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『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第5話 消えた依頼人

 初めての仕事は、思っていたより静かなものだった。


 商家の古い帳面の清書は、数字と品目と勘定の並ぶ、ひどく地道な作業だったし、代筆の方も、町内の年寄りが離れて暮らす娘へ送る、季節の挨拶と身体をいたわる言葉を整えて書くだけのものだった。


 派手さはない。

 誰かの人生がひっくり返るような大事でもない。


 けれど、だからこそよかった。


 筆を運ぶあいだだけは、余計なことを考えずに済む。

 白紙にされた祝言のことも、町内の噂も、顔を合わせるたびに一瞬だけよそよそしくなる人たちの視線も、墨をするあいだは少し遠のく。


 帳面を整えながら、わたしは何度も自分に言い聞かせた。


 焦るな。

 まずは仕事をきちんと終えること。

 余計なことは考えないこと。


 けれど、人の心というものは、言い聞かせたとおりには動かない。


 お袖の店で見せられた、途中から別の手が入ったあの書状のことが、どうしても頭の隅に残っていた。

 ああいう文は、きっと珍しいものではないのだろう。

 誰かが書き始め、途中から別の誰かが整え、責任の所在をごまかし、都合のよい形へ作り替える。そうして、文は人の顔をして人の顔を隠す。


 そのことが、恐ろしくもあり、少しだけ胸をざわつかせもした。


 帳面の清書を納めに行ったのは、その二日後だった。


 母がついていくと言ったが、今度は断った。

 いつまでも母の後ろに隠れているわけにはいかない。仕事として受けたのなら、自分で持っていくべきだと思ったのだ。


 春の陽は高く、町は昼の賑わいを見せていた。

 荷を引く者、物売りの声、井戸端で話し込む女たち。人の流れに混じって歩きながら、わたしは帳面を包んだ風呂敷を抱え直す。


 商家は口入屋からそう遠くない場所にあった。

 表には反物や小間物を並べているが、奥では乾物や紙も扱っているらしい。番頭らしき男に帳面を渡すと、彼は中をざっと改めたあと、わたしの顔をまともに見ずに「うん、悪くない」とだけ言った。


 その一言で十分だった。

 仕事は仕事だ。誉めそやされる必要はない。きちんと受け取られたなら、それでいい。


 だが帰り際、番頭がふと思い出したように言った。


「お袖さんとこの新しい子だろ」


「はい」


「なら、変な頼みを持ち込まれても、あんまり首を突っ込まない方がいいよ」


 足が止まる。


「変な頼み、ですか」


 番頭は鼻を鳴らした。


「このごろ多いんだ。人に見せたくない文だの、急ぎで書き換えたい文だの、そういうのが」


「……よくあるんですか」


「町ではね。特に、金の貸し借りと縁談の文は揉める」


 それだけ言うと、番頭はもうこちらへ興味を失ったように帳場へ戻ってしまった。


 金の貸し借り。

 縁談の文。


 その二つの言葉が、妙に胸へ引っかかった。

 わたしは風呂敷を抱えたまま、しばらく店先で動けなかった。


 縁談の文が揉める。

 それはそうだろう。縁談とは家と家の繋がりで、感情だけでは決まらない。断るにも進めるにも、文はいる。証のような言葉がいる。そこに誰かの都合が混じることも、きっと珍しくない。


