54 四和家の休日と極上和牛食べ比べしゃぶしゃぶ
「ねえねえ、今夜は思い切って贅沢しちゃわない? 異世界のみんなには内緒で四和家の団欒しゃぶしゃぶパーティーを開催しましょう!」
夕方、理恵が弾んだ声で厨房に飛び込んできた。腕に抱えられた大きな保冷箱からは保冷剤の冷気とともに只者ではないオーラが漂っている。
「ちょっとお母さん、それって?」
陽菜が目を丸くして中を覗き込むと箱の中には美しくサシの入った極上の和牛が何種類も綺麗に並べられていた。
「ふふん、すごいでしょ! 米沢牛の極上サーロイン、松阪牛の肩ロース、それと神戸牛の赤身! 全国から銘柄牛のしゃぶしゃぶ用肉を取り寄せちゃった」
「おいおい……こんな高い肉を集めてどうするつもりなんだ? 店で出したら一体いくらになるか――」
大吾が首を傾げながら腕を組むと理恵は悪戯っぽく微笑んだ。
「違う違う! これはお店じゃなくて私たち家族だけで全部食べるの。毎日異世界のお客さんで大忙しでしょう? たまには家族水入らずで、のんびり最高のお肉を食べ比べしようよ」
「賛成」
結衣は蒼い眼鏡の位置を直して珍しく表情を緩めた。
「各ブランド牛の脂質の融点、およびアミノ酸組成の比較データ、非常に興味深いサンプリングが取れそう。今夜は早めに店を閉めるべきです」
「私の答えは聞かなくてもわかるよね?」
にんまりと陽菜は微笑む。
「まったく……お前たちがそう言うなら仕方ねえな。俺も高級和牛の食べ比べには興味があったから一石二鳥だ」
「え、そうなの? お父さんにしては意外。てっきり食べ慣れてるのかなと思ってた」
「仕事の味見と食べ比べは違うだろ?」
「なるほど、確かにそうかも」
午後八時、大吾は不器用な笑みを浮かべながら表に本日貸切の札を掲げた。
店の土鍋に昆布だけでシンプルに出汁を取り、四人掛け用のテーブルにセットする。用意されたのはポン酢、胡麻ダレ、そして大吾特製の辛味出汁醤油。
「さあさあ、まずは山形が誇る米沢牛からいってみよう!」
理恵は見事な霜降りの米沢牛を箸で持ち上げて沸き立つ出汁に軽く潜らせた。鮮やかなピンク色が一瞬で濃い桜色へと変わり、旨味の脂が出汁にうっすらと広がっていく。
「はい、陽菜どうぞ!」
「わあ、一番乗り。いただきます!」
陽菜は自家製ポン酢を少しつけて口へ運ぶ。
――――っ!
「んんんっ! 美味しい! 噛まなくても口の中でとろけて消えちゃう」
陽菜は幸せそうに頬を崩す。
「脂がすごく甘いのに全然しつこくないよ。すごい、これが米沢牛なんだ!」
鍋奉行なのか理恵は取り箸を手放さず、家族分の肉を湯に潜らせていく。しゃぶしゃぶなので時間はかからない。結衣、大吾、理恵の順で食べてそれぞれの感想を口にする。
「次は松阪牛の肩ロースね」
肉を渡された結衣は濃厚な胡麻ダレに潜らせて口にした。
「和牛香と呼ばれる芳醇な香りの密度が極めて高いですね。加熱された脂肪分が口内で瞬時に液体化し、赤身の強い旨味と融合する――まさに脂の芸術」
「どれどれ――」
大吾は神戸牛の赤身を箸で掴み、さっと出汁に潜らせて特製醤油で食した。
「大吾さん、あるんだから取り箸を使ってよ。いくら家族でもマナーは守ってほしい」
「まあまあ、お母さん。せっかく美味しい和牛を食べ比べてるんだから喧嘩はなし!」
「ふむ……やっぱり神戸は赤身のコクが別格だな。噛むほどに肉本来の強い旨味が染み出てくる。霜降りもいいが――このしっかりした肉の味は酒が進んで困るぜ」
「だよねだよね! 米沢牛は上質で上品な脂の甘み、松阪牛はとろける甘い香りとコク、神戸牛は肉そのものの深い味わい! 同じ和牛でも育った土地と血統でこんなに個性が違うんだね」
理恵は肉を泳がせながらも食べるほうにも余念がない。主催者だけあってそこは譲れないのだろう。事前に用意していた野菜と一緒に食べて選評を行っている。
「ねえお父さん、この米沢牛、ちょっとポン酢に大根おろしを多めに入れると無限に食べられちゃうよ。はい、あーん!」
「おい陽菜、そういうのはやめろ! んぐっ……まあ確かに……おろしの酸味が脂を上手く切って旨味だけが残るな」
「私の計算では肉の旨味が溶け出した出汁で煮込む野菜の美味しさは初期状態の200%増しですね。特にこのネギと椎茸に米沢牛の脂が染み込んで――最高です」
「結衣、普段は冷静なのに肉の時はしっかり箸が伸びるのね」
「これは純粋なデータ採取の一環です」
「理恵、美味い肉にがっつくのは当然だろ? じゃんじゃん楽しめばいいんだよ」
「そうそう、私は次の一周は胡麻ダレで食べてみる。しゃぶしゃぶってやっぱり楽しいよね」
「これだけ肉が豪華なら当然だろ」
「まあ、それはそうかもね」
店内には――いつものがやがやとした異世界の喧騒も、甲冑の鳴る音も、ドワーフの歓声もない。ただ湯気立つ鍋を囲んだ家族四人の弾む会話と、箸と小鉢が触れ合う温かい音だけが響いている。大吾は酒のグラスを傾けながら肉を嬉しそうに食べる娘たちと理恵の姿に目を細めて眺めていた。
「大吾さん、なんだか嬉しそう」
「毎日賑やかなのは良いことだが、たまにはこういう、静かで美味いもんを食う時間も悪くねえと思ってな」
「えへへ、お父さん! 締めのうどんもあるからね。肉の出汁を吸った特製うどんだよ!」「おう、しっかり仕込め。残さず食ってやる」
鍋の底まで綺麗に平らげ、お腹いっぱいになった四人は、お茶を飲みながらほっと一息吐いていた。
「はあ……食べた食べた! 本当に最高のしゃぶしゃぶだったね」
陽菜がお腹を擦りながら満足そうに笑う。結衣も蒼い眼鏡を拭きながら小さく頷いた。
「最高の家族団欒でしっかりパワーチャージしたし、明日からまたテトラ・アコード元気に頑張りましょう!」
理恵の明るい声に大吾も力強く応えた。
「おう。明日はどんな奴らが来店しようが、最高の料理で迎えてやるさ」
窓の外には静かな夜空と外灯に照らされた街並みが広がっている。異世界の英雄も、騎士も、姫もいない、四和家だけの特別な夜。明日からの活力と温かい絆を確かに噛み締めながら、四和家の幸福な夜は静かに更けていくのだった。




