90 平和を祈る遠国の香気と羊肉のケバブ
夜の賑わいが去り、すべての皿を洗い終えた頃。店仕舞いの掃除を手際よく終わらせたミナとコウに、大吾は竹皮と紙で丁寧に包まれた小さな包みを二つ取り出して差し出した。
「二人とも今日もお疲れさん。これ、今夜のお土産だ。持って帰って小腹が空いたら食ってくれ」
「わあ、ありがとうございます!」
包みを受け取ったミナが、我慢できずにその場でそっと中を覗き込む。そこに収められていたのは香辛料を擦り込んで香ばしく焼き上げられた肉が、ずしりとした重みで竹串にびっしりと刺されたケバブだった。
「大吾さん、これ……私の母国にもそっくりな串焼き肉があります! 遠い砂漠の街で夜市に並ぶ屋台でよく食べていました!」
思わぬ故郷の影にミナは大はしゃぎで目を輝かせた。大吾は一瞬驚いたあと納得する。
「へえ、やっぱり向こうにも同じような料理があるんだな。香辛料やハーブを効かせて、強火でさっと炙っておいた」
「我慢できません、一本いただきますね!」
ミナは焼きたてのケバブを一本手に取り、熱々の肉に豪快にかぶりついた。スパイスの刺激的な香りと噛み締める度に溢れ出す肉汁の旨味。脂の香ばしさが口いっぱいに広がり――次の瞬間、ミナの動きがぴたりと止まった。
「ミナ?」
隣で見ていたコウが不思議そうに覗き込む。ミナは口の中の肉を静かに飲み込むと、そのままぽろぽろと涙を零し、がっくりと肩を落として塞ぎ込んでしまった。
「どうしたミナ、口に合わなかったか?」
心配そうに顔を覗き込む大吾にミナは首を横に振った。
「違います……美味し過ぎるんです。美味し過ぎて……ショックで……参っちゃいました」
「ショック?」
「私の母国で食べていた串焼きは、肉が硬くてパサついていて、臭みを消すために辛い香辛料を大量に振りかけるだけのものでした。でも大吾さんのケバブはお肉が柔らかくてジューシーで、スパイスが肉の旨味を最大限に引き立てていて……異世界とこちらの世界の料理のレベル差に愕然としてしまったんです。どうしてこんなに違うんだろうって……」
俯くミナの頭に大吾の大きな手がぽんと置かれた。
「なあに、落ち込むこっちゃねえよ。料理ってのはな、技術や素材の差だけじゃねえんだ。平和な世界にならないと料理の味なんてどうしても後回しにされちまうんだよ」
「平和……ですか?」
「ああ。毎日いつ戦争が起きるかわからない、今日食べるものにも困るような荒れた世界じゃあ、料理はただの生き延びるための栄養補給になっちまう。じっくり肉を仕込む時間も、香辛料を吟味する余裕も生まれない。こっちの世界で料理が美味いのはな、なにより平和だからだ。安心して美味いものを食える環境が料理を育てるんだよ」
大吾の言葉がミナの心にじんと染み渡っていく。
「そうですね。母国はいつも争いが絶えなくて、みんな生きるだけで精一杯でした」
ミナは涙を拭うと手に持ったケバブをもう一度大切そうに見つめ直した。
「私……いつか母国も平和になってほしいです。みんなが安心してこんな風に美味しくて温かい料理を笑いながら食べられる――そんな平和な国になってほしい」
「きっと近い未来そうなるさ。美味いものは人を笑顔にするし、笑顔は少なからず争いを減らす。お前がその味を覚えて、いつか向こうで広めてやりゃいいんだ」
大吾が豪快に笑うとミナも明るい笑顔を取り戻した。
「コウ、冷めないうちに二人で部屋で食べよう! 大吾さん、本当にありがとうございました!」
「おう、気をつけて帰れよ」
元気良く立ち去っていくミナとコウの背中を大吾と理恵は温かく見送った。
「ミナちゃん、すっかり逞しくなりましたね」
理恵は微笑みながら大吾の隣に立つ。店から出てきた結衣は蒼い眼鏡の位置を直しながら静かに言った。
「食文化の発達と社会の安定度の相関関係。お父さんの言う通り平和こそが最高の調味料ですね」
夜風に乗って遠ざかっていく二人の足音と、微かに残るスパイスの芳醇な香り。世界を繋ぎ人々の心に希望を灯すテトラ・アコードの灯火は今夜も優しく街を照らし続けていた。




