92 二つの紫と涼風誘う茄子の浸し
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ、カトリーナさん! お一人ですか?」
理恵が温かな笑顔で迎えると、カトリーナは少し照れくさそうに頭を下げた。
「はい。今夜は理恵さんにお願いがあって参りました。前回の土鍋うどんの際、添えられていた小鉢の茄子の美味しさが忘れられず……本日は茄子を使ったお料理を存分に味わいたいのです」
「まあ、嬉しい! ちょうど今朝、立派な茄子がたくさん入ったところなのよ」
理恵は嬉しそうに厨房へ向かうと包丁を手にした。左手の人差し指を顎に添えてうーんと考える。
「それならね、よく似た調理法でまったく違う美味しさが楽しめる二つの浸しを食べ比べてみてもらおうかしら」
しばらくしてカトリーナの前に運ばれてきたのは美しい藍色の小鉢が二つ。
「こっちは茄子の煮浸し、そしてこちらは茄子の揚げ浸しよ。どちらもお出汁をしっかり含ませているけど作り方が少し違うの」
隠し包丁を入れた茄子を、出汁、醤油、みりんの優しく温かい煮汁でじっくりと煮含めた一品。とろけるような柔らかさと出汁そのものの旨味がダイレクトに染み込んでいる。
茄子の揚げ浸しは濃厚な香ばしさが魅力。素揚げにして色鮮やかな紫を閉じ込めた茄子を、甘酢を効かせた冷たい特製出汁へ一気に浸したもの。油のコクと出汁の酸味が絶妙に調和している。
「まあ、見た目の色彩からして実に鮮やかで美しい! 主菜より副菜にうるさい私には堪りません」
「あらそう? 茄子って地味な色じゃない?」
「異世界では紫は人気の高い色ですよ」
「そうなんだ……勉強になりました」
カトリーナは手帳とペンを脇に置き、まずは煮浸しから箸を伸ばした。
「……優しい……」
お出汁をたっぷりと含んだスポンジのような身から、噛んだ瞬間にじゅわっと温かい出汁が溢れ出す。茄子本来の素朴な甘みが引き立っていた。続いて鮮やかな紫が映える揚げ浸しを口へ運ぶ。
「なっ……まったく印象が違います! 油で揚げることで皮の香ばしさとコクが増し、甘酢出汁の甘酸っぱさが脂っぽさを完璧に消し去っています。後味が実に爽やかですね」
カトリーナは二つの小鉢を交互に味わいながら真剣な眼差しで思考を巡らせた。
(煮浸しは素材の繊細な味を引き出す静、揚げ浸しは油と酸味で満足感を高める動。調理法一つで同じ食材がここまで変幻自在に化けるなんて考えてもいなかったな)
カトリーナの頭の中に母国の市場で扱われている紫色の野菜ナイトシェイドの姿が浮かんだ。
(我が国ではこのような紫野菜は肉と一緒に炒めるか、濃いスープで煮込むくらいしか用途がなかった。だが、このようなさっぱりとした副菜として提供できれば箸休めになる)
宮廷の豪奢な肉料理に疲れた貴族たちや、厳しい訓練を終えた騎士たちにも、この口の中をリセットしてくれる繊細な副菜は絶対に好まれる――カトリーナはそう確信した。
「理恵さん、率直な感想を申し上げますと甲乙つけがたい素晴らしさです! 特に揚げ浸しの油と出汁の相性は絶品です。我が国の食材でも再現できないか、すぐに試作してみます!」「参考になったなら良かったわ。お出汁の取り方もあとで教えてあげるわね」
理恵が優しく微笑むとカトリーナは嬉しそうにメモを取り始めた。結衣は蒼い眼鏡の位置を直しながら解説する。
「水溶性ナスニンの抗酸化作用、ならびに油との相乗効果によるベータカロテンの吸収率向上。異世界の食卓に新たな副菜文化をもたらす完璧なアプローチですね」
「メインの肉や魚を引き立てるいい脇役があってこそ宴ってのは完成するからな」
大吾は厨房から顔を出して満足そうに微笑む。
異世界の宮廷へと持ち帰られる和の心と出汁の技術。一皿の小鉢が繋ぐ新しい食文化の芽を抱き、今夜もテトラ・アコードの夜は優しく更けていくのだった。




