第3話 わたしに残ったものは筆だけ
次の朝、目が覚めたとき、最初に自分がどこにいるのか分からなかった。
薄い春の光が障子越しに差し込み、部屋の隅をぼんやりと白くしている。聞こえてくるのは、井戸端で水を汲む音と、表を掃く竹箒のかすかな音だけ。いつもと変わらぬ朝のはずなのに、家の中は妙に静かだった。
そうして、昨日のことを思い出す。
祝言。
白無垢。
婚家からの使い。
白紙に戻された縁談。
何も知らされぬまま、花嫁衣装のまま帰されたこと。
胸の奥に重い石を落とされたような感覚が、目覚めと一緒に戻ってきた。
けれど涙は出なかった。
泣き疲れたわけではない。泣かなかったのだから、疲れようもない。むしろ涙が出ないぶんだけ、何か固いものが胸の内に居座っているようだった。
布団を上げ、身支度を整えて居間へ出ると、母がすでに朝餉の支度をしていた。味噌の香りがしている。普段なら、少しほっとする匂いだ。
「ああ、起きたかい」
母はいつも通りの声を出そうとしていた。
けれど、その“いつも通り”のあまりの不自然さに、かえって昨日のことが家じゅうに染みこんでいるのが分かる。
「おはよう」
「顔、洗っておいで。ご飯よそっておくから」
「うん」
井戸端へ出ると、ちょうど向かいの家の嫁が桶を持って立っていた。目が合う。相手は一瞬だけぎこちなく会釈し、それからひどく中途半端な顔になった。憐れむべきか、何も知らぬふりをするべきか、決めかねている顔だ。
わたしも軽く頭を下げ、水を汲んだ。
冷たい水が手に触れた瞬間、昨日までの自分がどこか遠くへ流されていくような気がした。
家へ戻ると、父はもう座っていた。
無言で箸を取る。母も何も言わない。朝餉の席に流れる空気は、ひどく慎重だった。誰も、触れてはならぬ器物でも扱うように、言葉を選んでいる。
その沈黙を破ったのは、表で響いた女の声だった。
「ごめんくださいなあ」
母の手が止まる。
父の眉がぴくりと動いた。
この声音を、わたしは知っていた。
斜向かいの小間物屋の女房だ。悪い人ではない。だが、何かあれば真っ先に「心配して」顔を出し、そのまま余計なことまで聞いていく人でもある。
母が立ち上がろうとするのを見て、わたしは先に言った。
「わたし、奥へ行ってる」
「志乃――」
「いいの。顔を合わせたくない」
母は止めなかった。
たぶん、止められなかったのだろう。
わたしは小部屋へ引っ込み、障子の向こうの気配に耳を澄ませた。
ほどなくして、予想通りの声が聞こえる。
「昨日はまあ……驚きましたわ。せっかくのお祝いが」
「いえ、こちらこそ」
「でも急なお話で、お気の毒にねえ。お志乃ちゃん、だいじょうぶ?」
「ええ、まあ……」
「先方もどうしてまた、あんな日にねえ。何かご事情が?」
「詳しいことは、うちも」
「あら、そうなんですの。けど武家方のことですものねえ。きっと表にできないことが」
母は曖昧に相槌を打つだけだった。
相手もそれで満足して帰るような人ではない。むしろ、確かな答えがないほど想像をふくらませる。
「ねえ、あたし思うんですけど、お志乃ちゃん、あまり賢そうに見せすぎたんじゃないかしら」
「はあ?」
「ほら、男の方って、あんまり気の強そうな女は嫌がるでしょう。字もお上手だし、しっかりしてるでしょう? 武家のお家じゃ、それを鼻に掛けたと思われたのかも」
障子一枚隔てた向こうで、母の息を呑む気配がした。
あまりのことに、怒りより先に呆れてしまった。
人というものは、理由が分からぬことに出会うと、ここまで勝手な理屈を作れるものなのか。
賢そうに見せすぎた。
気が強そうだった。
字がうまかった。
それらがすべて、破談の理由として丸め込まれていく。
昨日までは、嫁入り前の娘を褒める言葉だったものが、今日はそのまま“駄目だった理由”に変わる。
わたしは自分の膝の上に置いた手を見つめた。
何も持っていない手だ。
けれど、何も持っていないわけではない。
字がうまかった。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
やがて客が帰り、母が疲れた顔で戻ってきた。
わたしと目が合うと、ひどく申し訳なさそうに眉を下げる。
「聞こえたかい」
「うん」
「気にしなくていいよ。あの人は口が軽いだけで――」
