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『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第2話 花嫁衣装のまま帰された家

 祝いの膳が下げられていく音は、思いのほか静かだった。


 酒の徳利が盆に戻される小さな音。箸が揃えられ、椀の蓋が閉じられ、敷かれていた座布団が端から順に片づけられていく音。朝から家じゅうを満たしていた人のざわめきは、もうほとんど残っていない。


 つい数刻前まで、この家は祝言の家だった。


 今はただ、何かが壊れた家のように見える。


 わたしは座敷の隅にひとり座って、その様子を見ていた。

 白無垢はまだ脱いでいない。脱がせる段取りも、手を貸してくれる者の気持ちも、もうどこかへ散ってしまったらしかった。綿帽子だけは外したが、結い上げた髪は重く、白い襟元はきっちりと詰まったままだ。


 母は奥で泣いていた。

 いや、泣いているのを隠そうとしていた。けれど隠しきれていなかった。


 父は土間の方で、親類の男たちに何か頭を下げていた。祝いに呼んだ者たちへ詫びているのだろう。酒も肴も無駄になったことより、娘の祝言が当日に潰れたことの方が、父にはよほど堪えているはずだった。なのに父はわたしのそばには来なかった。


 来られないのだ、と分かっていた。


 父がわたしを嫌ったのではない。

 むしろ逆だ。可哀そうでたまらないのに、どう言葉をかければよいか分からないのだ。


 分かっているのに、胸の内はひどく冷えた。


 障子の外で、伯母たちの声がした。


「ひとまず白無垢を脱がせた方がいいだろうに」

「でも今、声なんか掛けられるかい」

「まったく先方もひどいことを」

「ひどいだけで済む話かねえ。何かあったから、こうなったんじゃ……」


 そこで声が少し落ちた。落としたつもりでも、聞こえている。


「向こうは武家でしょう。そこが当日に取りやめるなんて、よほどだよ」

「本人には言えない何かがあるんじゃないのかね」

「まさかとは思うけど」

「ほら、志乃ちゃん、字がきれいで気も強そうだったろ。嫁入り先で何か揉めたとか――」


 最後まで聞く気にはなれなかった。

 聞かずとも続きは分かる。女たちの噂話というものは、事実がなくても、もっともらしい形に整っていくものだ。しかも一度整えられたそれは、真実より長く残る。


 わたしは膝の上に置いた手を、そっと握りしめた。


 怒っても仕方がない。

 泣いても、何も戻らない。

 それでも、胸の奥で何かがぎり、と軋んだ。


 どうして今日なのだろう。


 もっと早くなら、まだましだった。せめて昨日なら。

 祝言の支度が整い、親類が集まり、近所の者たちまで知っているこの日に、花嫁衣装のまま破談を告げるなど、これはただ縁を切るというより、わたしを人目にさらして捨てるためのやり方に見えた。


 そこまで考えて、またあの書付を思い出す。


 子細ありて白紙に戻したく候。

 重ねて申すべき儀もなく、今日のところはこれにて。

 互いのため、詮索無用に願いたく候。


 ひどく整った文だった。

 ひどく整っていて、ひどく冷たかった。


「志乃」


 声をかけられて顔を上げると、母が立っていた。目が赤い。けれど涙の跡を懸命に袖で拭ったらしく、もう泣いてはいなかった。


「こっちへおいで。着替えよう」


「……うん」


 立ち上がろうとして、裾の重みによろめいた。母が慌てて腕を取る。祝言の支度をするときは、こんなふうに誰かが支えてくれるのを、ありがたいとも思わなかったのに、今はそれが情けなさとして胸に刺さる。


 奥の小部屋へ入ると、母は障子をぴたりと閉めた。外の目から隠すためだろう。あるいは、わたしが崩れるのを他人に見せたくなかったのかもしれない。


 母は後ろに回り、帯へ手をかけた。

 その手が何度も迷う。


「おっかさん、わたし、自分で――」


「いいよ。今日は……今日は、母親らしいことをさせておくれ」


 その言葉に、胸が詰まった。


 母は器用な人ではない。縫い物も近所では中くらい、料理も飛び抜けてうまいわけではない。けれど、わたしが熱を出した夜には何度も手ぬぐいを取り替え、筆を握る手が荒れれば米ぬかで洗ってくれた。

 そんな母が、今だけは泣かずに、祝言のために着せた白無垢を、自分の手でほどいている。


 襟がゆるみ、帯が解かれ、一枚、また一枚と白が剥がれていく。


 そのたびに、わたしは花嫁ではなくなっていく。


「……ごめんねえ」


 母がぽつりと言った。


「おっかさんが謝ることじゃない」


「でも、こんな……こんなことになるなんて」


「うん」


「おまえに恥をかかせた」


「恥なんか……」


 ない、と言いかけて言葉が止まった。


 恥だった。

 少なくとも世間はそう見る。

 花嫁衣装のまま帰された娘など、哀れというより先に、何があったのだろうと品定めされる。何もなくても何かがあったことにされる。今日から先、わたしはそういう目で見られる。