 では、わたしの祝言のときに届いたあの書付も、そうした“よくある揉め事”のひとつだったのだろうか。


 そう思いかけたが、すぐに違うと感じた。

 よくある揉め事なら、もう少し人の気配がある。言い訳や体面や、せめて申し訳なさを装う文句がある。

 あの書付は、あまりにも冷えすぎていた。

 まるで、理由を伏せることだけを最初から決めていたみたいに。


 口入屋へ戻ると、お袖はちょうど別の客を捌いているところだった。

 終わるまで隅で待っていると、客の女が頭巾を被り直してそそくさと出ていった。どこかで見たような背格好だと思ったが、すぐには思い出せない。


「納めてきたかい」


 お袖が帳面を受け取りながら訊く。


「はい。受け取ってもらえました」


「苦情は?」


「たぶん、ありません」


「たぶん、じゃ困るけどね」


 口ではそう言いながら、お袖は帳面の端をぺらぺらとめくって頷いた。


「初仕事なら上等だ。じゃあ次だ」


 そう言って、お袖は文箱から一通の折り畳んだ紙を出した。

 それを見た瞬間、わたしの肩がわずかに強ばる。


 見覚えがあった。

 お袖がこの前見せた、途中から別の手が入っていたあの書状だ。


「これを清書するんですか」


「そういうはずだった」


「はず」


「今朝、依頼人が来ることになってたんだよ。ところが来ない」


 お袖は苛立ったように爪先で畳を軽く叩いた。


「金払いの悪そうな顔じゃなかったし、急ぎだ急ぎだって騒いでいたくせに、朝から姿を見せやしない。こういうのが一番困るんだ」


「……昨日の人ですか」


「昨日じゃない。その前の朝だよ。あんたが初めて来た日に、これを持ってきたのは中年の女だ」


 そこで、ようやく思い至る。

 さっき店から出ていった客の後ろ姿に、どこか見覚えがある気がしたのは、そのせいかもしれない。年恰好も、頭巾のかぶり方も似ていた。


「さっきの方は」


「ん?」


「いえ……」


 言いかけて、やめた。

 はっきりした確信がないのに、人違いだったら余計だ。


 お袖は気にせず続けた。


「元の話じゃ、今日中にでも清書して、明日には戻せと言ってた。なのに、本人が来ないんじゃ手がつけられない。途中から手が入ってる箇所をどう整えるか、詰めなきゃならないのにね」


