88 深更の火鉢と潮香る網焼きおつまみ
夜営業を完全に終えて看板を下げたあとのテトラ・アコード。いつもなら仕込みを終われば真っ先に床につく大吾が、今夜は珍しくカウンターの客席側に腰を下ろしていた。その隣にはかつて柔の料理人として技術を競い合い、今や互いの腕を認め合う良き理解者となったシオンが並んで座っている。
「考えてみれば変な話だぜ」
大吾はグラスの氷をがらりと鳴らして酒を煽る。
「異世界の客やら魔導具やらが、この店に押し寄せてきてからというもの、毎日が目まぐるしく回りやがる。瞬間急速冷凍の魔導具だの、仕入れ値0円の肉だの、便利で助かると言えば助かるんだが、なんとも言えない気分になるんだよな。俺はただ手作りの味で客の胃袋を満たしてやりてえだけなんだよ」
「ふふ、大吾らしくもない弱音だね」
シオンが優しく微笑みながらグラスを傾けた。
「しかし大前提として手作りだということを忘れてはいけない。君はいつだって料理に対して真摯に向き合っている。魔導具も調理具の上位互換と考えればいいのさ」
「上位互換にもほどがあるだろ。料理の概念を覆してんだよ。まあ確かに、便利は便利だから頼っちまうんだけどな。これが正しい道なのかわからなくなることがあるんだよ」
「だからこそ、評判を集めるんじゃないかい? 例えば君が魔導具を金儲けのために使っていたらどうだろう? 魔導具の存在を知った連中は暴動を起こすかもしれない。強奪すれば金になるわけだからね。そこまで行かなくても周りに疎まれることは間違いないだろう。大吾の運用くらいが丁度いいのさ」
「…………」
「だからこそ騎士も姫様も傷ついた若者たちも、このテトラを聖域として集うんじゃないかい? まあ、君の頑固さに周りが振り回されているのも事実だけどね」
「なんだと? 誰が頑固だ誰が!」
「二人とも今夜は少し飲み過ぎですよ」
厨房からくすりと笑いながら現れたのは理恵だった。二人の前に小さな卓上七輪を置くと、網の上へ、ぷっくりと膨らんだ大きな蛤と、太く切られたタコの足を静かに並べた。
パチパチパチッ。
炭火の熱に煽られて蛤の貝殻がゆっくりと音を立てて開く。中からじゅわじゅわと溢れ出す香ばしい出汁の泡。一方、網の上のタコは火が通るにつれてきゅっと身を引き締め、鮮やかな赤紫色へと染まっていく。
「さ、焼けましたよ。熱いうちにどうぞ」
理恵が醤油をちょろりと垂らすと、ジューッという激しい音とともに、焦げた醤油と潮の香りが芳醇に立ち上り、二人の鼻腔を直撃した。大吾は熱々の蛤を手に取ると、溢れんばかりの汁ごと口の中へ流し込み、身を豪快に噛み千切る。
「――――くうううううっ!」
「出汁が濃厚だ。貝の旨味と焦げた醤油の香ばしさが、酒で火照った身体にじんわりと染み渡りやがる。こういうのでいいんだよ、いや、こういうのがいいんだよ」
シオンも箸で香ばしく焼き上がったタコを摘まみ口へと運ぶ。
「ぷりっぷりの歯ごたえと、噛むほどに溢れるタコの強い旨味。醤油と炭火の香ばしさが重なって、これはいくらでも酒が進んでしまいますね」
二人は言葉を失い、競うように七輪の上の蛤とタコを突き、酒を酌み交わした。普段なら絶対に泥酔姿を見せない二人が、珍しく顔を真っ赤にし、グラスを何杯も空にしていく。
「たくよお、魔術だの異世界だの難しいことは全部結衣を通してからにしてくれってんだよ。俺は一介の料理人だ。美味い料理を作ることしか能がねえんだよ。そもそも家庭料理も特上寿司も美味けりゃ一緒じゃないか? それなのに高級な食材を使った料理ばかりが評価される。普段着の料理にも目を向けてくれっての!」
大吾が豪快に笑いながら熱々のタコを口に放り込む。
「ええ、その通りですね」
シオンも満足そうに目を細めた。
「どんな世界だろうと目の前にある一番旨いものを食べて美味い酒を飲む。そうして余計なモヤモヤを全部忘れて笑顔になる。それ以上に大切なことなんて最初からどこにも存在しないのですから」
「言われなくてもわかってらあ!」
熱々の蛤の出汁と芳醇な酒。二人の天才料理人は深酒の夜の底で、あらためて料理人としての最もシンプルで絶対的な原点へと行き着いたのだった。
「あらあら、二人ともすっかり出来上がっちゃって……」
空になったお銚子を下げながら、理恵は呆れつつも嬉しそうに目を細める。奥からそっと様子を窺っていた結衣が蒼い眼鏡の位置を直した。
「アルコール分解能力の低下と共感性の異常加熱。男同士の不器用な絆の再確認ですね」
夜が白み始める直前の静けさの中。香ばしい炭火の余韻と二人の心地良い笑い声に包まれながら、今夜もテトラ・アコードの夜は静かに、そして温かく更けていくのだった。




