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73 四百年越しの林檎と蒼き眼鏡の誓約

 鬱蒼と茂る樹々の隙間から差し込む光を浴びながら、結衣は淡々と落ち葉を踏み締めて歩いていた。彼女が手に握り締めているのは、街の魔導具店で購入したばかりの小さな魔よけの鈴。鳴らす度に軽やかな音色とともに魔物を遠ざけるこの鈴は、使い切りかつ非常に高価な代物だが、この深い森を安全に散策するためには不可欠な道具だった。


 今回の目的は自身のトレードマークであり、分析の源でもある蒼い眼鏡への魔力補充である。森の奥深く深い霧を抜けた先に佇む重厚な西洋館。結衣が重い扉を叩くと、中から澄んだ青年の声が響いた。


「やあ、結衣。また眼鏡の魔力が薄れてきたのかい?」


 出迎えたのは白銀の髪に透き通るような青い瞳を持つ美青年――この館の主である大魔導士ルシアンだった。二十歳そこそこの可憐な青年にしか見えないが実は齢四百歳を超えている。しかしその身に秘めた魔力は一国を滅ぼし得るほど絶大だ。


「ええ、ルシアン様。いつも通り魔力の充填をお願いしたくて伺いました」


 館の応接室に通された結衣が眼鏡を外して手渡すと、ルシアンは愛おしそうにそのフレームを指先でなぞった。


「君と出会ったのも――この森だったね。あの日のことをよく覚えているよ」

「ええ」


 結衣は静かに視線を伏せ、過去の記憶を呼び覚ました。


 かつてテトラの料理の隠し味となる異世界のハーブを採取するため、結衣は一人で森の深部まで進んでいた。しかし運悪く強力な魔物に囲まれて絶体絶命の危機に陥る。


 死を覚悟した瞬間、一筋の閃光とともに魔物たちは一瞬で蒸発。そこに舞い降りたのが気まぐれで森を散歩していた大魔導士ルシアンだった。このとき命を救われたお礼にと、結衣がバスケットから取り出して贈ったのが、理恵が焼いた自家製のアップルパイだった。これが二人の縁の始まりとなる。


「あの時、君からもらった赤い実の菓子の衝撃は今でも忘れられない。それまで私にとって林檎とは、木からもぎ取って、そのまま丸齧りするものだったからね」

「ですから今日もお母さんが焼き上げた特製のアップルパイを持参致しました」


 結衣は大切に抱えていた保温箱から、焼き立てのアップルパイを取り出した。箱を開けた瞬間、部屋いっぱいに広がる芳醇な発酵バターの香りと甘酸っぱく煮詰められたシナモン林檎の甘い香り。


「おおっ!」


 ルシアンの青い瞳が少年のように輝いた。長年あらゆる贅を尽くした大魔導士にとっても、理恵が手間暇かけて仕込んだ何層にも重なるサクサクのパイ生地と極上の蜜煮林檎の組み合わせは、至高の芸術品にほかならなかった。ルシアンは優雅な手つきでフォークをパイに入れて口に含む。


 ――サクッ、トローリ。


「素晴らしい! 甘み、酸味、そして生地の香ばしさ。これほどの調和は四百年の人生でもそうは出会えない」


 ルシアンは感銘を受けたように吐息を吐くと、そっと結衣の眼鏡に自身の掌をかざした。眩いばかりの銀色の光が眼鏡に吸い込まれ、レンズが蒼く鋭い輝きを取り戻していく。


「魔力の充填は完了だ」

「ありがとうございます、ルシアン様」


 眼鏡をかけ直した結衣に、ルシアンは優しく微笑みながら新たな提案を口にした。


「結衣、提案がある。これからは眼鏡の魔力が切れたときだけでなく、定期的に私のもとへそのアップルパイを持ってきてはくれないかい? 報酬として私の力を借りたいときはいつでも訪ねてくるといい。何度でも助けてやろう」


 さらにルシアンは結衣が机の上に置いていた使い切りの魔よけの鈴を指差して悪戯っぽく目を細めた。


「それと君がここへ通うための魔よけの鈴の購入資金もすべて私が金貨で出そう。君のような貴重な客人を森の魔物ごときに邪魔させるわけにはいかないからね」

「アップルパイの対価として、防犯用魔導具の維持費全額補助は極めて破格の取引条件ですね。その提案、謹んでお受けします」


 結衣は蒼い眼鏡の位置を直して静かに微笑んだ。


 夕暮れ時、魔よけの鈴を優しく鳴らしながら森を抜けた結衣は、待っている家族の元へと足早に帰路につく。四百年の孤独を癒す温かい甘みと、少女の蒼い眼鏡に宿る不滅の輝き。今夜もテトラ・アコードの料理は、世界と時間を超えて、かけがえのない絆を紡ぎ続けていたのだった。


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