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84 解けかけた魔法と繋ぎ止める濃厚親子丼

 夜の営業が終わり、まかないの時間。

 今夜の大吾が作るのは特製親子丼だ。


 割り下でじっくり煮込んだジューシーな鶏肉を濃厚な生卵でふんわりと綴じる。仕上げに中央へ輝く黄身をぽとんと落とした鶏の旨味が凝縮された至高の一杯だ。


「んーっ! やっぱりお父さんの親子丼は最高! 鶏肉はぷりぷりだし、卵はとろっとろ!」


 陽菜はレンゲを動かしながら美味そうに頬を緩める。


「それにしても親子丼って名前、よく考えたらすごいよね。親の鶏肉と子の卵が一緒になって一つの丼で完成するから親子なんだよ。離れていても切っても切れない強い絆がある――みたいなさ!」


 陽菜が熱っぽく語っていると、隣の席で俯いていた見慣れぬ若い女性が顔を上げた。ちなみにテトラでは寝ている客を無理に起こすことはない。もちろん戸締りの段階でも寝ていたら話は別だ。


「離れていても……切っても切れない……絆?」


 涙ぐんだ目で陽菜を見つめてきたその少女――ナディアは、ぽつりぽつりと自身の事情を打ち明け始めた。


「お父さんと大喧嘩をして、家を飛び出してきたんです。有体ですけど『お前のことなんて、もう知らん!』って言われて……ショックで逃げてきて……いつの間にかここに辿り着いていました」

「そっか……お父さんと喧嘩しちゃったんだ。でも大丈夫! 根拠はないけどね。とりあえず温かいもの食べて元気を出しなよ!」


 陽菜の勧めもあり大吾はナディアの前にも熱々の親子丼を差し出した。


「いただきます」


 ナディアは震える手でレンゲを取り、とろとろの卵と鶏肉を一口含んだ。食べた瞬間、少女の目からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。


「美味しいっ! 濃厚で温かくて……なんだか……あんなに怒っていたお父さんの不器用な優しさを思い出します……本当は私を心配してくれていたのに――」


 感動しながら夢中で食べ進めるナディア。しかし少女が心の底から感動し、感情が高ぶったその瞬間――異変が起きた。


 ぽわん。


 ナディアの頭頂部から突如として尖った耳がにょきっと飛び出したのだ。さらに尻の辺りから立派な尻尾がごごごごと膨らみ始める。


「え、ええええええええええーっ!」


 陽菜は絶叫した。


 実はナディアの正体は異世界の人里離れた森に棲む高級魔獣の子供だったのだ。こちらの世界を見たくて大喧嘩の末飛び出し、街の魔法使いに頼んで人間の姿に変えてもらっていたのだが――感動で感情が揺れ動いたことで、魔法が解けかけてしまったのである。


「や、やばい! 魔法が溶けちゃう! このままじゃ帰り道を歩けなくなる!」


 慌てふためくナディア。


「おいおい! うちの店で魔獣なんかに戻られたら大騒ぎになっちまうぞ!」


 珍しく焦った大吾は中華鍋を落としそうになる。当初は異世界について無関心だったが、耳に入る情報として獣人と魔獣がまったく別物であることは理解していた。


「騒がないで。落ち着きなさい」


 混乱する店内に冷徹で静かな声が響いた。結衣である。落ち着いた手つきでポケットから小さく美しいガラスの香水瓶を取り出した。


「お姉ちゃん、それ?」

「以前に高位の幻惑魔法を得意とするエレノアさんから頂いた認知遮断と変身安定の香水よ。強い魔法的動揺を抑えて一時的に元の姿の認識を固定する効果があるわ」


 結衣はナディアの頭上に向けて、香水をシュッ、シュッ、シュッと吹きかけた。甘くミステリアスな花の香りが漂うと同時に、ナディアの頭から飛び出していた耳と尻尾が、まるで幻だったかのようにすーっと消えていく。


「ふう……間一髪でしたね」


 結衣は蒼い眼鏡の位置を直した。


「た、助かったああああああああああっ! ありがとう、お姉ちゃん!」


 ナディアは身体を見回し、ほっと胸を撫で下ろした。


「ふう、肝を冷やしたぜ。だがナディア、料理の親子は丼の中で一つになれた。お前も素直になって、お父さんの元へ帰りな」


 大吾は腕を組みながら不器用に呟く。


「はい! この親子丼の味と皆さんの優しさを胸に……ちゃんとお父さんに謝って仲直りしてきます!」


 ナディアは晴れやかな笑顔で残りの親子丼を綺麗に平らげると力強い足取りで店を後にしていった。


「ああ、面白かった! 無事に仲直りできるといいね」


 陽菜は空になった丼を下げながら笑う。


「ふん。喧嘩ができるのも、ちゃんとした親子の証拠さ」


 大吾は満足そうに腕を組む。


 解けかけた魔法と繋ぎ止めた温かな一杯。今夜もテトラ・アコードの夜は、優しく味わい深い余韻を残して静かに更けていくのだった。

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