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『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第4話 妙な書状

 翌朝、まだ空気の冷たさが少し残るうちに、わたしは文机の上へ並べた見本の紙を見返していた。


 仮名の流れを見せるもの。

 少し改まった礼状の形にしたもの。

 帳面の見出しを整えて書いたもの。

 そして、読みやすさを重んじて崩しすぎぬように書いたもの。


 どれも昨夜、何度も書き直した末のものだ。

 寝不足のはずなのに、不思議と目は冴えていた。胸の奥にまだ破談の痛みは残っている。それでも今朝のわたしには、昨日までになかった用事がある。


 母が支度を整えながら振り返る。


「ほんとに一緒に行くのかい」


「行く」


「向こうは見本だけ預けてもいいって言ってたよ」


「字を見るのなら、書いた本人の顔も見たがるかもしれないでしょう」


 そう言うと、母は少しだけ困ったように眉を寄せた。


「顔なんか見なくたって、字は字だよ」


「そういう相手ばかりじゃないと思う」


 母は黙った。

 たぶん、それは母にも分かっている。男でも女でも、仕事を頼む相手がどんな者かを見ておきたいと思うのは自然だ。まして、わたしのような“事情あり”の娘に仕事を回すなら、なおさらだろう。


 父は出がけに、わたしの方をちらと見て言った。


「行くなら行くで、余計なことは言うな」


「余計なこと?」


「昨日の祝言のことだ。向こうが聞かぬ限り、自分からべらべら話すな」


「分かってる」


「分かってる顔には見えん」


「ひどい」


 思わず返すと、父はわずかに口元を動かした。笑ったのか、それともため息を飲み込んだだけなのか、よく分からない顔だった。


「……だが、字のことだけは胸を張れ」


 それだけ言い残して、父は表へ出ていった。


 胸のどこかが温かくなる。

 たとえ全面的な賛成ではなくても、父はもう、わたしの筆を“嫁入り前のたしなみ”以上のものとして見始めてくれているのかもしれない。


 母と二人で出かけるころには、町はすっかり朝の顔になっていた。

 店の戸が開き、荷を運ぶ声が響き、湯気の立つ飯屋の前を人が行き交う。昨日のわたしの祝言が潰れたことなど、この道の石畳にとってはどうでもいいのだろう。そう思うと少しだけ気が楽だった。


 問題は人の方だ。


 角を曲がったところで、顔見知りの魚屋の女房とすれ違った。向こうは明らかにわたしへ気づいたが、一瞬だけ戸惑ったあと、気まずそうに会釈して通り過ぎていった。哀れみ半分、気まずさ半分のその目にも、もう慣れ始めている自分がいやだった。


「前だけ見ておいで」


 母が小声で言う。


「うん」


 向かったのは、小間物屋の裏手にある小さな口入屋だった。

 人足や女中を大きく扱うような店ではなく、町家の手伝いや手習いの師匠への繋ぎ、細々とした筆仕事などを仲介する、こぢんまりとしたところらしい。


 店先には目立つ看板もなく、格子戸の内側に人の気配があるだけだ。

 母が「ごめんください」と声をかけると、奥から四十を過ぎたくらいの女が出てきた。背は高くないが、目のよく動く人だった。笑っているようで、ひと目で相手を測る種類の笑みだ。


「あら、おいでなさい。こちらがお嬢さんかい」


「はい。娘の志乃です」


「ふうん」


 女はわたしの顔を見、それから手元の包みを見た。

 見本の紙だとすぐに分かったのだろう。


「中へお入り」


 通された部屋は、店構えより少し広かった。帳面がいくつも積まれ、壁際には紙束や文箱が整然と並んでいる。表向きは小さいが、こういう細々した仕事が意外と集まるのだろう。


