72 ドワーフの鍛冶師と三層の重厚なるラザニア
――カラン、カラン。
夜のピークを過ぎて落ち着きを取り戻したテトラ・アコードの重厚な木枠の扉が開いた。現れたのは赤茶色の髭を蓄えた小柄で頑強な鍛冶職人ドワーフのバルドである。
普段なら店に入るや否や新製品について騒ぎ立て、酒を飲み肉をがつがつと食べるのがバルドだった。だが今夜は違う。短く頑丈な体躯でカウンターの端に腰を下ろすと、珍しく卓上のパウチされたメニュー表を手に取り、太い指でパラパラと静かに捲っていたのである。
「バルドさん、珍しいですね。なにか気になるメニューでもありましたか?」
陽菜が冷たいお茶を出しながら尋ねると、バルドのごつごつした指がある写真のページで止まった。
「これだ」
バルドが指し示したのは、グラタン皿でふつふつと黄金色のチーズが泡立つ、重厚なイタリア料理ラザニアだった。
「お父さーん、ラザニア!
「ラザニアか……少々待ってな」
大吾は馴染みのドワーフだろうと特別扱いは一切しない。メニューに載せている通りのラザニアをいつもの手順で仕込みに入った。
じっくり煮込んだ特製ボロネーゼと、なめらかなホワイトソース。耐熱皿に自家製の平面パスタ、ボロネーゼ、ホワイトソースを層のように幾重にも重ね、たっぷりのモッツァレラとパルミジャーノ・レッジャーノを散らす。オーブンに入れて高温でじっくりと焼き上げること十数分――完成だ。
「お待たせ。熱いから気をつけな」
ジューッと香ばしい焼き音を立てる、黄金色のラザニアがバルドの前に運ばれた。バルドはフォークを手に取ると、積層されたパスタとソースの層へ豪快に突き立てる。ハチミツ色に焦げたチーズがとろりと尾を引いて伸びた。
――ハフッ、ハフッ!
口に含んだ瞬間、バルドの太い眉根がぴくりと動いた。噛み締める度に牛肉の溢れる肉汁とトマトのコク、ホワイトソースのまろやかなミルクの風味が一体となって押し寄せる。なによりモチモチとした平面パスタがソースをしっかりと受け止め、鍛冶仕事で疲れた身体に沁み渡る重厚なハーモニーを奏でるのだ。
「…………」
バルドは無言のままフォークを動かし続け、あっという間に一皿目を平らげてしまった。そして空になった皿を大吾に差し出す。
「おかわりだ」
「任せとけ」
大吾は動じることなく、二皿目の焼き上げに入る。二皿目もドワーフらしい豪快な食べっぷりで瞬く間に胃袋へと消えていき――そして。
「もう一皿頼む」
「三皿目か……わかった」
大吾は苦笑しながらも、手際よく三皿目のラザニアを焼き上げた。店内には香ばしいチーズとソースの香りが満ち、結衣が「ドワーフの強い筋力と骨格を維持するための栄養補給として極めて効率的な選択ですね」と呟く。
三皿目を最後の一すくいまで綺麗に平らげたバルドは、立派な髭を擦りながら深く満足したように息を吐いた。
「ふう……美味かった。肉と乳の濃厚な層が腹の底まで満たしてくれる」
バルドが満足そうに呟くと大吾は厨房からテイクアウト用のアルミ保温容器をぽんぽんと叩いて見せた。
「気に入ったならなによりだ。ラザニアなら冷めても温め直せば美味いし、専用のテイクアウト容器もあるぜ。これなら大量に作って異世界へ持って帰ることもできるが――どうだ?」
その言葉を聞いた瞬間、バルドの眼光がかっと見開かれた。
「工房へ持ち帰れるだと?」
あからさまに歓喜の色を隠せない顔になる。
「蓋を密閉して保温バッグに入れておけば数時間は温かいままだし、冷めても鍛冶場の熱で軽く温め直せばこの味が再現できる。工房の弟子や仲間に食わせてやるのにも丁度いいだろ」
「大吾、次は十皿――いや、二十皿予約させてもらおう! 今夜はこれで失礼する」
バルドは金貨をカウンターに置くと、ドワーフとは思えない軽やかな足取りで、弾むように扉を開けて帰っていった。
「あんなに嬉しそうなバルドさん初めて見たかも! 弟子のみんなにも食べさせてあげたいのかな」
陽菜は楽しそうに笑いながら皿を下げていく。
「頑固者だが美味いものを身内に分け合いたい気持ちは同じってことだな」
「でもバルドさん、いつもと様子が違ったよね? なにかあったのかな?」
「あいつにも悩みの一つや二つはあるだろ。そもそもメニュー表を開いている時点で様子がおかしいんだよ」
「あはは、確かにそうだね」
「気になったのは支払いを金貨で済ませたことだ。いつもは頼んでもいない鉄板を置いていくか無銭飲食の二択だからな」
「あはは……でも無銭飲食は可哀想だよ」
「冗談だ。これまでもらった鉄板だけで一生食べ放題で構わないからな」
「そんなこと言ったらバルドさん、仕事しないで毎日ここに通うかもよ?」
「だから言わねえんだよ」
「ところでお父さん、金貨の換金はどうしてるの?」
「そういうのは結衣の仕事だ。ただ一度聞いたことはあるんだよ、そうしたらな、こっちの世界と異世界では同じ金貨といっても成分が違うらしい。金貨として店に持って行ったら偽物と鑑定されるらしいぞ」
「怖っ!」
「でもまあ、変わった成分を含むコインとしてなら価値はあるらしい」
「お姉ちゃん、もう異世界学者として生きていけるんじゃない?」
「それだけは勘弁してくれ」
ぶんぶんと大吾は首を横に振った。
言葉数は少なくても、食を通じて通じ合う心。重厚に層を為すラザニアのように温かい絆を乗せて、今夜もテトラ・アコードの夜は優しく更けていくのだった。




