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『祝言を白紙にされた女筆師は、大身旗本の若君に執着される 〜筆で暴く江戸恋捕物帳〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第1話 祝言の日、わたしは捨てられた

 白無垢は、こんなにも重いものだったのかと思った。


 肩にかかる布の重みだけではない。綿帽子の内側にこもる熱、幾重にも重なった襟の窮屈さ、帯の締めつけ、座るたびに膝へかかる衣擦れの圧。息を吸うだけで、今日という日がわたしを花嫁の形へ押し込めていくようだった。


 鏡の前に座るわたしの後ろで、母が何度も小さく息をついていた。


「動かないでおくれ、志乃。せっかく結ったのだから」


「はい、おっかさん」


 そう答えた声は、思ったより落ち着いていた。


 鏡の中のわたしは、いつものわたしではないように見えた。白に包まれ、紅を薄くひかれ、髪を整えられた顔は、寺子屋帰りに手を墨で汚していた娘のものではない。どこか知らぬ家へ、知らぬ名を背負って入っていくための顔だ。


 縁談が決まってからというもの、近所の女たちは口々に言った。


「志乃ちゃんもいよいよお武家の奥さまかえ」

「いいところへ決まってよかったねえ」

「器量もそうだが、字がきれいなのがよかったんだろうね」


 最後の言葉だけは、ほんの少しだけ、胸の奥に残った。


 器量など、上を見ればいくらでもいる。けれど字だけは違った。祖父がまだ元気だったころ、わたしの書く仮名を見て「女の筆は心を映す」と言ってくれた。寺子屋でも、女の子にしては筋がいいと褒められた。婚家へ出す挨拶の文を父に頼まれて清書したときも、母は何度も見返しては嬉しそうに笑っていた。


 だから、今日という日は、ただ嫁ぐ日ではなかった。


 これまで育ててもらった家を出て、これから別の家で生きると定まる日。わたしの筆も、わたしの声も、わたしの名前も、今日からは別の意味を持つのだと、そう思っていた。


 思っていたのだ。


「志乃、支度はどうだ」


 障子の向こうから父の声がした。


「もう済みます」


 母が答え、わたしの襟を最後にそっと撫で整える。手が震えていた。


 母も緊張しているのだろうと思った。娘を嫁に出すのだもの、無理もない。そう思っていたから、その震えに不吉なものを感じなかった。


 庭先は朝から慌ただしかった。煮炊きの匂い、草履の音、親類の話し声、近所の子のはしゃぐ声。祝いの日らしい気ぜわしさが家じゅうに満ちていた。けれど白無垢をまとって座っていると、それらはどこか遠い世界の出来事のように聞こえた。


