82 傷痕と故郷のマッシュルームガーリック
がらりと音を立ててテトラ・アコードの扉が開いた。夕暮れ時の店内に入ってきたのは見慣れぬ私服姿の青年だった。どこかぎこちない足取り、服の上からでもわかる体幹の硬さ。そして右腕から肩にかけて巻かれた包帯。只者ではない佇まいだが、その瞳には深い疲労と迷いが滲んでいた。
「いらっしゃい。どうした……怪我人か?」
カウンターの中から大吾が声をかけると、青年ははっとしたように姿勢を正した。
「すみません……ここが美味しい料理を出す店だと聞いて。私の名はクラウス。騎士を……やっていた者です」
聞けばクラウスは大怪我を負った戦闘の最中、空間の歪みに巻き込まれてこの世界へ漂着したのだという。奇跡的に命を取り留め、この街の人々に助けられながら療養生活を送っている。
理恵が温かいお茶を差し出す。
「それは大変でしたね。もう身体は大丈夫なんですか?」
「ええ、傷は随分と癒えました。本来なら一刻も早く故郷へ戻り、騎士としての使命を果たさねばならないのですが――」
クラウスは茶の湯気を見つめながら――ぽつりと呟いた。
「見ず知らずの私を介抱し、温かく迎えてくれたこの街の人々に、きちんと恩返しをするまでは、とても帰る気にはなれません。ですが……夜になるとふと考えてしまうのです。故郷の城下町で食べた、あの懐かしい味を――」
故郷への情熱と助けてくれた人々への義理立て。二つの思いに挟まれて青年の心は擦り減っていたのだ。
「故郷の味――ね」
大吾は腕を組んでクラウスの身なりと手元をじっと見つめた。騎士の国――おそらく香辛料やハーブ、オイルを使った無骨で力強い料理が主食だったはずだ。そして今の彼に必要なのは、傷ついた身体を芯から温め、明日への活力を湧き立たせる強い一撃。
「少し待ってな。おあつらえ向きのやつを作ってやる」
大吾は奥の厨房へ引っ込むと、丸々と太った新鮮なホワイトマッシュルームを取り出した。
じゅうじゅうと小さな耐熱器の中でオリーブオイルが激しく泡立っている。刻みニンニクの香ばしいかおりと鷹の爪の刺激的な辛みが店内いっぱいに広がっていく。
「お待ち。マッシュルームガーリックだ」
大吾が差し出したのはぐつぐつと沸き立つ熱々のオイルと、こんがり焼かれたバゲットのセットだった。
「これは……オリーブオイルとニンニク……それにマッシュルームですか?」
クラウスの目が丸くなる。オイルの海にはカットされていない丸ごとのマッシュルームがごろごろと転がっていた。
「熱いうちに火傷しないよう気をつけて食いな」
クラウスは添えられたフォークを取り、気をつけながらマッシュルームを一つ掬い上げた。オイルを纏ってツヤツヤと輝くそれを、ふーふーと息を吹きかけてから口へと運ぶ。
――――っ!
クラウスの身体が、ぴくんと強張った。
がぶっと噛みついた瞬間、ぷりっとした弾力のある歯ごたえとともに、マッシュルームの傘の中に閉じ込められていた熱々の旨味エキスが爆発する。
――ジュワァァァァァッ!
「熱っ! でも……う、美味いっ!」
ニンニクの力強い風味とパンチのある塩気が、マッシュルームの濃厚なキノコ汁と混ざり合い口の中を駆け巡る。単純にして豪快。だが、素材の旨味がダイレクトに脳を揺さぶる。
「この熱さ、このニンニクのコク! 故郷の遠征先で仲間たちと焚き火を囲みながら食べた料理にそっくりだ!」
クラウスは夢中でバゲットを手にとり、底に残った香ばしいガーリックオイルにたっぷりと浸した。オイルを吸ったパンを口に放り込む。
――ザクッ、ジュワッ!
「くぅーっ! パンがオイルを吸って堪らない! 身体の底から熱が湧いてくるようだ!」
バゲットでオイルを拭い、またマッシュルームを頬張る。一噛みごとに傷ついた身体に力が満ちていく。胸の隙間が熱いオイルとガーリックの香りでいっぱいに満たされていく。
「ふう……美味い。本当に美味いぞ!」
クラウスの目から一粒の涙が零れ落ちた。
最後の一滴まで綺麗にすくい取った青年は深い息を吐いた。その表情からは先ほどまでの迷いや悲壮感が消え、騎士らしい凛とした強さが戻っていた。
「ごちそうさまでした。お陰様で忘れていた進むべき道を思い出せました」
クラウスは立ち上がって大吾に深く頭を下げた。
「恩返しを終えて胸を張って故郷へ帰るその日まで――私はこの街で精一杯働きます。そしてまた身体と心が折れそうになったら――」
クラウスは力強い笑みを浮かべた。
「また来ます。この味を食べに」
「おう。いつでも待ってるぜ」
大吾は不器用に鼻を鳴らす。
クラウスは軽やかな足取りでテトラ・アコードをあとにした。夜の風が吹く街へと消えていくその背中は、もう迷うことなく、しっかりと前を見据えていた。