 その現実を、口に出して否定することはできなかった。


 母はわたしの沈黙をどう受け取ったのか、肩を震わせた。

 わたしは慌てて振り向き、母の手を取った。


「わたし、大丈夫だから」


「大丈夫なものかい……」


「だって、まだ何も分からないもの」


「え?」


 母は泣き顔のままわたしを見た。


「何も分からないよ。どうして今日になって、どうして何の理由もなく、あんなふうに」


「先方が言わないのなら、もう……」


「言わないのが、おかしいの」


 自分でも、思いのほか強い声が出た。


「わたしに落ち度があるなら、そう書けばいい。家に事情があるなら、それなりの言い方がある。なのにあの書付は、何も言わないために書かれてた。まるで……最初から、理由を隠すつもりで」


 そこまで言って、母が驚いたように目を見開いているのに気づいた。


「志乃」


「ごめん」


「いや……」


 母は何かを言いかけて、やめた。

 たぶん、娘の口から最初に出てくるのが悲しみではなく文の不自然さだとは思わなかったのだろう。普通なら泣くところだ、と母の目も言っているようだった。


 普通でなくてごめんね、と思った。

 でも、気づいてしまったのだ。気づいたものを、なかったことにはできない。


 母がようやく着付けを終えるころには、日は少し傾いていた。

 白無垢は畳まれ、部屋の隅に置かれている。それはさっきまで自分が着ていたものなのに、もう他人のもののようだった。


 わたしは普段着の小袖に着替え、鏡も見ずに髪をほどいた。結い上げていた髪が肩へ落ちると、頭が妙に軽くなった。軽くなったはずなのに、胸だけが重い。


 居間へ戻ると、父がひとり座っていた。

 親類たちはもう帰ったらしい。祝いの膳があったはずの場所には何もなく、ただ畳の上に、酒の染みの輪だけがうっすら残っている。


 父はわたしを見ると、一瞬だけ何か言おうとした。けれど結局、視線を落とした。


「着替えたか」


「はい」


「……今日は、もう休め」


「おとっつぁん」


「何だ」


「先方は、何かほかに言ってなかった?」


 父は黙った。

 それだけで、何かがあったと分かった。


「使いの者は、書付のこと以外は口をつぐんでおった」


「それだけ?」


「……『詮索無用が互いのため』と、同じことを繰り返した」


「互いのため」


 わたしはその言葉を舌の上で転がした。

 互い、とは、どこの誰と誰のことだろう。うちと婚家か。それとも、うちの知らない誰かを含めた“互い”か。


 父が苦い顔をする。


「考えるな」


「でも」


「考えたところで、相手は武家だ。こちらが騒いでどうなる」


「だからって、このまま何も分からないままなんて」


「志乃!」


 父の声が初めて荒くなった。


「もうよせ。今日、おまえは……」


 そこで父は言葉を切った。

 “恥をかいた”と言いかけたのか、“傷ついた”と言おうとしたのか、分からない。けれど言葉を飲み込んだ父の顔は苦しそうで、わたしはそれ以上追えなかった。


「……すまん」


 父が低く言った。


「わしは、おまえを守ってやれなんだ」


 その一言で、胸のどこかがひどく痛んだ。

 わたしは首を振った。


「そんなこと」


「いや、そうだ。相手が武家だからといって、何もかも飲み込んでおる。怒鳴りつけたい気持ちはある。だがそれをしたところで、おまえの先がもっと狭くなるだけだ」


 父の拳は膝の上で固く握られていた。

 父は怒っている。悔しがっている。けれど父は、家を守るためにその怒りを呑むしかない。


 家。


 その重さを思う。

 わたし一人が泣いて済む話ではなくなっている。娘の破談は家の評判に関わり、弟や妹がいればその縁談にすら影を落とす。幸いわたしには年の近い妹はいないが、それでも、父母は近所の目の中で暮らしていかねばならない。


 だからこそ、わたしは今ここで長く泣いてはいられないのだと、少しずつ思い始めていた。


 夕餉の支度はしたものの、まともに箸をつけられる者はいなかった。

 味噌汁は冷め、煮物はほとんど手つかずのまま残った。母は食べたふりだけをし、父は酒を口にしようとしてやめた。


 外が暗くなるにつれ、家の中の沈黙は重くなる。

 その沈黙を破るように、近所の戸が閉まる音、犬の鳴く声、遠くで笑う若者の声が聞こえてきた。世間はいつも通りに夜へ向かっている。うちだけが昼のまま取り残されているようだった。