 母が綿帽子を手に取り、そっとわたしの頭へかぶせる。


「……きれいだよ、志乃」


「おっかさん」


「向こうへ行っても、すぐに気を張りすぎるんじゃないよ。最初は誰でもよう分からん。分からんことは分からんでいい。返事に困ったら笑っておいで」


 母はそう言って笑おうとしたが、笑いきれなかった。わたしは少しだけ身を乗り出して、母の手を握った。


「だいじょうぶです。ちゃんと務めます」


 花嫁らしいことを言えた気がして、少しだけ安堵した、そのときだった。


 表の方で、人のざわめきが不意に途切れた。


 祝いの席に特有の、浮き立った気配が、すっと冷えていくのが分かった。笑い声が止み、代わりに押し殺したようなひそめ声が広がる。


 母も気づいたらしく、わたしの手を握り返した。


「……何かしら」


 その声が終わるより早く、障子の向こうから父の低い声が響いた。


「どういうことだ、それは」


 今まで聞いたことのない声音だった。怒鳴ってはいない。けれど怒鳴るよりもなお恐ろしい、喉の奥で押し殺した怒りがあった。


 わたしは思わず立ち上がりそうになり、母に袖を掴まれた。


「待ちなさい、志乃」


「でも」


「今は」


 言い終える前に、障子が開いた。


 父が立っていた。顔色が、紙のように白かった。


「おとっつぁん……?」


 父はわたしを見た。いや、正しくは、わたしの姿をまっすぐ見られないようだった。白無垢の裾、畳、母の肩、そのあたりをさまようように視線が揺れていた。


「先方から使いが来た」


「はい」


「……祝言は、取りやめになった」


 その言葉の意味を、わたしの耳はすぐには拾えなかった。


「え……?」


 母が小さく声を漏らした。


「何を言ってるの、おまえさん」


「向こうの使いが、そう申しておる」


「取りやめって、今日でしょう。もう客も入って――」


「そう申しておる!」


 父が低く、だが鋭く言った。母は口をつぐんだ。わたしは、綿帽子の内側で自分の呼吸だけがやけに大きく響くのを聞いた。


 取りやめ。


 その言葉は、まるでどこかよその家のことのように、わたしの前を滑っていく。


「……理由は?」


 自分でも不思議なほど、平らな声が出た。


 父は唇を噛み、懐から一通の書付を出した。白い紙に、きっちりとした折り目がついている。封はすでに切られていた。


「これだ」


 母が受け取ろうとしたが、わたしが先に手を伸ばした。白無垢の袖が、紙の端に触れる。墨の匂いがした。書きたてではない。けれど古すぎもしない、乾いた墨の匂い。


 文面は簡素だった。


 此度の縁談、子細ありて白紙に戻したく候。

 重ねて申すべき儀もなく、今日のところはこれにて。

 互いのため、詮索無用に願いたく候。


 たったそれだけ。


 子細ありて、とは何だ。重ねて申すべき儀もなく、とはどういうことだ。互いのため、とは誰のためだ。


 わたしはその文を二度、三度と目で追った。整いすぎている、と思った。


 あまりにも整いすぎていた。


 今日の祝言を潰すために急ぎ持たされた文なら、もっと乱れが出るはずだ。筆を急がせた痕、言い淀んだような文の継ぎ目、迷い。だがこの文にはそれがない。まるで、最初から何度も練られていた決まり文のようだった。


 しかも「白紙に戻したく候」という言い回しが妙に冷たい。婚家が本当に破談を告げるなら、もう少し体面を繕う文句を入れるはずだ。「不徳」「行き違い」「天運かなわず」――いくらでも言いようはあるのに、この文はまるで、理由を隠すことだけを優先しているように見えた。


「志乃」


 母の声に我に返る。


「何かの間違いでしょう。そうに決まってる。向こうのご当人は何と――」


「本人は来ておらぬ」


 父が答えた。


「使いだけだ。祝いの膳も手をつけず、書付だけ置いて帰ると言ってきかん」


「そんな」


「外で親類が押し問答しておる。だが相手は武家だ。下手に騒げば、こっちが余計に恥をかく」


 恥。


 その一言が、胸のいちばん柔らかなところへ刺さった。


 わたしの祝言が潰れたことよりも先に、家の恥が立つ。もちろん父にとってはそれも現実なのだろう。責められない。責められないのに、喉の奥がつかえた。


 外のざわめきがまた大きくなる。親類の男衆の怒った声と、それを抑えようとする誰かの声。子どもが泣き出し、女たちがひそひそと何か囁き合う。


 祝言の家の音ではなかった。


 これは、祝いが壊れる音だ。


 わたしは書付を持ったまま、すっと立ち上がった。


「志乃!」


 母が止めたが、振り切って障子の外へ出た。白無垢の裾が畳を擦る。いつもより視界が狭い。綿帽子が邪魔で、顔を上げづらい。それでも前へ進んだ。


 廊下の先、土間に近いところに、婚家からの使いがひとり立っていた。年のころは四十前後、痩せた男で、目を伏せたまま微動だにしない。背後には下男らしい若い男が一人控えている。


 親類の伯父が今にも掴みかからんばかりに詰め寄っていた。


「理由を申せと言うておる! これで済むと思うておるのか!」


「上からの申しつけにございます」


「上とは誰だ!」


「申し上げることはございませぬ」


 そのやり取りを見た瞬間、不思議と涙は出なかった。


 ただ、ああ、終わったのだ、と思った。


 男はわたしの姿に気づくと、一瞬だけ視線を上げた。ほんの一瞬。だがその目には驚きも、気まずさも、同情もなかった。ただ、仕事を終えたい者の冷えた焦りだけがあった。


 わたしは一歩、近づいた。


「わたくしが志乃です」


 場がしんと静まる。


「この文は、先方さまのお考えでございますか」


 使いの男は、目を伏せたまま答えた。


「左様にございます」


「ご当人のお言葉ですか」


「左様にございます」


「祝言当日の今日まで、何の沙汰もなく、ただこの書付一通で白紙と申されるのですか」


「左様にございます」


 まるで木偶だった。何を問うても同じだ。けれど、わたしはその声が少しだけ揺れたのを聞き逃さなかった。最初の「左様」と、今の「左様」は微かに違った。二度目の方が乾いている。用意した答えをなぞっているような声音。


 男の足もとに視線を落とすと、草履の鼻緒に細かな泥がついていた。うちへ来るまでにぬかるみを通った跡ではない。乾いた土だ。今日、婚家からまっすぐ来たなら、あの土のつき方にはならない。どこか別の場所へ立ち寄っている。


 その後ろにいる下男の若者は、わたしと目が合うとすぐにそらした。けれど、その頬はこわばっていた。恐れているのは、祝言が潰れた家の怒りではない。もっと別の何かだ。


「……志乃、もうよせ」


 父の声がした。


 よくない、と分かっていた。こんなふうに前へ出る花嫁など、いない。もう花嫁でもないのかもしれないけれど。


 それでも、黙って引き下がることができなかった。


「子細ありとございますが、わたくしに何の咎がございます」


 男は初めて、ほんのわずかに眉を動かした。


「それは……」


 初めて、決まり文ではない声が出た。


 伯父がすかさず怒鳴る。


「ほれ見ろ! 何も知らんのだろうが!」


 男は口をつぐみ、ふたたび冷えた顔に戻った。


「申し上げることはございませぬ」


 その瞬間、わたしは確信した。


 この男は何も知らないのではない。知っていて言えないのだ。いや、正しくは、知らされていないことと、口止めされていることが混ざっている。文を渡す役目だけ負わされた者の顔だった。


