71 モロッコの風と異国の記憶を呼び覚ますハリラスープ
深夜の厨房で大吾は寸胴鍋の前に立ち腕を組んで思案していた。
「羊肉にひよこ豆、レンズ豆、トマトに香辛料。モロッコの伝統料理ハリラスープ」
異世界の客が増えたテトラ・アコード。彼らの食文化を観察していた大吾は、香辛料を効かせた豆と肉のスープなら、異世界から来た冒険者や騎士たちの口にも必ず合うはずだと踏み、数日前から試行錯誤を重ねていたのだ。
羊肉のクセを削ぎ落としつつ、旨味だけを抽出し、クミンやコリアンダー、シナモンといったスパイスの黄金比率を模索する。そして仕上げにとろみをつける溶き卵と新鮮なパクチー。好みによるがレモンも添えておく。
「よし……完成だ」
大吾の手によって異国情緒あふれるスパイシーで芳醇な香りを放つ至高のハリラスープが仕上がった。
「はいよ陽菜、試食だ。熱いうちに食ってみな」
大吾がカウンターに置いたのは鮮やかな赤いスープ。大きなひよこ豆やレンズ豆、柔らかく煮込まれた羊肉がゴロゴロと入っている。
「わあ、美味しそう! いただきます!」
陽菜は添えられたレモンをギュッと絞り、スプーンでスープを一口すくって口へ運ぶ。
「んんんっ! すごい、お父さん!」
陽菜の瞳が輝く。
「スパイシーなのにすごく優しい味! トマトの甘酸っぱさとレモンの爽やかさがあって、豆がホクホクしててすっごく美味しい! スパイスの香りが身体の中から温めてくれる感じがするよ!」
――カラン、カラン。
「夜分遅くにすまないな。少し喉を潤したくて立ち寄ったのだが――ん?」
甲冑を鳴らして入ってきたのは騎士エルザだった。店内に満ちるエキゾチックなスパイスの香りに足がピタリと止まる。
「その香りは……なにか新しい料理か?」
「おう、エルザ。モロッコのハリラスープってやつを試作してみたんだ。羊肉と豆のスープだ。良かったら食っていくか?」
「ハリラスープ? ありがたく頂戴しよう」
エルザは出されたスープを静かに見つめた。赤く澄んだスープから立ち上る、クミンとコリアンダーのオリエンタルな香り。スプーンを取り口に含んだ瞬間――エルザのアメジスト色の瞳が大きく見開かれた。
「これはっ!」
舌の上に広がるトマトの絶妙な酸味と羊肉の濃厚なコク。そして後味を爽やかに抜けていくスパイスとレモンの余韻。エルザは言葉を失ったまま、二口、三口と夢中でスープを口へと運んだ。
「懐かしい」
エルザの口から漏れたのは、感嘆ではなく、深い郷愁を帯びた呟きだった。
「エルザさん?」
陽菜が不思議そうに顔を覗き込むと、エルザはどこか遠くを見るような優しい目で微笑んだ。
「この料理……私がかつて騎士団の遠征で訪れた南方の大砂漠に面するサハラニア国で振る舞われた伝統のスープと恐ろしいほど酷似しているのだ」
「ほう、南方の異国料理と酷似ね」
大吾は興味深そうに先を促す。
「あの地は昼夜の寒暖差が激しく、過酷な遠征で隊員たちもすっかり参っていた。その時、現地の民が振る舞ってくれたのが、このスープによく似た豆と羊の温かいスープだったのだ。これを飲むと砂漠の冷える夜であっても、身体の底から熱が湧き上がり、遠く離れた故郷を想って涙が出たものだ」
スープに浮かぶひよこ豆を愛おしそうに見つめ、エルザはゆっくりと噛み締めた。
「大吾殿の作るこのハリラスープは、あの時に味わった温もりそのものだ。いや、スパイスの調和と肉の柔らかさは、あの一杯を遥かに凌駕しているな」
カウンターの端で結衣が蒼い眼鏡の位置をすっと直した。
「北アフリカの伝統文化が生んだハリラスープと、異世界サハラニアの風土料理との構造的一致。食文化における普遍的必然性が実証されましたね」
「あはは、エルザさんに喜んでもらえてよかったね」
陽菜が嬉しそうに笑う。
「ふん、ただの偶然だ。だが異世界の客にも通用することがわかった。近いうちにグランドメニューに入れてやるか?」
大吾は照れくさそうに頭を掻き寸胴鍋の火を弱めた。
「うむ! その時は私にも一番に知らせてくれ。部下たちにもこの温かさを味あわせてやりたい」
南国の風と遠い記憶を呼び覚ます温かい一杯。今夜もテトラ・アコードは、国境も世界も越える奇跡の美味とともに、人々の心を静かに温め続けていたのだった。