「その人は、どこの方なんですか」


「それをいちいち聞き出さないのがうちの流儀だよ」


 ぴしゃりと言われ、わたしは口をつぐんだ。

 そうだ。ここはそういう場所なのだ。細かな筆仕事を回す代わりに、依頼人の事情へ深入りしすぎない。聞かず、詮索せず、必要な形だけ整える。そうやって成り立っている。


 けれど、お袖は次の瞬間、少しだけ声を落とした。


「ただ、町人の身なりではあったけど、町人の気安さはなかったね。使いで来たのか、自分で来ているのか、そこも分かりにくい感じだった」


「使い」


「頼まれて動くには慣れてる。でも、細かいことまでは知らされてない。そんなふうに見えた」


 その言い方に、わたしはぞくりとした。


 それはまるで、祝言の日にうちへ来た使いの男と同じだったからだ。

 知っていて口をつぐんでいるところと、そもそも知らされていないところが、まだらに混じっているような顔。


 わたしが何も言えずにいると、お袖が怪訝そうに見た。


「どうした」


「……いえ」


 いえ、ではない。

 胸の内では、昨日も一昨日も感じた違和感が、少しずつ線になりかけていた。


 文を持ち込む者。

 事情をすべては知らぬ使い。

 途中から手の入った書状。

 そして、依頼人が急に姿を見せなくなったこと。


 お袖は文を文箱へ戻し、肩をすくめた。


「まあ、来ないものはしょうがない。もし明日までに現れなければ、この仕事は流すしかないね」


「流す……」


「こっちも慈善じゃない。だが急ぎだと言ってた人間が音沙汰なしってのは、たいてい碌なことじゃないよ」


 碌なことじゃない。

 その言葉の重みが、じわじわと染みる。


「碌なことって」


「逃げたか、揉めたか、口を塞がれたか」


 さらりと言われて、喉が詰まった。

 口を塞がれた――そこまでのことが、本当に町の片隅で起こるのだろうか。


 お袖はわたしの顔色を見て、少しだけ口調を和らげた。


「別に斬られて川に浮くって話ばかりじゃないよ。家の中へ閉じ込められたとか、身内に止められたとか、そういうこともある」


「……そう、ですよね」


「だけどね、志乃」


 初めて、お袖はわたしの名を呼んだ。


「あんた、文を見る目があるのは分かった。けど、その目で見えたものに、いちいち心まで持っていかれちゃ商売にならないよ」


 その言葉は、厳しいのに妙に胸へ残った。

 見えることと、関わることは違う。

 気づくことと、追うことも違う。


 わたしはまだ、その境をうまく引けない。


 店を出るころには、空が少し曇っていた。

 春の空は変わりやすい。路地の奥から生ぬるい風が吹き、紙の匂いと少し湿った土の匂いが混ざって流れてくる。


 帰り道、足は自然と、あの日祝言の使いが来た表通りではなく、少し脇の道へ向いた。

 考えたいとき、ひと気の少ない道を選んでしまうのは昔からだ。


 その途中、小さな茶店の前を通りかかったとき、耳に入った言葉に思わず立ち止まった。


「だから、その女、今朝から姿を見せないんだってさ」

「どこの?」

「ほら、離縁の文だか縁談の文だかを持って、あちこち歩いてたっていう」

「余計なことに首を突っ込んだんじゃないのかい」


 店先で団子を焼いていた女たちの噂話だった。

 わたしは足を止めたまま、息を潜める。


「頭巾をかぶった、すました女だろ」

「そうそう」

「どこの者かは知らないけどね」

「今朝も見かけたって人がいたのに、昼には家に戻ってなかったって」


 それ以上は、店の奥から客が出てきた気配で話が途切れた。

 けれどもう十分だった。


 頭巾の女。

 縁談か離縁の文。

 今朝から姿を見せない。


 お袖のところへ書状を持ち込んだ女と、同じ人物なのだろうか。

 もしそうなら、あの書状はただの面倒な清書仕事ではなくなってくる。


 わたしは急いでその場を離れた。

 聞き耳を立てていたと思われたくなかったし、何より、自分の鼓動の方がうるさかった。


 帰ってからも落ち着かなかった。

 文机へ向かっても、筆が妙に滑る。手紙の控えを見直しても、頭の半分は別のことを考えている。


 頭巾の女。

 消えた依頼人。

 途中から手の入った文。


 そして、離縁、縁談という言葉。


 どうしても、わたし自身の破談と重なる。

 関係があると決まったわけでもないのに、胸の奥では何かが同じ匂いを感じ取っていた。


 夕刻、母が部屋へ入ってきたとき、わたしはほとんど無意識に訊いていた。


「おっかさん、祝言の日に来た使いの人、知らない顔だった?」


「え?」


「町内で見かけるような人じゃなかったよね」


 母は戸惑いながら頷いた。


「見ない顔だったねえ。なんだい、急に」


「別に……ちょっと思い出しただけ」


「もう考えるのはやめなさい」


 母は心配そうに言った。


「せっかく仕事が動き出したんだよ。妙なことに気を取られてると、心がもたないよ」


 その通りだった。

 分かっている。

 分かっているのに、やめられない。


 夜、床に入っても眠りは浅かった。

 うとうとしかけるたび、あの書状の紙のざらりとした感触が蘇る。途中から急に変わる筆の癖。文を持ち込んだ女の見えぬ顔。茶店の女たちの噂。お袖の「口を塞がれたか」という何気ない一言。


 そして、祝言の日にわたしへ渡された、整いすぎたあの書付。


 同じではない。

 同じではないはずなのに、どこかで線が触れそうな気がする。


 眠れぬまま何度目かに寝返りを打ったころ、ふと気づいた。


 あの書状の途中から手が入った箇所には、縁談の話を“穏便に収めたい”という意味の言い回しがあった。

 それ自体は珍しくない。

 けれど、あまりに珍しくなさすぎる言い回しだった。誰が読んでも角が立たぬよう、わざと平凡に整えられた文。


 祝言の日の書付も、そうだった。

 子細ありて。互いのため。詮索無用。

 何も言わないことで、むしろ何かを覆い隠すための平凡さ。


 文は違う。

 書いた手も違う。

 けれど、隠し方が似ている。


 それに思い至った瞬間、背筋がひやりとした。


 わたしは布団の中で目を閉じたまま、ゆっくり息を吐いた。

 まだ、何も分からない。

 ただ匂いのようなものを感じているだけだ。


 でも、もしあの依頼人が本当に消えたのだとしたら。

 もし、その女が持ち込んだ文が、縁談や離縁に関わる何かだったのだとしたら。

 その中には、わたしが知らぬまま白紙にされた祝言へ続く何かが、紛れているのかもしれない。


 そこまで考えて、わたしははっとした。

 お袖に言われたばかりではないか。見えたものへ、いちいち心まで持っていくなと。


 けれど、もう遅かった。


 わたしの心は、すでにあの消えた依頼人の方へ半歩ぶん、踏み出してしまっていた。

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