89 蒼い眼鏡と記憶を浸すほっけと獺祭
夜の賑わいが一段落したテトラ・アコード。
テーブル席の片隅で結衣は一人静かにグラスを傾けていた。目の前には網の上でじっくりと焼き上げられた、黄金色の脂を皮目からじゅわじゅわと溢れ出させている巨大なほっけの開き。身をほぐし添えられた大根おろしに醤油を少し垂らして口へ運ぶ。
「ふう」
ほっけの脂の旨味を冷えた獺祭の爽やかなキレがすっと洗い流していく。
(学生の頃は居酒屋で一番安くてボリュームのあるほっけをみんなでつついて安いビールを煽っていたなあ。それにしても最近のテトラは本当になんでもありの居酒屋になってきたわね。うち最初は生ビールなんて絶対にやってなかったよ。まあ、異世界との繋がりが一番問題なんだろうけどさ)
異世界の食材、魔導具、騎士や姫君、そして魔獣まで。そんな感慨に浸っていたその時――木枠の扉を開けて二人の少年が入店してきた。一人は金髪でくせのある髪がところどころ跳ねている少年。もう一人は長身痩躯で前髪がぱっつんと揃った黒髪が印象的な少年だった。
「あら?」
結衣は蒼い眼鏡の位置を直した。
金髪の少年とは過去に二度会っている。会う度に眼鏡の構造や魅力について変態的なまでの情熱で語りかけてくる眼鏡愛好家の少年だ。だが今夜の彼はどこか控えめで、どうやら隣の黒髪の少年と私との仲裁役として立ち会っているらしい。
二人は結衣のテーブルへと直進し、黒髪の少年が冷徹な眼差しで結衣を見下ろした。
「率直に言おう。あなたは異界の道具に精通し始めている。このままいけば――狙われるぞ」
「え?」
グラスを置いた結衣が首を傾げる。
「異界の技術や魔導具を自在に解析応用できる技術者は、どのような勢力にとっても喉から手が出るほど欲しい存在だ。無防備のまま知識があることが広まれば、いずれ厄介な組織に目をつけられる。だが、疑問だ。こちらの世界の人間が独学でそこまでの魔導解析技術を身につけることなど不可能なはずだが?」
黒髪の少年が訝しげに目を細める。結衣は焦る様子もなく淡々と獺祭のグラスを弄んだ。
「私の知識のバックボーンに対する疑問ね。種を明かせば簡単よ。私には師匠がいるの。以前、特製のアップルパイを通じて知り合った、あちらの世界の大魔導士ルシアンよ」
「やはり魔導師と繋がりがあるんだな。異界の連中と関わるのはやめたほうがいい。以前と異なり今のお姉さんは俺に感知されるくらい人間離れし始めている」
黒髪の少年は淡々と告げた。
「とにかく座ったら? このままだと私が輩に絡まれているように見えるからね」
「そうそう、なんでも単刀直入に伝えればいいというものじゃないんだよ。まずは今日の眼鏡と結衣さんのシンクロ率から語り合うべきなんだ」
「妹が聞いていたら部室の窓から突き落とされているぞ」
「なにも言わなくても突き落とされているから問題ないさ」
「それはそれで問題だけどな」
三人は向かい合って座る。切り出したのは黒髪の少年だった。
「それで?」
「定期的に資材の取引と技術指導を受けているわ。心配なら次回、師匠を訪問するとき、あなたたちも同行すればいいでしょう。直接会って確認すれば済む話よ」
「こちらの世界にも悪意ある存在がいるとしたら?」
「あなたたちが守ってくれるんでしょう?」
結衣の淀みない返答に黒髪の少年は、しばらく無言で彼女を見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。
「なるほど。肝が据わっているなら構わないさ」
「ほら、言ったろ? 結衣さんは大丈夫だって! こんなに眼鏡の似合う女性に不用心な人なんて存在しないんだよ! それより結衣さん、その眼鏡フレーム右側のテンプルが少し汚れていますね。もしよろしければ僕が綺麗に――」
金髪の少年が興奮気味に身を乗り出すが結衣はそれを手で制した。
「結構です」
「どさくさに紛れればいけると思ったのか?」
「まあ、勝率は50%くらいだったけどな」
「一ミリも勝てる要素を見出せなかったのは俺だけか?」
「はーい、お待たせしました!」
「陽菜、ありがとう」
三人で食べるように頼んでいた二皿目のほっけが到着する。
「さあ、冷めないうちに食べましょう」
三人は並んで箸を伸ばし、身の詰まったほくほくのほっけを口に放り込んだ。
「うわ、身がすごく食べやすい」
「ほう……脂が乗っているのにしつこくない。大根おろしとの組み合わせが見事だな」
緊張のほぐれた二人の少年が、夢中になってほっけをつついていく。結衣はそんな二人を眺めながら、獺祭を一口含み小さく微笑んだ。
(この二人、一体どういう関係なんだろう? 只者ではないことは確かだけど。しかし黒髪くんの容姿は罪だわ。ほかの客だけじゃなく陽菜までちらちらと視線を向けて来てるからね)
「ふう……ごちそうさまでした。警告に来たつもりが、すっかりご馳走になってしまったな」
黒髪の少年が満足そうに息を吐く。
「あ、ほっけのお代ってテトラ持ちなんだ?」
「言葉の綾だ。会計はきちんと支払うさ」
「次回、師匠さんを訪問するときは絶対呼んでくれよな! それと眼鏡の話をもっとしよう!」
ぴょんぴょんという表現がしっくりくる動きで金髪の少年が手を振る。二人は夜の街へと帰っていった。
「賑やかな夜ね」
残された獺祭のグラスを見つめながら結衣は静かに眼鏡の位置を直す。異世界の脅威も、秘められた技術も、この温かな店の中では、すべて旨い酒と料理の肴へと変わっていく。どこまでも広がっていく賑やかな縁を乗せて、今夜もテトラ・アコードの夜は更けていくのだった。




