
やがて、低く言う。
「追い返せる家柄の相手ではない」
それはつまり、ほんとうに名門なのだ。
わたしは膝の上へ視線を落とした。
榊原清雅。
徳川譜代の名門に連なる、大身旗本の若君。風雅を装いながら、内々の厄介事を片づける立場にある男。
そんな人が、どうしてわたしなどに目を留めるのか。
答えは一つしかない。
わたしの筆ではない。正しくは、筆そのものではなく、わたしが“文の向こうを見る目”を持っているからだ。
それは嬉しいことなのだろうか。
恐ろしいことなのだろうか。
まだ、分からない。
ただ一つだけ確かなのは、あの人が口にした言葉が、胸の奥にひどく残ってしまっていることだった。
――あなたの目は、字を見ているようで、人の嘘を見ている。
それは、誉め言葉のようでもあり、呪いのようでもあった。
その日の筆は、最後まで少しも落ち着かなかった。




