70 魔法の使えない厨房と十二色の手作りカレー
「はい、みなさん! 焦らなくて大丈夫ですよ。まずは人参の皮から剥いていきましょうね」
いつもなら異世界の冒険者や騎士、はたまた魔法使いが入り乱れるテトラ・アコードの厨房で包丁を振るう理恵。しかし今日の彼女が立っていたのは地元のコミュニティセンターにある調理実習室だった。役目は地域から依頼された初心者向け料理教室の特別講師である。集まった生徒たちは定年退職を迎えたばかりの男性や、これまで一度も包丁を握ったことがないという中高年の男性たちが大半だった。
「先生! この包丁というやつは、どのように扱えばいいんですかね? 真っ直ぐ切ろうとすると指を落としそうで怖くて――」
「刃の根元を指で押さえるようにして、猫の手で抑えて――あ、でも大丈夫です! 無理に包丁を使わなくてもいいんですよ」
理恵は微笑みながらステンレスのトレイから秘密兵器を取り出した。
「包丁が怖いときは――このピーラーを使ってみましょう! 人参も大根も上から下へすーっと滑らせるだけで危なくなく綺麗に皮が剥けますからね」
「おおっ! これはすごい! 大した力もいらんし、スルスル剥けるぞ!」
不器用な手つきで恐る恐るピーラーを動かしていた男性の顔に明るい笑みが浮かぶ。じゃがいもや人参の皮はピーラーで安全にカット。目に染みる大量の玉ねぎは紐を引くだけで一瞬でみじん切りができるハンディチョッパーを活用。
市販のカレールーを使わず、計量スプーンで正確にスパイスをブレンド。目盛り通りに混ぜる作業は男性陣の実験感覚をくすぐり大好評。火が通りにくいゴロっとした肉ではなく、火の通りが早く失敗の少ないひき肉を使用。炒めた玉ねぎとスパイスの香りが部屋いっぱいに広がる。
「ふふふっ!」
指導しながら理恵はふと不思議な感覚に捉われていた。いつものテトラなら大吾が大鍋を豪快に振ったり、最近は魔法使いのミレイが火加減を調整してくれたり、結衣がミリ単位で食材のカロリーを分析したりしている。
テトラでは魔獣の肉や見たこともない珍しい野菜、時には魔法の力まで飛び交う賑やかで破天荒な日常が当たり前だった。しかし今目の前にあるのは――
不器用な手つきで計量スプーンを真剣に見つめるおじいさんや「玉ねぎがこんなに甘い匂いになってきました!」と子供のように目を輝かせる男性の姿。包丁もまともに扱えず魔法どころか特別な技法もない、しかし一生懸命に料理と向き合うこちらの世界の当たり前。
「なんだか……すごく新鮮だなあ」
理恵の胸に温かい愛おしさが込み上げてくる。
約一時間半後。
テーブルの上には参加者たちの手で皮を剥き、スパイスを調合して作り上げた、つやつやと輝く本格カレーが並んだ。
「さあ、みなさん! 美味しいスパイスキーマカレーの完成です!」
「いただきます!」
ぎこちなくスプーンを動かし、最初の一口を口に運んだ生徒たちの表情が一変する。
「う、美味いっ!」
「ルーを使ってないのに簡単で店のカレーみたいにコクがあってスパイシーだ!」
「僕が作った料理がこんなに美味いなんて……妻にも作って食べさせてやりたい」
感極まったように何度も頷きながらカレーを頬張る男性たち。
「ふふ、みなさんが丁寧にスパイスを炒めてくれたおかげですよ!」
理恵が優しく声をかけると調理室のあちこちから「先生、ありがとうございました!」「料理ってこんなに楽しかったんですね!」と感謝の声が弾けた。
お土産のスパイスセットが入ったを手提げバッグを揺らしながら理恵は夕焼け空を見上げた。
「ただいま!」
テトラ・アコードの扉を開けると、そこにはいつもと変わらない光景があった。
「おう、お帰り理恵。料理教室はどうだった?」
大吾が厨房から顔を出し、陽菜が「お母さんお疲れ様!」と駆け寄ってくる。結衣は蒼い眼鏡を直しながら「初心者向けカリキュラムの達成率……気になるところですね」と呟いた。
「うん! すっごく楽しかったよ!」
理恵は満面の笑みを浮かべ二人に抱きついた。
「特別な食材がなくても魔法がなくても、誰かのために美味しくなれって気持ちで作る料理は、どこでも変わらず温かいんだね」
少し戸惑ったけれど、やっぱり料理は素晴らしい。心に優しい灯火をともした理恵を迎え、今夜もテトラ・アコードは、香ばしい出汁の香りと家族の笑顔に包まれる。