「分かってる」
分かっている。
分かっているけれど、これから先、ああいう言葉を何度も聞くのだろうとも分かる。
理由が分からない以上、世間は勝手な理由をつける。
それを止めることはできない。
だったらせめて、自分の中だけでも、何が残っているかを見失ってはいけない。
母が縫い物籠を脇へ寄せながら、そっと言った。
「しばらくは、表へ出ない方がいいかもしれないね」
その一言に、わたしは反射のように顔を上げた。
「どうして」
「どうしてって……今は、何かと人の目が」
「だから、家の中にいろってこと?」
「そうじゃなくて」
「同じだよ」
声が少し強くなった。
母は驚いたようだったが、わたしはもう引けなかった。
「家にいても、外にいても、みんな勝手なことを言う。だったら、ただ隠れてるだけなんて、もっと嫌」
「志乃」
「わたし、働く」
母が息を止めた。
「昨日、おとっつぁんにも少し言ったけど……代筆とか、清書とか。そういうのならできる」
「何を急に」
「急じゃないよ」
いや、本当は急だったのかもしれない。
けれど、昨日の夜から胸の底で何度も形を変えながら固まってきた思いだった。
「だって、家にいたって、わたしはもう“祝言を潰された娘”のままでしょう」
「そんなふうに言わないでおくれ」
「でも本当だもの」
母は唇を噛んだ。
わたしも本当はこんな言い方をしたくなかった。けれど、きれいごとでは前へ進めない。
「字なら、まだ使える。寺子屋で褒められたし、町内の帳面だって何度か頼まれたことある」
「それはそうだけど……女が筆で稼ぐなんて」
「だめなの?」
「だめというより……」
母は答えに窮した。
それも当然だ。女が手習いをすること自体は珍しくない。けれど、それで食うとなれば話は別だ。女の字は、嫁入りの箔にはなっても、生業とは見なされにくい。まして武家でも商家でもない家の娘なら、なおさらだ。
でも、だから何だというのだろう。
わたしに残ったものの中で、いちばん確かなものがそれなら、それを捨てる理由にはならない。
母がしばらく黙り込んでから、小さく言った。
「……本気かい」
「うん」
「人に頭を下げて、仕事をもらって、下手をすれば馬鹿にもされるよ」
「今だって、馬鹿にはされてる」
答えた瞬間、自分でも少しひどいと思った。
母に向ける言葉ではない。
「ごめん」
わたしがすぐにそう言うと、母は首を振った。
「いいんだよ。おまえが腹を立てるのは、当たり前だ」
そして母は、何かを決めるようにゆっくりと息を吐いた。
「じゃあ……ひとつ、聞いてみようかね」
「聞く?」
「小間物屋の裏に、手習いの師匠へ紙を届けたり、町家の帳面の清書を請け負ったりしてる口入屋があるの。女でも細々した筆仕事を回してくれることがあるって、前に聞いた」
「ほんとに?」
「ほんとに、だけど」
母は念を押すように続けた。
「うまくいくかは分からないよ。軽い仕事しか来ないかもしれない。見習いみたいに安く使われるかもしれない」
「それでもいい」
その返事には、もう迷いがなかった。
母はそんなわたしを見て、少しだけ目を細めた。
哀れむ目ではなく、どこか昔を思い出すような目だった。
「小さいころからそうだったね、おまえは」
「何が?」
「一度こうと決めると、意外と頑固」
それは褒め言葉かどうか分からなかった。
けれど、少なくとも今は、悪く聞こえなかった。
その日の昼過ぎ、母は本当にその口入屋へ顔を出してくれた。
わたしも行くと言ったのだが、最初は母が話をつける方がいい、と押し切られた。
待っている時間は、思った以上に長く感じた。
何をしていても耳が表の気配を拾ってしまう。誰かが通る足音、戸の開く音、遠くの笑い声。何もかもが、自分のことを言っているような気がする。
落ち着かず、わたしは祖父の遺していった小さな文机を引っ張り出した。
普段は物置同然に置かれているものだ。脚は少しがたつくが、天板に染みこんだ墨の跡が懐かしい。
筆を取る。
硯に水を落とし、静かに墨をする。
しゃり、しゃり、と墨の擦れる音が、胸のざわめきを少しだけ静めた。
それだけで、昔の記憶が戻ってくる。
祖父は厳しい人ではなかった。
むしろ、字のうまい者には甘かった。わたしがまだ幼く、筆をうまく立てられなかったころも、「急ぐな、筆先に急がせるな」と笑っていた。