 女は名をお袖と名乗った。


「昨日、おっかさんから話は聞いてるよ。字が達者なんだってね」


「達者かどうかは……まだ」


「そう言うのは、たいてい少しは書ける人だ」


 お袖はそう言って、わたしの包みを顎で示した。


「見せてごらん」


 わたしは膝を揃えて座り、紙を差し出した。

 お袖は一枚ずつめくり、無言で眺めていく。仮名の流れ、礼状の体、帳面の見出し。ときどき「ほう」とも「ふうん」ともつかぬ声を漏らすが、顔色は読みづらい。


 母は隣で、落ち着かなげに指先を膝の上で組み直していた。

 わたし自身も平静を装っていたが、お袖が紙をめくる音ひとつひとつに心臓がひっかかる。


 やがて、お袖は一枚をつまみ上げた。

 昨日最後に書いた、自分の名の入っていない仮名交じりの見本だ。


「この流れは悪くないね。柔らかいけど、腰がある」


 祖父が言っていたのと、どこか似た言い方だった。

 胸の中で、そっと息をつく。


「礼状も読ませる字になってる。帳面の見出しも、まあ悪くない。女の字にありがちな、飾りだけで読みにくい感じがないのがいい」


 そこまで言ってから、お袖はわたしを見た。


「ただし、仕事ってのは字がきれいなだけじゃ足りないよ」


「はい」


「遅れないこと。余計な詮索をしないこと。頼まれた形に合わせて書けること。口が堅いこと」


「はい」


「返事がいいのは結構」


 お袖はそこで少しだけ身を乗り出した。


「じゃあ、ひとつ見てみようか」


 懐から一通の紙を出す。

 折り目のついた、ややくたびれた書状だった。


「今朝、うちへ持ち込まれたものだよ。清書を頼みたいって話だが、元の文があんまりに汚くてね。読み取れるかどうか見てみな」


 紙を受け取った瞬間、指先にざらりとした感触が伝わった。

 安い紙ではないが、上等すぎもしない。折り目のところが少しへたっている。何度か開いたのだろう。


 文面へ目を落とす。


 最初の二行は、確かに荒れていた。

 急いで書かれたのか、あるいは元から筆に慣れぬ者なのか、字の形が揃っていない。けれど、読めないほどではない。


 しかし、三行目から急に雰囲気が変わった。


 そこだけ妙に整っている。

 いや、整っているだけではない。筆の運びそのものが別人じみていた。


 わたしは紙へ顔を近づける。


「読めるかい」


「……読めます」


「じゃあ言ってごらん」


 わたしはゆっくりと文を追った。

 内容は、ある家の内々の揉め事について、先方へ穏便な返答を頼むような、よくある口上らしい。だが文の途中に、不自然な継ぎ目がある。


「ここまでは、同じ人が書いたと思います」


「ここまで?」


 お袖が身を乗り出す。

 わたしは三行目の半ばを指した。


「この前までは、急いでいるけど、筆に迷いがあるんです。たとえば“候”の払いが浅いし、“申”の入りも毎度少し震えてる。でも、ここから急に整いすぎています」


「整ってるのが悪いのかい」


「整い方が違うんです」


 自分でも少し早口になっていると分かった。

 でも止められなかった。


「前の行は、字の形を覚えながら書いてる感じがあるんです。上手く見せようとして、でも崩れ切らない。けれど、ここからは手癖で流している。たとえば“奉”の二画目の入り方も、“候”の最後の返しも、前と違います。それに――」


 わたしは紙を傾けた。


「墨の乗りも少し違います。ほんの少しだけ、こちらの方が濃い」


 お袖は何も言わず、わたしの指先を追っている。

 母も黙ったままだ。


「急いで途中を書き直したのかもしれません。でも、その場合でも、ここだけ筆運びが急に変わるのは変です。紙の向きも、少しだけ直したような癖がある」


「紙の向き?」


「はい。ここから一度、紙を持ち直しています。前はやや右上がりなのに、ここからは真っ直ぐに近いので」


 言い終わってから、ようやく顔を上げた。

 お袖は黙っていた。

 しまった、と思う。しゃべりすぎたかもしれない。父に余計なことを言うなと言われたばかりなのに。


 だが、お袖はやがて口元だけで笑った。


「おっかさん」


「は、はい」


「この子、字がきれいなだけじゃないね」


 母が目を瞬かせる。


「そう……ですか」


「うちへ来る筆仕事の中にはね、ただ清書して終わりってものばかりじゃないんだよ。元の文が汚くて読めないとか、誰かが書き足して話がややこしくなってるとか、差し戻しを食らったから言い回しだけ整えてくれとか、いろいろある。そういうとき、ただ字の手本みたいにきれいな字が書けるだけじゃ足りない」


 お袖はもう一度、紙へ視線を落とした。


「この文、実際ね、途中から別の手が入ってるんだよ。持ってきた依頼人もそれは認めてた。元の文を書いたのは主家の小僧で、途中の肝心なところだけ、家の年長者が書き直したんだとさ」


 わたしは思わず息を止めた。

 当たった、という驚きより、やはり、という感覚の方が強かった。紙の中にあった違和感は、わたしの思い過ごしではなかったのだ。


「で、これを清書してほしいってのは、つまり“書き直したところも含めて一人が書いたように見せたい”ってことでもある」


 お袖の言い方はさらりとしていたが、その意味するところは小さくない。


 文は、ただ言葉を運ぶだけではない。

 誰が、どこまで、どう関わったかを隠す道具にもなる。


「できますか」


 気づけば、わたしの方から訊いていた。


 お袖は片眉を上げる。


「やる気だね」


「……はい」


「この場ではやらせないよ。まずは軽いものからだ。だけど、今の見立ては悪くない。うちも仕事を回す相手は選ぶからね。見たままをすぐ言う人間より、見た上でどう黙るかが分かる人間の方がいい」