 夜も更けたころ、母が布団を敷きに行った。

 父ももう休むと言って立ち上がる。

 けれど、わたしだけはどうにも眠れそうになかった。


「少し、風に当たってくる」


 母が心配そうに振り返る。


「志乃、夜露は冷えるよ」


「すぐ戻る」


 庭先へ出ると、春の夜気は意外なほどやわらかかった。

 朝には祝いのために掃き清められていた石畳に、今は桜の花びらが少し散っている。風が吹くたび、白い花びらがひとつふたつ転がった。


 白無垢の白とは違う、はかない白。


 わたしは縁側に腰を下ろし、膝を抱えた。

 昼間から何度も考えまいとしていたことが、夜になると余計にはっきり浮かんでくる。


 これからどうなるのだろう。


 わたしはもう嫁げないのだろうか。

 いや、嫁げないとまではいかなくても、一度こうなった娘を好んで迎えようという家は少ないだろう。もし次があったとしても、今日よりずっと低く見積もられる。今日の破談を理由に、こちらが頭を下げる立場になるのは目に見えている。


 それに――もう一度、誰かの家へ「嫁ぐためだけ」に自分を差し出すことを、今のわたしが素直に受け入れられるだろうか。


 そう思ったとき、わたしの指先は無意識に何かを書くように宙をなぞっていた。

 仮名の流れ。筆の入り。はねる前のためらい。


 字。


 そうだ、と思う。

 わたしには字がある。

 うまく生きる術だとは誰も教えてくれなかったけれど、少なくとも、何もないわけではない。


 祖父の机で半紙を無駄にした日々。

 寺子屋で、男児の手本よりわたしの仮名の方が柔らかいと褒められたこと。

 父に頼まれて近所への礼状を書いたとき、「わしよりよほど読みやすい」と笑われたこと。


 あれらは、嫁入りのための飾りではなかったのかもしれない。


 そのとき、背後で障子が細く開く音がした。

 母かと思ったが、父だった。


「まだ起きていたか」


「うん」


 父は少し迷ってから、縁側の端へ腰を下ろした。

 親子で並んで座るのは、いつ以来だろう。


「……近所の者が、明日にも何か聞いてくるだろう」


「うん」


「親類も、勝手なことを言う」


「うん」


「しばらくは、肩身が狭い」


 父はひどく言いにくそうに、それでも現実を告げた。

 わたしは頷いた。


「分かってる」


「すまん」


「おとっつぁん、さっきからそればっかり」


「そうかもしれん」


 父がわずかに口元を歪めた。笑ったのではない。泣きそうな顔を、笑うふりでごまかしたのだ。


 その父の横顔を見て、わたしはようやく、今日一日でいちばんやわらかい声を出せた。


「わたし、少し働こうと思う」


 父がこちらを見た。


「働く?」


「うん。すぐに何か大きなことはできないけど……代筆とか、清書とか、そういうのなら」


「何を言い出す」


「だって、このまま家にいるだけだと、みんな気をつかうでしょう」


「そんなことで働きに出る娘があるか」


「娘じゃなくなったもの」


 言ってしまってから、父の顔がこわばるのが分かった。

 けれど今のわたしには、それを飲み込む気力がなかった。


「今日までなら、嫁入り前の娘だった。けど、もう違う。花嫁衣装のまま帰された女だよ」


「志乃」


「でも、字ならできる。おとっつぁんも知ってるでしょう」


 父は黙り込んだ。

 夜風が一度、庭の木を揺らした。花びらが二枚、畳へ落ちる。


「……考えておく」


 ようやく父がそう言った。


 駄目だとは言わなかった。

 それだけで十分だった。


 父が部屋へ戻ったあとも、わたしはしばらく縁側にいた。

 夜の闇は、何も答えてはくれない。けれど昼の喧噪よりも、ずっと正直だった。


 わたしは懐へ手を入れ、あの書付を取り出した。

 何度見返しても、文は変わらない。けれど見れば見るほど、違和感だけが増していく。


 子細ありて。

 互いのため。

 詮索無用。


 言わないための言葉ばかりだ。

 まるで最初から、わたしに理由を渡さないために整えられた文だ。


 筆の運びは安定している。迷いがない。

 ということは、書いた者はこの文をよく呑み込んでいる。誰かに言わされただけでは、ここまで淀みなくは書けない。

 けれど一方で、当主自らの筆にも見えない。もっと実務に慣れた、しかし表には出ない立場の者――そんな気がした。


 なぜ、そんな者が、わたしひとりの祝言に関わるのだろう。


 分からない。

 でも、分からないまま終わらせたくなかった。


 昼には、白紙にされたのは祝言だと思った。

 けれど今は少し違う気がする。


 白紙にされたのは、きっとわたしの顔でも、名でもない。

 わたしが何も知らぬまま、理由すら持たぬ女として扱われること、そのものだ。


 だったら。


 だったらせめて、自分のこれからだけは、自分で書かねばならない。


 夜空を見上げる。

 薄い雲の向こうに月が滲んでいた。


 わたしは書付をそっと畳み、胸元へ戻した。

 祝言の日に渡されたこの紙は、呪いのようでもあり、始まりのようでもある。


 まだ何ひとつ分からない。

 けれど明日には、何かを始めなくてはならない。


 花嫁にはなれなかった。

 ならば何になるのか。


 その答えを、これから探すのだと、夜の庭でひとり、わたしはようやく思えた。

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