64 炭火の香気と夏を告げる鮎の塩焼き
初夏の陽気が心地よい、ある日の午後。
テトラ・アコードの店先には、いつもと違う香ばしい煙と、食欲をそそる芳醇な香りが漂っていた。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 獲れたての鮎の塩焼きだよーっ! 一串たったの200円! 炭火でじっくり焼いてるから骨まで丸ごと食べられるよ!」
店先で団扇をパタパタと仰ぎながら、陽菜は元気いっぱい声を張り上げている。隣では理恵が慣れた手つきで竹串に打たれた綺麗な踊り焼きの鮎に塩を振っていた。
提供方法は二つある。
一つはテイクアウトスタイル。
炭火で皮目をパリッと焼き上げた熱々の鮎を竹串のまま手渡し。香ばしい皮と柔らかな身を歩きながらがぶりとかぶりつく。
もう一つはイートインスタイル。
頭や骨が苦手な人向けだ。丸ごと食べるのはちょっとという客に店内席を解放。冷たいお茶とともに皿盛りで提供する。
「おいおい、四和の奥さん! こんな丸々と太った立派な鮎が一串200円なんて本気かい? どこかの高級料亭なら五倍は取るぜ」
通りかかった街の料理人が目を丸くして驚く。
「ふふふ、いいのよ。今日はお金儲けのためじゃなくて、みんなに美味しい鮎をいっぱい食べてほしいだけだからね」
理恵は優しく微笑む。実はこの鮎テトラ・アコードの仕入れルートである近くの漁師が、今期の異様な豊漁によって市場で値崩れを起こし、大量の在庫を抱えて困り果てていたところを、大吾と理恵が「例年の価格で全部買い取ってやる」と引き受けたものだった。もちろん利益など一円も見込んでいない。むしろ完売しても赤字だ。しかし困っている知り合いを助け、街の人々に旬の美味を楽しんでもらう――それこそが四和家の流儀だった。
「それじゃあ、テイクアウトで二本くれ!」
「私と子どもは店内でお願いします!」
破格の値段と香ばしい煙の誘惑に抗える者などいるはずもなく、店先にはあっという間に長蛇の列が出来上がった。焼きたてにかぶりついた客たちの歓声があちこちから上がる。
「う、美味い! 皮はパリッと香ばしいのに中の身は驚くほどふわふわでジューシーだ!」
「内臓の微かな苦みと振り塩の塩気が絶妙過ぎる! まさに香魚の名にふさわしい。爽やかな清流の香りが口いっぱいに広がるぞ!」
店内でイートイン客のお茶を運んでいた結衣が蒼い眼鏡の位置をすっと直した。
「備長炭による遠赤外線効果で表面のタンパク質を一気に凝縮。内部の水分率を82%に保持したまま全加熱。この品質の鮎を200円で提供する費用対効果は完全に崩壊しているけど、地域社会の幸福度の維持という観点からは極めて合理的ですね」
「予定通りにいかねえのが料理の世界なんだよ」
厨房の奥で追加の仕込みをしていた大吾が無骨に笑った。飛び交う笑顔と炭火の残り香、夕暮れ前には数百匹用意していた鮎は跡形もなく完売した。
「はあ! 今日もすごかったね、お母さん!」
「ふふふ、お疲れ様。漁師さんも『本当に助かった』って喜んでくれてたし大成功だったね!」
屋台を畳んだあと冷たい麦茶で乾杯する四和家の面々。手には少し焦げた炭の匂いと満足感。儲けなんて出なくても誰かの困りごとを美味い料理に変えて街中に笑顔を広げてしまう。
テトラ・アコード。
そこは一串の鮎の塩焼きを通じて、人の温もりと旬の恵みが心地よく響き合う、どこまでも優しい場所であった。




