59 総司令官の休息と至高の喫茶店風・バゲット付きビーフシチュー
「できたぁーっ! お母さん、見て見て!」
午後のテトラ・アコードの厨房で、陽菜が嬉しそうに声を上げた。
大きな深鍋でぐつぐつと音を立てているのは、濃厚なデミグラスソースの香りを漂わせる特製のビーフシチューだ。ごろっとした大きな牛肉、しっかり煮込まれたジャガイモとニンジン、そして中央にはとろーり溶けたチーズと生クリームが綺麗に回しかけられている。サイドにはこんがりと香ばしく焼き上げられた大ぶりのバゲットがどっさりと添えられていた。
「うん! 完璧だよ、陽菜!」
横で優しく見守っていた理恵が満足そうに頷く。
「牛肉の旨味を閉じ込める焼き加減も、赤ワインの酸味を飛ばす火加減も、バゲットの表面をサクッと焼き上げるコツも、全部しっかりマスターできたね!」
「えへへ、お母さんのアドバイスのおかげだよ! お肉も柔らかく煮込めたし、このバゲットを濃厚なシチューのソースにどっぷり浸して食べたら絶対に最高だよね!」
そこへ結衣が蒼い眼鏡の位置を直しながら現れた。
「牛肉のアミノ酸濃度、デミグラスの粘度、バゲットの気孔構造によるソース吸水率、完璧な喫茶店風・極上ビーフシチューセットね。ただし分量が明らかに四和家の夕食分を超過しているわ」
「あ、そうなの!」
陽菜は照れ臭そうに頭を掻いた。
「実はね……このビーフシチュー、ガンズさんに届けてあげたいんだ」
防衛隊長だったガンズは先日の北の山嶺遠征や数々の功績が認められ、この度、一時的であるが北部国境防衛総司令官へと大出世を果たしていた。しかし出世と引き換えに彼を待っていたのは過酷な現実だったのである。
隣国との国境線で勃発した小規模な激突。ガンズ率いる防衛隊は圧倒的な物量差を誇る敵軍に対し、知略と粘り強さでなんとか辛勝したものの、連日の緊張と不眠不休の指揮により、ガンズも部下たちも心身ともに限界まで疲弊し切っていたのだ。
「ガンズさんたち国境の臨時陣地で冷たい干し肉くらいしか食べてないと思うんだよね。だからこの温かいシチューで、お祝いとお疲れ様を伝えたいんだ」
「よし、なら持っていってやりな」
厨房の奥から顔を出した大吾が無骨に頷く。
「出世祝いにしては地味かもしれねえが、今のあいつに必要なのは腹に染みる本物の美味さかもしれないな。結衣、例の転送コンテナを用意してやれ」
「保温・空間固定モードで転送シークエンスを構築します」
国境線の臨時前線基地。
泥と硝煙の匂いが残る司令部テントで、ガンズは重い甲冑を半ば外したまま、書類の山に囲まれて深く溜め息を吐いていた。
「勝ったはいいが……隊員たちの疲労も限界だ。俺自身、もう何日も温かい飯を食べていない」
圧しかかる責任の重さと戦場の緊張感に、ガンズの心はすっかり擦り減っていた。
――カツン。
テントの隅に置かれていた通信用魔導具が青く光り、大きな保温コンテナが忽然と姿を現した。添えられていた手紙には、陽菜の元気な文字が躍っていた。
『ガンズさんへ! 総司令官への出世、防衛戦の勝利、おめでとうございます! 疲れた身体を癒やしてください。お母さんと一緒に作った特製ビーフシチューとバゲットです。温かいうちに食べてね! 陽菜より』
「陽菜……テトラ・アコードからの物資か?」
ガンズが震える手でコンテナの蓋を開けると、一瞬でテント内に奇跡のような光景が広がった。
ぶわっと立ち上る濃厚なデミグラスソースと香ばしい小麦の香り。そこにはまるで出来立てそのものの、あつあつでぐつぐつと煮立つビーフシチューと、サクサクのバゲットが綺麗に収められていた。ガンズは吸い寄せられるようにスプーンを取り、シチューの中の大きな牛肉を掬って口へ運んだ。
――――っ!
噛んだ瞬間、肉がホロホロと口の中で崩れ落ち、凝縮された赤身の旨味とコク深いデミグラスソースが口いっぱいに広がる。
「柔らかい……旨味が身体の隅々にまで染み渡っていくようだ」
次にガンズは大ぶりのバゲットを手にとった。分厚くカットされたバゲットを、濃厚なビーフシチューの海へ深く浸し、ソースをたっぷりと染み込ませてから豪快にかぶりつく。
サクッ、じゅわわわわわ!
表面の香ばしいサクサク感のあと、バゲットの白い生地から染み出してきたのは、熱々のビーフシチューと溶けたチーズの濃厚なコク。
「う、美味い。香ばしいパンとこの濃厚なソースが信じられないほど合っている。浸して食べる……ただそれだけなのに……なんでこんなに愛おしく心が温まるんだ」
過酷な戦場で荒み切っていたガンズの心と身体が、一口食べるごとに優しく解きほぐされていく。気付けば目からは一筋の涙が溢れていた。
「ああ……生き返る。俺は笑顔を守るために戦っていたんだな」
ガンズは器の底に残ったソースまで一滴残らず拭い取り、最後のバゲットを幸せそうに噛み締めたのだった。
数日後。
前線から一時帰還したガンズは、すっかり元気を取り戻した顔でテトラ・アコードに来店した。
「陽菜、先日は最高のビーフシチューをありがとう! おかげで生き返った」
「ガンズさん! お帰りなさい!」
陽菜が元気に迎える。
テトラ・アコード。
そこは過酷な戦いを生き抜いた戦士の疲れさえも、陽菜の愛情と理恵の技が詰まったあつあつのシチューと、香ばしいバゲットで優しく包み込み明日への糧へと変えてしまうのだった。




