56 蒼い眼鏡と公園のホットケーキ
私の休日のスケジュールは常に効率的かつ論理的に組み立てられている。
今日は日差しが心地よい午後。私は近所の公園のベンチに腰掛け、魔術回路の構造最適化に関する難解な魔術書を解読していた。耳に届くのは木々の揺れる音と鳥のさえずりだけ――集中力を高めるには完璧な環境のはずだった。
「ああ、やっぱり君だったね。蒼いフレームの美しき眼鏡乙女」
突如として頭上から降ってきた高らかな声に、私は思考を中断せざるを得なくなった。視線を本から上げると、そこに立っていたのは以前、私の眼鏡について熱弁を振るっていった、あの眼鏡愛好家の少年だった。
「ああ……あなたね」
私はすっと蒼い眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げて無機質な視線を向けた。
「私のパーソナルスペースへの唐突な侵入は、読書の集中力曲線を著しく低下させるわ。用件を極めて簡潔に述べなさい」
「ふふふっ、相変わらず冷ややかな眼差し。だが、それこそが美人系眼鏡っ娘の真髄! 今日は君という至高の存在を前に僕が長年温めてきた『眼鏡っ娘理論』を披露させてもらおう」
「結構です」
少年は私の制止など最初から耳に入っていない様子で、隣の空きスペースに当然のように腰掛けた。そして頼んでもいない講義が始まる。
「まずは起! 眼鏡という不可視の障壁によって守られた知性と神秘性の提示! これがなくては始まらない! 次に承! ふとした瞬間に見せる眼鏡の奥の揺らめく感情や、指先でフレームを直す仕草による洗練された美の強調!」
「突っ込みどころ満載ね。まず眼鏡は不可視じゃない。私にとって眼鏡は視力矯正および魔力視認の補助器具に過ぎないわ」
「甘い、甘過ぎるよ! そんな残念な考えだと検定に落ちてしまう」
「なんの検定か知らないけど、私は受けないから大丈夫」
「いや、僕が勝手に試験官として全国の眼鏡っ娘を検定しているんだよ。だからすでに試験は始まっているんだ」
「迷惑極まりないわね。私は不合格でいいから関わらないでくれる?」
「はっはっはっ、それは無理かな。合格するまで眼鏡っ娘の魅力を語り続けるからさ」
「警察案件――今まで捕まらなかったのが奇跡ね」
「はっはっはっ、警察の厄介になったことなら山ほどあるよ。しかし眼鏡っ娘を褒めて褒めて褒め倒して自身の魅力に気付かせる行為は違法じゃないからね。すぐにお咎めなしになるんだ」
結衣は頭を抱える。
「地獄ね。全国の眼鏡をかけている女性に謝罪してほしい」
「まあ、勢い余って眼鏡を舐めようとしたときは反省している」
「いやいやいや、それは警察案件でしょ!」
「実際に舐めたわけじゃないからね。それに眼鏡を褒められて嫌がる眼鏡っ娘はいない。ただ僕が不審者に見えるだけだ」
「自覚あるならやめなさいよ」
「世の中にはいきなり暴言を吐く奴とかいるだろ? 僕は見ず知らずの眼鏡っ娘に褒め言葉しか使わない」
「それはそれで怖いけどね」
「とりあえず理論の続きを語るとしよう」
少年は頼まれてもいない講義を再開する。
「転! ここが最大のクライマックスだ! ふとしたハプニングで眼鏡がズレて一瞬だけ露わになる素顔――それを誰にも知られずかけ直してあげるのが最高の瞬間だ! この技術に全人類は屈服する!」
「…………」
私は呆れ果てて本を閉じ、その場を立ち去ろうとした。撤退行動を開始する――そう脳内でコマンドを打ち込んだはずだった。
なのに――なぜか足が動かない。
少年の語る「最後の結とは眼鏡越しに結ばれる視線と心の調和である!」という支離滅裂な情熱に毒されたわけではない。ただ少年のあまりにもブレない迷いのなさ、そしてなんだかんだで私の眼鏡という属性を極限まで肯定してくる謎の熱量に毒気を抜かれてしまっているのだ。
私が密かに頭を抱えていると、不意にぱたぱたと走り寄ってくる足音が聞こえた。
「あーっ、やっぱり結衣だ!」
振り返ると大きなピクニックバスケットを手にした理恵が笑顔で手を振っていた。
「どうしたの、お母さん?」
「おやつを作ったんだけど結衣が公園に行ったって聞いたから持ってきちゃった。あら、お友達も一緒?」
「友達ではありません。単なる通りすがりの変態です」
「よく言われるんですよね、変態ってさ」
「常習犯なのかよ」
「ふふふ、まあまあ、ホットケーキがあるから一緒に食べましょう」
理恵はバスケットから――バスケットのサイズからは考えられないほど大きな皿を取り出した。そこには完璧なキツネ色に焼き上げられた厚切りのホットケーキが何枚も美しく重なっている。表面にはバターがとろりと溶け、メープルシロップの甘く香ばしい香りが立ち上っていた。
「ちょっと待って……店からここまで20分以上かかるはず。なぜホットケーキの表面温度が直火から下ろした直後の状態を維持しているの?」
「えへへ、大吾さんに内緒で結衣の魔導具『保温・時空固定の印』の試作品をバスケットの底に忍ばせておいたの! だから出来たてあつあつだよ!」
湯気が立つホットケーキから溢れ出る甘い香りに少年の鼻がひくっと動いた。
「ほほう……これは見事なホットケーキですね。では遠慮なく頂きます!」
少年はバスケットから差し出されたフォークを受け取ると、特に驚く様子もなく、ホットケーキを切り分けて口に運んだ。
私は少年の様子を観察した。
公園のベンチでバスケットから湯気立つあつあつのホットケーキが出てくるという、明らかに物理法則を無視した魔導具による不思議な現象。普通なら驚愕するか種明かしを求めるはずだ。しかし少年はただ純粋に目を見開き美味しそうにホットケーキを頬張っている。
「美味い! 外はサクッと香ばしくて中は驚くほどふんわりとしている。メープルの甘みとバターの塩気が完璧なバランスだ。これほどのホットケーキを出せる店はほとんどないかも?」
「でしょでしょーっ! 特製のじっくり弱火焼きホットケーキなの」
少年は幸せそうに口元を緩めて私の方を見た。
「不条理な出来事にいちいち理由を求めて立ち止まるのはナンセンスだからね。目の前にある素晴らしいものをただ享受する――それこそが僕の美学さ。このホットケーキも君の完璧な眼鏡姿もね」
「余計なお世話よ」
私は一口大に切ったホットケーキをフォークで突いて口へと運んだ。
――――っ!
サクッとした表面の食感のあと、口いっぱいに広がる優しい小麦の風味と、出来たてならではの温かい甘み。お母さんの作る料理はいつも計算や数値を超えた幸せの味がする。
「美味しい。温度保持も完璧ね」
「よかった! 結衣が笑顔になると――やっぱり眼鏡がすっごく映えるわね」
「お母さんまで余計なことを言わないで」
少年はホットケーキを美味しそうに食べ進めながら、再び眼鏡理論の結における視線誘導の美学について語り始めた。相変わらず話の八割は意味不明で、うんざりするような内容だったけどね。
ぽかぽかと温かい午後の光の中。
あつあつのホットケーキの甘い香りと、少年の呆れるほどの情熱、そして理恵の楽しそうな笑い声が交差する。席を立てなかった理由は、きっと私の計算式では弾き出せない。ただこの少し騒がしくて温かい時間を、私の蒼い眼鏡はどこか愛おしそうに映し出しているのだった。