 そして、この書付は――急いで決めたものではない。


 最初から、誰かがこうするつもりで用意していたものだ。


 そこまで思い至ったとき、足もとがぐらりと揺れた。


 何を考えているのだろう、わたしは。祝言を潰され、花嫁衣装のまま立ち尽くしているというのに、気にしているのは文の言い回しや封の折り方だ。普通の娘なら泣き崩れていてもおかしくないのに。


 けれど、だからこそ分かったのかもしれない。


 これは、ただの気まぐれではない。


 ただの破談ではない。


 理由のある白紙だ。


「……分かりました」


 自分でも驚くほど静かな声で、わたしは言った。


 親類たちがどよめく。母が泣きそうな顔をしている。父はうつむいたまま拳を握っていた。


「本日は、お引き取りください」


 使いの男は、わずかに頭を下げた。深々とではない。礼をするというより、ようやく終わると安堵しているような下げ方だった。


 そのとき、男の袖口から、別の紙片が一瞬だけ覗いた。小さく折られた、薄茶の紙。うちに渡された白い書付とは違う、もっと内々のものらしい紙質。男は慌てて袖を正し、隠した。


 今のは何だ。


 問いかけるより早く、男は踵を返した。下男もそれに続く。土間に残ったのは、祝言のために敷かれたままの敷物と、宙ぶらりんになった祝いの支度と、息を呑む者たちの視線だけだった。


 誰もすぐには口を開けなかった。


 最初に崩れたのは母だった。


「どうして……どうしてなの、志乃……」


 母がその場にしゃがみ込み、袖で顔を覆った。わたしは駆け寄ろうとして、白無垢の裾を踏みそうになり、立ち止まった。


 白い。


 どこまでも白い。


 つい先ほどまで、祝いの色だと思っていた白が、今はひどく空々しく見えた。


 伯母の一人が、聞こえるように囁いた。


「何かあったんじゃないのかね」

「でなければ当日にこんな」

「先方も武家でしょう、よほどのことが」

「縁起が悪い……」


 その言葉は、包み隠しているふりをしながら、きっちりとわたしの耳へ届いた。


 父が「よせ」と低く言ったが、誰も完全にはやめなかった。噂というものは、祝言の膳よりも早く回る。


 わたしはまだ書付を手に持っていた。握りしめた指先が、紙の角で少し痛んだ。


 子細ありて白紙に戻したく候。


 その一行だけが、目に焼きついて離れない。


 紙は上等ではあるが、婚礼に用いる正式のものとしては妙に素っ気ない。墨の濃さは均一、筆圧も安定している。男の手だ。だが日頃から公儀の文に慣れた者の筆ではない。もっと内輪の、だが礼法だけは身につけた者。封の折りも堅すぎる。祝言を破談にするには、あまりに温度がない。


 誰が書いたのだろう。


 婚家の当主か。家令か。誰か別の者か。


 その問いが浮かんだとき、ようやく自分の胸の奥から遅れて痛みがせり上がってきた。


 わたしは、嫁げないのだ。


 もう、この白無垢はただの恥だ。


 その事実が、文の不自然さより何よりも遅れて、重たく胸へ落ちてくる。喉の奥が焼けるように熱くなり、目の裏がじわりと滲んだ。


 けれど、それでも涙はこぼれなかった。


 泣いたら、ほんとうに終わってしまう気がしたからだ。


 わたしはゆっくりと母のそばへ行き、その肩へ手を置いた。


「おっかさん」


 母は顔を上げられない。


「中へ戻りましょう。ここでは寒い」


「志乃……ごめんよ……」


「どうしておっかさんが謝るの」


 そう言いながら、自分の声がかすれているのが分かった。


 父はわたしたちの方を見られないまま、親類たちへ解散を告げ始めた。祝いの膳は片づけられ、酒は下げられ、飾りはその日のうちにほどかれるだろう。朝のうちには吉事だった家が、昼にはもう、避けて通るべき家になる。


 わたしは書付を畳まなかった。


 畳んでしまえば、本当にそれで終わりになってしまいそうで、できなかった。


 ただ、紙の端を見つめながら思った。


 これは終わりではない。


 終わりにさせられたのだとしても、ここには理由がある。

 わたしは捨てられた。けれど、ただ雑に捨てられたのではない。

 誰かが、そうなるように書いたのだ。


 その「誰か」に、今はまだ手が届かない。


 それでも、わたしはその紙から目をそらせなかった。


 わたしの祝言は、白紙にされた。


 けれど本当に白紙なのは、今日から先のわたしの人生の方なのかもしれない。


 何も書かれていない。

 何者にもなっていない。

 花嫁ですら、なくなった。


 だったら――。


 その先を、何で書くのか。


 その問いだけが、胸の底に小さな火のように残った。

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