 その言い方に、少しだけ背筋が冷えた。

 褒められているようでいて、試されてもいる。


 お袖は見本の紙を揃えて返してきた。


「ひとまず、二つ仕事を回すよ。ひとつは商家の帳面の清書。これは家でできる。もうひとつは、手紙の代筆だ。口述どおりに書けばいいだけの軽いものさ」


「ありがとうございます」


「まだ礼を言うのは早いよ。仕上がりが悪けりゃ、次はないんだから」


 厳しい言い方だった。

 けれど、それがかえってありがたかった。哀れまれて与えられるのではなく、仕事として見られている気がしたからだ。


 母と一緒に店を出たとき、昼の光が少し眩しかった。

 胸のうちには緊張もあるが、それ以上に、不思議な熱があった。


「よかったねえ」


 母がほっとしたように言う。


「うん」


「でも、さっきはまあ……よくあそこまで分かったもんだね」


「分かったっていうより……変だったから」


「変?」


「最初と途中で、別の人が書いてるみたいだったでしょう」


 母は少し首をかしげた。


「おっかさんには、そこまでは分からなかったよ」


「普通は分からないかもしれない」


 口にしてから、自分で少し驚く。

 こういうことを“普通は分からない”と思っていたのか、わたしは。祖父に教わり、寺子屋で褒められ、家の文を書き写してきた自分には当たり前になっていた感覚が、他の人にはそうではないのだと、いまさらのように知った。


 その気づきは、心の底へ小さな灯をともした。


 わたしの見ているものは、誰にでも見えるものではないのかもしれない。


 その帰り道だった。


 母が買い物のために乾物屋へ寄ると言うので、わたしは店先の脇で少し待つことになった。往来を行く人の流れをぼんやり見ていると、ふいに向かいの路地から一人の女が出てきた。


 年のころは四十前後。

 上等すぎぬが質のよい小袖を着て、頭巾を少し深めに被っている。どこにでもいそうな町家の女に見える。けれど、その女が胸元から取り出した文を小走りで誰かへ渡すのを見たとき、わたしの目は思わずそちらへ吸い寄せられた。


 受け取ったのは若い男だった。

 髪の結い方も身なりも町人風だが、歩き方が妙に硬い。しかも、渡された文を懐へ入れる手つきが不自然に慎重だった。


 ただの使い走りではない。

 そう感じたのは、女の方が文を渡す前、ほんの一瞬だけ周囲を見回したからだ。用心深い者の視線だった。


 すぐに、そんなことを気にする自分へ苦笑したくなる。

 人のやり取りを見たからといって、何もかも怪しんでどうする。祝言の件以来、わたしは少し神経を張りつめすぎているのかもしれない。


 そう思って目をそらしかけた、そのときだった。


 女が手元の文を渡す前に、一瞬だけ開いた折り目の内側が見えた。

 そこに書かれた一文字だけが、妙に目に残る。


 “離”。


 離れる、の離。

 それだけ。


 もちろん、それだけで何が分かるわけでもない。

 それなのに、胸の奥がざわりと波立った。離縁、離別、離反――その字が含む意味は多い。けれどわたしには、どうしても「離縁」の響きが最初に浮かんでしまう。


「志乃」


 母の声に呼ばれて振り返る。

 乾物屋の買い物は終わったらしい。


「今、行く」


 もう一度だけ路地の方を見る。

 さっきの女も若い男も、もう姿がなかった。


 帰り道、わたしはそのことを母には話さなかった。

 自分でも、ただの偶然かもしれないと思っていたからだ。町では毎日、いくらでも文が行き交っている。そこに“離”の字があったからといって、わたしの祝言と関係があるはずもない。


 けれど家へ戻ってからも、その一文字は頭に残った。


 離。


 昨日、自分のもとへ届いた“白紙”の文。

 今日、口入屋で見た途中から別人の手が入った書状。

 そして路地で交わされた、離の字を含む文。


 文というものは、思っていた以上に多くの嘘や都合を抱えて人のあいだを行き来している。

 言葉はまっすぐでも、筆はそうとは限らない。


 夕方、お袖のところから小さな包みが届けられた。

 初仕事の帳面の下書きと、短い手紙の口述控えだ。


 わたしはそれを広げ、静かに息を整えた。

 まだこれは小さな一歩にすぎない。けれど、その一歩の先に、ただ“暮らしの糧”だけではない何かがある気がしていた。


 筆を取り、紙へ向かう。


 昨日までなら、字はわたしにとって嫁入り前のたしなみのひとつだった。

 今は違う。

 字は、誰かの心を整えるものでもあり、誰かの嘘を隠すものでもあり、そして時には、その嘘を暴く手がかりにもなる。


 わたしは最初の一画を、ゆっくりと下ろした。

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