『女の仮名は、柔らかいだけでは駄目だ』
『骨が要る。骨のある柔らかさでなければ、読む者の胸へ残らぬ』
その言葉の意味は当時よく分からなかった。
けれど今なら少しだけ分かる気がする。
柔らかいだけでは、流される。
折れない芯があってこそ、柔らかさも形になる。
わたしは半紙の上に、ゆっくりと自分の名を書いた。
志乃。
二文字だけ。
けれど昨日までのそれとは、少し違って見えた。
花嫁になるはずだった志乃ではない。
白紙にされた志乃でもない。
まだ何者でもないけれど、これから何かになろうとしている志乃の字だった。
もう一枚、今度は少し整えて仮名を書き連ねる。
筆の運びは悪くない。心が荒れていれば字も荒れるものだが、案外、こういうときの方が線は正直になる。
何枚か書いたところで、表が開く音がした。
母が戻ったのだ。
わたしは筆を置いて立ち上がる。
母の顔を見るまで、息が詰まりそうだった。
「どうだった」
母は草履を脱ぎながら、すぐには答えなかった。
焦らす気はないのだろうが、その間が余計に心臓に悪い。
「ひとつ、あるにはあるって」
「あるの?」
「ただ、いきなり大きな仕事じゃないよ。ある商家の古い帳面の清書と、町内の者から頼まれた手紙の代筆が少し。まずはそんなところからだって」
胸の奥で、何かが静かに跳ねた。
「やる」
「まだ先方は、おまえの字を見てからと言ってる」
「見せる」
「だから落ち着きなさい」
母は呆れたように言ったが、その口元にはほんの少しだけ笑みが戻っていた。
「明日、見本を持っていくことになった。あんたが普段書いてるようなのじゃなく、きちんとしたものを何枚か用意しておくれって」
「明日」
「できるかい」
「できる」
言葉と一緒に、胸の中の息苦しさが少し薄れた。
昨日までなら“明日”は祝言のあとの新しい家で始まるはずだった。けれど今、その明日は別の形でやってくる。
母がふと、文机の上を覗き込んだ。
「あら」
「何?」
「もう書いてたのかい」
半紙の上には、さっき書いた自分の名と仮名の連なりが置かれたままだった。
母はその一枚をそっと手に取り、しばらく眺めた。
「……やっぱり、おまえの字はきれいだねえ」
それは、祝言が決まったときに近所の者たちが言ったのとは、まるで違う響きだった。
飾りとして褒めるのではなく、今あるものとして認める声。
わたしはその言葉を、静かに胸へしまった。
夕方には父も戻ってきて、母から話を聞いた。
父はすぐには賛成しなかった。眉間に皺を寄せ、腕を組み、何度も考え込んだ。
「女が外の仕事に顔を出すのは、やはり……」
「顔は出さなくてもいい仕事もあるそうだよ」と母が言う。
「帳面の清書なら家でできるし、代筆も仲介を通せば」
父は難しい顔のままだった。
けれど最後には、長く息を吐いてからこう言った。
「見本を見せるだけなら、やってみろ」
それだけで十分だった。
夜、わたしは再び文机に向かった。
今度は見本として見せるための字を書く。くずしすぎず、固すぎず、読みやすく、それでいて仮名のやわらかさを損なわぬように。
祝言の日に着るはずだった白無垢は、まだ部屋の隅の行李に畳まれている。
それを視界の端に感じながらも、わたしは筆を運んだ。
失ったものは大きい。
失われた理由も分からない。
明日になればまた誰かが勝手なことを言うだろう。
それでも、わたしの手の中には筆がある。
婚家はわたしを花嫁にしなかった。
世間はわたしを哀れな娘として見るだろう。
けれど、わたしまで自分をそう決めつける必要はない。
字を書く。
線を引く。
はねる。止める。
そのひとつひとつが、白紙にされた日々の上へ、小さく新しい道を刻んでいくようだった。
夜も更けるころ、最後の一枚を書き終えたわたしは、筆を置いて静かに息を吐いた。
まだ、たった一歩だ。
しかも、ちゃんと道になるかどうかも分からない、頼りない一歩。
それでも確かに、昨日までとは違う。
花嫁になる道は閉ざされた。
ならば別の道を探すしかない。
わたしに残ったものが筆だけなら、まずはそれで生きてみるしかない。
文机の上に並んだ紙を見つめながら、わたしは思った。
――白紙にされたその先を、書くのは自分だ。




