86 溶け合うチーズと真っ赤なミニトマト
カラン、カラン。
「大吾さん、理恵さん! すっかり傷が癒えたので、ご報告に伺いました!」
テトラの木枠の扉を抜けてきたのは、以前大怪我を負ってこの世界へ流れ着き、テトラでマッシュルームガーリックを食べて活力を取り戻した青年騎士――クラウスだった。
包帯はすっかり外されて私服姿の立ち姿にもかつての凛とした力強さが戻っている。この街の人々への恩返しも順調に進み、自身の怪我も完全に完治したのだという。
「おう、クラウス。いい面構えになったじゃねえか――無事に治ってなによりだ」
大吾は厨房から顔を出し、不器用に目を細めた。
「はい! 大吾さんの料理に元気をいただいたお陰です。実はもうすぐ故郷へ戻る目処が立ちそうでして、今夜はそのお礼とご報告にと思い立ち寄りました」
「もうすぐ帰れるんだね。よかった!」
陽菜が自分のことのように目を輝かせて喜ぶ。
「よし、なら今夜は旅立ちの祝杯だ。向こうの文化にも馴染みがありそうで、みんなで突っ込める料理を出してやる」
大吾が取り出したのは、厚手の耐熱陶器と、たっぷりのナチュラルチーズ、そして白ワインだった。小鍋の中でぐつぐつと泡立つ、とろとろの溶けたチーズ。白ワインの豊かな風味とニンニクの香気が立ち上り、芳醇な匂いが店内に広がる。
「お待ち。チーズフォンデュだ。一口大に切ったフランスパンや温野菜を、長めのフォークで刺してこの溶けたチーズにたっぷり絡めて食いな」
大吾は卓上コンロとともに器を差し出すとクラウスは目を丸くした。
「これは……とろとろに溶かしたチーズにパンを絡めて食べる料理! 母国にはありませんでしたが、雪深い北方の山脈地帯の民が似たような料理を作っていると聞いたことがあります。なんだか、すごく懐かしい感覚です」
クラウスは言われた通り、長いフォークで香ばしく焼かれたパンを刺し、熱々のチーズの海へと潜らせた。
とろ~り。
たっぷりチーズを纏わせたパンを、ふーふーと冷まして口へ運ぶ。
――――っ!
「美味いっ! 白ワインの香りとニンニクのパンチ、そして濃密なチーズのコクが一気に押し寄せてくる! 寒い冬に暖炉の前でつつくのに最高の料理ですね」
「ふふふ、でしょう? でもね、クラウスさん。これだけじゃないのよ」
ここで理恵が奥から小さな小鉢を運んでくる。中に入っているのは艶やかに輝く真っ赤なミニトマトだった。
「理恵さん、これは? トマトをチーズに?」
「ええ。意外かもしれないけれど、酸味のあるミニトマトと濃厚なチーズって相性がいいの。熱々のチーズにくぐらせて、口の中でぷちっと弾けさせてみて」
クラウスは不思議そうにしながらも、フォークで真っ赤なミニトマトを刺し、熱々のチーズを絡めて口に含んだ。
プチッ、ジュワァッ!
弾けた瞬間、口いっぱいに広がる甘酸っぱいトマトの果汁。それが濃厚なチーズのコクと見事に調和し、爽やかな後味を残して喉を通っていく。その瞬間――クラウスの動きがぴたりと止まった。
「クラウスさん?」
陽菜が心配そうに覗き込むと、クラウスの目からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、テーブルへと零れ落ちた。
「あ……す、すみません……涙なんて」
クラウスは慌てて袖で目を拭いながら、どこか愛おしそうに小鉢のミニトマトを見つめた。
「故郷の我が家の庭に母が大切に育てていた小さな赤い実がなる菜園があったんです。子供の頃、傷を作って泣いて帰ると母がいつもその実を摘んで『これを食べれば元気になる』と笑って食べさせてくれました」
温かいチーズの湯気、理恵が優しく差し出してくれた真っ赤なミニトマト、そして「意外と合うよ」という温かい言葉。それらすべてが重なり合い、クラウスの胸の中に眠っていた母親の温もりと故郷の風景を一気に呼び覚ましたのである。
「母がくれた優しさにそっくりで」
「そうだったのね。思い出させてしまってごめんなさいね」
理恵は包み込むような優しい笑顔で、そっとクラウスの肩を撫でた。
「いいえ、謝らないでください! むしろ感謝しかありません」
クラウスは涙を拭い晴れ晴れとした笑顔で残りのミニトマトとパンをチーズに絡めて大切に頬張った。
「この味を母への土産話にして胸を張って故郷へ帰ります。怪我を治してくれたこの街の人々、そして私に前を向く力をくれたテトラの皆さんに心からの感謝を」
結衣は蒼い眼鏡の位置を直した。
「クエン酸とリコピンによる疲労回復、ならびに情動記憶の想起による精神的充足。旅立つ騎士への完璧な餞の一皿ね」
「気をつけて帰れよ。向こうでまた怪我なんてすんじゃねえぞ」
大吾はぶっきらぼうに、だが温かく声をかける。
「はい! 本当にお世話になりました!」
溢れた涙と温かなチーズの余韻。故郷への愛と感謝を胸に刻み、青年騎士は新たな歩みを進めるため、夜のテトラ・アコードを後にしたのだった。




