63 湯気越しの酒杯と異世界の仲間たち
深夜零時。
営業を終えて行灯の明かりだけが優しく灯るテトラ・アコードの静かな店内。カウンターの上には、小さな七輪と、そこに置かれた浅い土鍋。澄んだ昆布出汁の中で、真っ白な豆腐がゆらゆらと揺れ、静かに湯気を立てていた。
「派手な具材はなにもねえぞ。昆布出汁と豆腐、それに削り立ての鰹節と刻みネギ、ポン酢醤油だけだ。とりあえず食ってみてくれ」
大吾は手に持った小鉢へ豆腐をすくい取り、カウンターの端に座るシオンの前へ差し出した。
「やあ、いいねえ。こういうシンプルなものが一番酒に合うんだ」
流れるような所作でポン酢を垂らし、シオンは湯気が立つ豆腐を口へ運んだ。
――ハフ、ハフ、ハフ。
「ふう、美味いねえ。口に入れた瞬間に大豆の甘みがほどけて、鰹と昆布の深い出汁が追いかけてくる。シンプルだからこそ、素材と出汁の誤魔化しが利かない。まさに大吾の腕の賜物だ」
シオンは手元のぐい呑みを傾けて酒をくっと飲み干した。
普段の二人であれば、ここから料理論が始まるのが常だった。例えば「俺の出汁の引き方はこうだ」とか「いやいや、異世界のスパイスならもっと引き立つ」とか、職人としての意地をぶつけ合うのが風物詩なのである。
だが、今夜は違った。
シオンは豆腐をもう一口運び、ふっと目を細めて店の奥へと視線を向けた。
「なあ、大吾。今夜は料理の自慢話はやめにしないかい?」
「柄にもねえな。いつもの『僕の仕込みの方が上だ』って話はなしにするのか?」
「ふふ、たまにはね。今夜はさ、この店に集まってくる異世界人の話をしようと思ってね」
大吾は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐにふっと口元を緩めて猪口に酒を注いだ。
「あいつら……ね」
「一番最初に驚いたのは、やっぱりあの女騎士だね」
「エルザのことか?」
「最初は強張った顔で規律だの義務だの言っていたのに今じゃどうだい? 冗談を真に受けてOLの格好で街を歩いたり、おにぎりを口いっぱいに頬張ったりしている。あの頑なだった甲冑の下に――あんなに可愛らしい素顔が隠れていたなんてね」
「そうか? 俺は最初からいい奴だと感じたけどな。まあ、あの頃は俺も常識ある料理人だったからか?」
「ははは、異世界人を相手にするのは大変だからね。おかしくなるのもわかるよ」
大吾は湯豆腐の湯気を見つめながら呟いた。
「だが、根が真面目な分、美味いものを食ったときの顔がいい。あいつが満足そうに笑うと異世界の平和を守る重圧も少しは軽くなってんのかなと思うぜ」
「ガンズ司令官もそうだね。国境の防衛戦で擦り切れていた青年が、バゲット付きのビーフシチュー一杯で涙を流して生き返る。大吾、君たちの料理はただ腹を満たすだけじゃない。戦う騎士たちの命の灯火を消さないための薪になっているんだ」
「大袈裟なんだよ、お前は」
大吾は照れくさそうに頭を掻いた。
「大袈裟なものか……バルドの頑固親父だってそうだ。適当に叩いた変な鉄鍋で皆が嬉しそうに肉を焼くのを見て、見たこともないような笑顔を作っていたからね。あいつにとっても――ここはただの店じゃないんだ」
「最近は新しい顔も増えたからな」
大吾は酒を注いだ猪口を傾ける。
「ミナの奴だ。最初はがむしゃらに異世界にねえ麺料理を作ろうとして撃沈してたが、コウと出逢って今じゃ立派な家系ラーメンを出してやがる。先日迷い込んできたあの魔法使いの少女もそうだ。カレーうどんに驚いて、すげえ指輪を残していきやがった」
「ふふふっ、みんなこの店に引き寄せられてくるんだよ」
シオンは温かい湯豆腐の小鉢を見つめながら静かに言った。
「異世界はさ、戦いや立場、種族の違いでいつだってピリピリしている。だけどさ、この扉を跨ぐと誰もがただの腹を空かせた客になれる。大吾の無骨だけど温かい料理と、理恵さんの優しさ、結衣ちゃんの冷静な分析、そして陽菜ちゃんの弾けるような笑顔。それがあるから――どんな奴でも素直になれるのさ」
シオンがぐい呑みを掲げると大吾も黙って猪口を重ねた。
――チンッ!
静かな店内に小さな陶器の合奏が響く。
「おい、シオン。豆腐が冷めるぞ」
「おっと、そうだね。冷めないうちに頂こう」
二人は湯気の立つ湯豆腐を食べながら静かに酒を酌み交わし続けた。
異世界からやってくる様々な悩みや傷を抱えた人々。その誰もがここで笑顔を取り戻していく。今夜もテトラ・アコードは、温かい湯気と出汁の香りに包まれながら、静かに優しく、街の夜を温め続けているのだった。




