80 異世界の祝宴と二枚のざる蕎麦
「いらっしゃい、ミレイちゃん――と、今日はお連れ様も一緒かな?」
店主の大吾は扉を抜けてきた二人を出迎える。ミレイの隣には背筋を伸ばしつつもどこか遠慮がちに店内を見回す老淑女が立っていた。ミレイの祖母――エレノアである。
「大吾さん、今日はおばあ様を連れてきたの。異世界にはない料理で驚かせてあげたくて!」
「そういうことなら任せておけ」
大吾は腕を捲り直すと、奥の厨房へと向かった。異世界の国によっては麺類という概念そのものが存在しない。細長い料理といえば干し肉や野菜の千切り程度で、出汁の効いたつゆに浸して麺をすする文化など、エレノアは見たこともないはずだ。
選んだメニューは打ちたての十割蕎麦と揚げたての揚げ出し豆腐。最初に登場してきたのは衣に染み込んだ琥珀色の出汁が湯気を立てる揚げ出し豆腐だった。
「揚げ出し豆腐だ、試してくれ」
「まあ、お上品な味。外は香ばしくて中は驚くほど滑らかですこと。この風味豊かな温かいスープは一体どのような魔法がかかっているのかしら?」
一口食べたエレノアの目は丸くなる。大吾はせいろに盛られた瑞々しい黒褐色の蕎麦と、薬味のネギと生わさびを卓に並べた。
「これは『ざる蕎麦』と言ってね。つゆに少しつけて一気にすするんだ」
大吾のお手本にならい、ミレイはつるつるっと軽快な音を立てて蕎麦をすする。エレノアは最初、上品にフォークで食べようとしたものの、ミレイの楽しそうな様子に釣られて箸に持ち替えた。つゆを絡めておずおずと口へ運ぶ。鼻を抜ける芳醇な蕎麦粉の香りと、鰹節と昆布の深い出汁の味わい。つるりと喉を滑り落ちる未知の食感にエレノアは一瞬息を飲む。
「素晴らしいわ。こんなに風味が豊かで、心地よい食べ物があったなんて」
食が細く普段は数口で満足してしまうのが、今日のエレノアの箸は止まらなかった。勢いよく食べるミレイと顔を見合わせ、微笑みながら箸を進めるうちに、一枚目のせいろはあっという間に空になった。
「おばあ様にもう一枚おかわりをちょうだい!」
「はいよ!」
結局、エレノアはミレイに釣られるようにして蕎麦を二枚も平らげてしまった。最後に出された白濁した蕎麦湯をつゆに注いで飲み干すと心底満足そうに息を吐く。
「おばあ様ったら、そんなに食べても大丈夫なんですか? あ、そうだ、忘れていました。渡したいものがあったんです」
ミレイは悪戯っぽく笑うと、鞄の中から小さな小箱を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
「お誕生日おめでとう、おばあ様。本当はね、今日ここへ連れてきたのは、おばあ様の七十回目の生誕祭を祝うためだったの」
エレノアは驚いたように目をぱちくりとさせ、それから愛おしそうに孫の顔を見つめた。
「まあ……そうだったのね。このような素晴らしい異世界の祝宴を用意してくれるなんて。今年のお誕生日は間違いなく一生の思い出になりますね」
温かい湯気が立ち上る店内で、エレノアの穏やかな笑顔と、ミレイの弾んだ声が心地よく響いていた。




