85 土鍋の温もりと姫君の鍋焼きうどん
カラン、カラン。
「こんばんは! 先日の天津飯があまりに素晴らしかったので、どうしてもまたお邪魔したくて来ちゃいました」
夜のピークが過ぎた頃、テトラ・アコードの扉が開いた。現れたのは街の娘に扮したフローラ姫と、若き宮廷料理人カトリーナの二人である。
「いらっしゃい! フローラさん、カトリーナさん!」
陽菜は明るい笑顔でお冷を運んで出迎える。
「あの……今日は大吾さんに一つ相談がございまして」
カトリーナは真剣な表情で、しかし声を潜めて切り出した。
「前回の天津飯のような重厚な美味も捨て難いのですが……今夜は御飯もの以外で身体の芯から温まるような熱々の和風麺料理をいただきたいのです」
「御飯もの以外で熱々の和風麺ねえ」
厨房で包丁を研いでいた大吾は不意に口元を緩めた。
「それなら向こうじゃ絶対に拝めねえ、伝統的な熱々麺を出してやる。一人前ずつの小さな土鍋で提供する料理だ」
「土鍋……でございますか?」
フローラ姫は好奇心に満ちた青い瞳を輝かせた。言葉遣いまで変化している。
大吾は一人用の小さな土鍋を火にかけ、昆布と鰹節で引いた黄金色の一番出汁をなみなみと注ぎ込んだ。煮立った出汁へシコシコとした極太の讃岐うどんを投入。そこに海老の天ぷら、甘辛く煮た椎茸、かまぼこ、鶏もも肉、長ネギ、生麩、仕上げに新鮮な生卵を真ん中にぽとんと落として土鍋の蓋を閉める。
ぐつぐつぐつ!
蓋の穴から勢いよく真っ白な蒸気が噴き出し、出汁とつゆの香ばしい香りが店内に充満していく。そろそろ完成だ。
「お待ち。火傷しないよう気をつけろよ」
テーブルに運ばれた土鍋の蓋を大吾が取ると、ぱっと眩い湯気が舞い上がり、色とりどりの具材が踊る鍋焼きうどんが姿を現した。
「まあ! なんて愛らしい器! お鍋ごといただくお料理なのですか?」
見たこともない熱々の土鍋スタイルに、フローラ姫とカトリーナは目を丸くした。
「ふふふ、基本的にはそうね。熱々を鍋から直接頂いてもいいんだけど、取り皿に移して食べるのもありだから渡しておくね」
理恵は優しく小鉢とレンゲを差し出す。カトリーナは職人らしい鋭い観察眼で土鍋を見つめながら、ふーふーと息を吹きかけて出汁を一口含む。
ズズズッ!
カトリーナの背筋がぴんと伸びた。
「な、なんという深み! 鶏肉から出た旨味と甘辛い椎茸の出汁、そして海老天の衣から溶け出した香ばしい油が、和風出汁と完璧に融合している! これは単なるスープではなく、すべての具材が織りなす極上のスープです!」
「結局はスープなのね、カトリーナ」
フローラ姫は出汁を吸った極太のうどんを小鉢に取り、ふーふーと冷ましてから麺を啜る。ちゅるちゅるちゅるっと口の中に麺が飛び込んできた。
「美味しいっ!」
フローラ姫は思わず両手を頬に当てた。
「麺がもっちもちで噛む度に温かいお出汁がじゅわっと溢れ出てきます! それにこの真ん中の卵を崩すと――」
とろりと黄色い黄身が弾け、出汁とうどんに絡みつく。
「卵のまろやかさが加わって、一気に優しいお味に変化致しましたわ! えびの天ぷらも衣がとろーりとしていて……異世界では絶対に味わえない、なんて温かくて贅沢なお味でしょう!」
二人は夢中になって鍋焼きうどんを頬張り続ける。結衣が蒼い眼鏡の位置を直した。
「多孔質な土鍋の保温効果と遠赤外線による全方位への熱伝導。最後まで冷めずに旨味が変化し続ける究極の熱保持調理法ですね」
「はあああああ……ごちそうさまでした! お腹の底からぽかぽかと温かい力が湧いてくるようですわ」
出汁の一滴まで飲み干したフローラ姫が、うっとりと頬を染めて息を吐く。
「前回の天津飯に続き、またしても料理人としての敗北感を味わいました。土鍋という器そのものを調理器具兼食器として使う発想……宮廷料理にも必ず取り入れさせていただきます」
カトリーナは深く頭を下げ、真剣な眼差しで大吾を見つめた。
「参考になればそれでいい。熱いもんは熱いうちに食うのが一番美味いってだけさ」
大吾は満足そうに腕を組む。
「またいつでもいらしてくださいね! 次はどんな和風料理にしようかな?」
陽菜は楽しそうに笑いながら器を下げていく。
正体を隠した姫君と料理人が見せた至福の笑顔。土鍋から立ち上る温かな湯気とともに、今夜もテトラ・アコードの夜は優しく更けていく。




